caguirofie

哲学いろいろ

#123

もくじ→2005-05-13 - caguirofie

第三部 キリスト史観

第四章 神の似像の以後

第五節b 神の国

まこと 御身よ あなたは真実を愛したまう。真実を行なう者こそは 光のもとに来る。私はその真実をつくしたい。心の中では御前でこの告白により 多くの証人の前ではこの記録によって 私は真実をつくしたい。
(告白10・1)

と言って 義を問い求め見出し なお飢え渇くといってのように問い求める人の列は たとい隠れていても 神には知られている。だから 経験的なものを超えて かれらは人間の言葉に到達する。その人びとのいま忍耐して待ち望む神の国は かしこの永遠の座に確く立っていると言われるとき それは その義が裁きに変わるまで 王がその椅子に坐るまでです。だから《国ひとは あなたの前で 王の敵の心で倒れむとす》るのです。王が 神の言葉すなわち不可視的にして 一度は死んだが復活してなお生きるキリストであることは 明白です。この実体は 人間の真実というように このように語るのがふさわしいということになります。
だからわたしたちは 

けれどもいまや 私のためいきは 私が自分自身に不満を感じている証拠ですから あなたこそは私にとって輝きであり満足であり 愛され熱望されるものであり そのため私はわが身を恥ぢ 自己を投げすて かわりにあなたをえらび ただあなたによってのみ あなたにも自分自身にも満足のゆく者になろうとしている。
(告白10・2)

と知るのです。この《ためいき》は もはや神の似像以後と言ってのように 《阿片》とはならないでしょう。しかしこのような内的な主観形成(《日から日へ変えられる》)は 必要であり これを理性的に知解することがまづ 史観の理論を形成しているとわたしたちは見るのでした。むろん これに付随するといってのように さまざまな分野での理論・科学は 職業として必要であり現実であります。したがって職業(つまりむろん 召命)とかいわゆる労働・仕事とかが ふたたびあらためて 問い直されることになるでしょう。その義が裁きに変わるまで 王がその椅子に着くまでと言ってのように。
光の子らに 失望はなく つまづくこともないでしょう。神は その能力以上に試したまうことはなく つねに避け所となるかのように 糸口を与えてくださいます。しかし 《私の威厳が通り過ぎるやいなや あなたは岩の上に立つであろう》と語られた。

もしわたしたちがキリストと一体になってその死の姿にあやかるならば その復活の姿にもあやかれるでしょう。
パウロ:ローマ書 6:5)

わたしは キリストと一緒に十字架につけられています。生きているのは もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。わたしが今この世に生きているのは わたしを愛し わたしのために身をささげられた《神の子》に対する信仰によるものです。
パウロ:ガラテア書2:19−20)

しかしながら 神は 悪魔が死の仲介者であるのに対して かれは生命の制作者であり仲介者です。かれは わたしたちが存在しないように存在させたまう方ではありません。
悪魔は 初めから真理の中にいなかったごとく 本心から――人間の真実の言葉として――嘘をつくのです。この嘘が 光の天使に擬装したもの だから容易に欺かれるもの だからこの悪魔に仕える人は あたかも空気のような身体をもって義に仕えていると見せかけるというほどに しんきろうの中にいる だからこれが虚偽であることは すべての人に承知されていることです。
悪魔は 初めから真理の中にいなかったというその《初めから》は 創造者である神に創られたその初めからという意味ではありません。神によってそれへと造られた人間(もしくは天使)の本性 これからの墜落 すなわち何か悪いことを為したということ自体によって この罪の制作者となったのではなく その本性からの墜落じたいが 神に背く罪すなわち人間の死となる しかも 人間はその一たんの死が死ぬことができるのに対して 悪魔はこの一たんの死が死ぬことから無縁となるというほどに 初めの墜落という人間(もしくは天使)の死が死なない。つまりそのような第二の死をもって 人びとを自分の力の支配の下に捕獲して(毒を食らわば皿まで) 罪と死を制作するのです。この空中の権能が あまりにも甘美な 嘆かわしくも甘美なこの世の饗応なるしんきろうをかたち作って 人びとを眠りに陥らせるのです。
神によって派遣された神の言葉(すなわちキリスト・イエス)は その全能によって その権力によって この悪魔を征服することができたにもかかわらず わづかのあいだ天使よりもご自分を低くされて 義によって――そしてそれはご自分の肉の死をも欲せられるに至るまでというようにして―― 征服することをえらばれたのです。ご自分の肉の死を欲せられるほどに 義〔なる史観〕によって克服するということにまさって この悪魔を征服し そのもとに捕獲されていた人びとを放免するという手段は 人間にとって有益な癒やしはなかったと言われます。
だから 神はわれわれを見棄てたまわなかったのです。だから いまもというほどに わたしにとって生きるとは このキリストを生きることなのです。このキリストを長子とする人間のともがらは 列をつくって すでに悪魔の捕捉から放免されていたと見出してのように この地上に神の国を見ます。神がこれを約束され またそう為したまうのでないなら 誰がこの悪魔の致命的な策略から免れ 永遠の生命に至ると言うのでしょう。もしすでにこの神の国が その御子の派遣によって 用意されているなら わたしたちは この道を歩み出すのに躊躇してはならない。しかも この神の国は われわれ人間の権能によってのように この地上を支配することになるでしょう。神がこれを為したまうからです。これ以上に明白な人間の歴史はないと思います。またそれは 人間の知恵・人間の理論ではなく 生きて動く史観としての人間の歴史です。そうでなければ 人間は あたかも空中を動く人形にしかすぎません。そうでしかないと思う人びとの存在に対して 笑う者はあの悪魔に与しているように思われます。しかし この悪魔のいわば残党の勝利の笑いの瞬間 そのつかのまの勝利は みごとに覆されて 復活して現在するキリストの来臨を強いることになります。義が裁きに変わるからです。これ以上に明白な神の国の歴史はないでしょう。こう語らないことによって われわれの内に生きて動くキリストの聖霊なる実体を いまだ・あるいはふたたび 十字架からこの地上に引きずり降ろしていることになることも明白です。
この言葉が正しいことであり その正しいことをもしわたしが読者に語るとすれば それは いったいどこからわたしが聞いたことなのでしょう。

(つづく→caguirofie070916)