caguirofie

哲学いろいろ

#122

もくじ→2005-05-13 - caguirofie

第三部 キリスト史観

第四章 神の似像の以後

第五節a 神の国

私を知りたまう者よ 御身(おんみ)を知らしめたまえ。私が御身に知られているように 御身を私に知らしめたまえ。わが魂の力よ 魂のうちにはいれ。この魂を御身にふさわしきものとなし 御身がそれを汚れなく皺なく保ちうるようにせよ。それこそはわが希望(のぞみ)。そのためにこそ私は語り すこやかなよろこびをもってよろこぶとき 私はいつもその希望においてよろこぶ。
・・・
ですから神よ 私の告白は あなたのまなざしの前であなたにおいて 沈黙のうちに行なわれながら 実は沈黙のうちに行なわれているのではありません。たしかにそれは 音をたてないという意味では 沈黙のうちに行なわれますが 心の中ではさけび声をあげているのです。
また 私が何か正しいことを人びとに語るとすれば それはまづあなたが私から お聞きになったことばかりです。また あなたが何か正しいことを私からお聞きになるとすれば それはまづあなたが私に話してくださったことばかりなのです。
アウグスティヌス:告白 10・1−2)

アウグスティヌスは 《告白》第十巻をこのように始めます。
つまり 第一巻ないし第九巻までで過去の告白は終え この巻でアフリカの地ヒッポの司教としてかれの現在の自己省察を始めます(山田晶 訳注)。このように現在の告白に移行してゆくことは あまりいい名称ではありませんが 言わば《神の似像》以後のキリスト者の生です。

  • なぜそう言うかというと 前節で見たように 《知覚と知解とは同一である》という神の永遠の本性が ――フォイエルバッハを通して――マルクスによって 人間の本性 人間の本質能力であるとさえ 言われた あるいは 見られるようになった歴史は 歴史として 人間の有であるからです。むろんわれわれは 三位一体が 人間の三一性と同じであるとは言わないでしょう。なぜなら 人間の三一性は 三行為能力の一体であり たしかに主体なる人間の有であり しかるに 三位一体においては 三つのペルソナが一つの本質でいますのであり 創られずして創る本性じたいが存在なのであり それは 神の有でもなければ――つまり神そのお方じしんなのであり―― 神は この有としての行為能力をもって時間的に行為するお方でもないからである。
  • すなわち やしろの望楼に立ってキリストを見まつるということと 人間がこのやしろの望楼とも言うべき《社会的諸関係の総和》なる視点を 人間の本性として(またそれら諸三一性過程の総体として)自己のもとに有するということとは 微妙に異なる。つまり前者は まづはじめに愛なる行為であり 後者は――たしかに愛から出発するも――まだ知解行為である。しかし 愛は たとい知解行為なしで そのすべてを知らずとも 全体として知るなら 生きて史観として過程する。言いかえると 知らないということと 思わないということとは 別であった。これによって フォイエルバッハマルクスを貶めたことにはならないであろう。マルクス主義といった唯物史観として 独立――独立――するとき そこに或る欠陥が生じるとわれわれは言った。

第十巻第二章の題は 《隠れたことも神には知られたいるのに 神に告白するとはいかなることであるのか》です。(原文にこれはなく 後世の人の手になる章全体の要約です)。しかしここに 経験的なものごとを超えて かつ経験的なものの言葉によって為す人間の言葉が見出されるのではないでしょうか。《ただ神のうちにのみ希望とよろこびとがある》(=第一章の要約)ことは真実です。《これに反し この世の他のすべてのものは 逆に 嘆かないならば ますます嘆かわしいものとなる》(10・1)。このゆに愛じたいの知解 三位一体じたいの知解は――たしかに滞留しつつも―― 方法論として(だから 実際には 史観である) 有効であると思われます。あえて言うならば マルクスらもこれを通過したということを言っているのであり その確認は いちど必要であると思われたというほどに むしろ史観の理論の原点である。こう思われるゆえであり また この第四章としては いくらか随筆風にわれわれは語っています。


《私が何か正しいことを人びとに語るとすれば それはまづあなたが私からお聞きになったことばかりです。また あなたが何か正しいことを私からお聞きになるとすれば それはまづあなたが私に話してくださったことばかりなのです》という言葉 これは 神の言葉ではなく 人間の言葉です。ところが これが神の言葉の証言というほどに 神の言葉はこのように語れるに より一層ふさわしいのです。このキリストによって われわれは 神を見るのです。しかしキリストは それによって神が万物を創った神の言葉であり したがって神の力・神の知恵です。ところが この神の力のその弱さは――悪魔はあのイエス・キリストを十字架上の死にまで追いやったというほどに 自分はより強く かれはより弱いと思った(またそこで その勝利と思ったとき悪魔は この真理なる人の復活を強いたことになった)―― 人間の強さよりも強く またこの神の知恵の愚かさも――悪魔の差し出す偽りのしかも嘆かわしくも甘美なほどのしんきろう閣に手なづけようとする人の賢さから見れば その楼閣における一見 華美なまでの饗応にあづかることを拒否するあのイエス・キリストの愚かさは―― 人間の賢明さよりも賢いです。
この心の中の叫び声は(――弱さつまり強さとして 《わが神 わが神 なにゆえ我を見捨てたましや》 愚かさつまり賢さとして 《人はパンのみにて生くるものにあらず》なる叫び声は――) 人間の言葉であっていかなる国の言葉にも属していません。しかもこの人間の言葉は そのまま 神の言葉そのものではありません。その叫びとも言うべき言葉は これは実体(神の言葉)にしたがって理解すべきものです。このアマテラス概念をとおして捉えたとも言うべき言葉は そのまま文字どおりに アマテラス語として固定して理解されてはならず 永遠の生命の観想あるいは有限な生命の過程的な動態 すなわち史観の原理と史観という生において 捉えられているものでなければなりません。
ここでかれは 神の似像として神の国にとどまるというほどに 神の国は かしこの永遠の座に堅く立っているばかりではなく この地上の有限なる生命に 生きて 到来するでしょう。また 国というほどに その経験的なことがらにおいてそれは 理解されるべきではなく そう語られるのがふさわしいというほどの実体であることになります。(またその《国》の《外交官(使徒)》とも)。《わが神 わが神 なにゆえ我を見捨てたまうたか》と人間の言葉によって発せられるほどに そこに神の言葉の実体が理解されるべきであり 《〔心の〕貧しい人が 幸いであり 神を見るであろう》と言われ 《貧しい人》がもしプロレタリアであるとするなら マルクスが 三一性なる人間の本性を固く保った歴史主体を このプロレタリアその人のたしかに自己還帰を告知したのである(原唯物史観)とともに かれがそれによって生き動き存在するところの神を問い求め見出したのである(キリスト史観)と わたしたちは たしかに言っていなければならないのではあるまいか。
そうであるなら すでに神の国はここに到来しているのです。誰もこの言葉・力・知恵を 人間の生命から引き離すことはできないからです。引き離そうとすることが 狂気なのか それとも このように明言することが 狂気であるのか。

(つづく→caguirofie070915)