caguirofie

哲学いろいろ

#124

もくじ→2005-05-13 - caguirofie

第三部 キリスト史観

第四章 神の似像の以後

第六節a キリストの再臨

ですから主よ 私がどのような者であるにせよ この私はあなたにとってまったくあきらかです。
では何のためあなたに告白するのかと いま私はいいました。じっさい私はこの告白を 肉のことばや音声によってするのではなく 魂のことばと思いのさけび声によってするのであり それをあなたの耳はお聞きになります。自分が悪いとき あなたに告白することは この私が自分自身に気にいらないということにほかなりません。これに反し 自分が敬虔であるとき あなたに告白することは 自分の敬虔を自分の功に帰さないということにほかなりません。なぜなら主よ あなたは義人を祝福なさいますが それよりも前にまづあなたは 不敬虔であったその人を義となしたまうたのですから。
(告白10・2)

それでは 神の国が到来した また 到来したとわたしたちが告げ知らされたというとき それは何を意味するでしょうか。
《神の恩恵によって与えられた高貴さが 時の変化とともに動揺するのこの世のあらゆる高さを越えている》(神の国について 1・序)ことでないなら 何でしょうか。《そこに至るのは謙虚の徳によってなのである》(同上)でないなら 人間の言葉に到達するという告白を 何のために人は持つのでしょうか。
そこで わたしたちは正当にも あたかも《神の似像》以後の過程(時代)を立てるというように もはやそれによってわれわれの生き動き存在するところの神ご自身を顕揚するのではなく しかしかれのみ心を告知する力を与えられてのように むしろ直接にはこの《わたし》の主観をこそ主張すべきなのではないでしょうか。神に避け所を見出したというそのこと自体でもなく キリストのやしろなる社会のいろんな科学的分析としての客観的な見取り図といったことでもなく 《わたし》の主観をこそ基軸とすべきではないでしょうか。わたしが科学した こう理論したというそのような一般に主張。これは あたり前のようで あたかもまだ神の似像の時のあえて言えば暗い形の論文や見解あるいは一般に生活日常の会話のそれとは 微妙に異なると言わざるを得ない。言ってみれば――殊に日本人は―― アマテラス語として筋の整った・また 読んでもらわなければいけないというので その意味で読みやすい文章や表現の中に その中にわづかに スサノヲ語(つまりむろん 恣意的な《わたし》のそれでは困るのですが その主張)を 隠れたかたち もっと言えば 暗いkたち(もっともその主張者の顔は明るい表情をとっておるのですが つまり顔はつねにアマテラス語を表現しているのですが)で為すという一種の類型に馴れてしまっている その結果 自己の主張が通ったのではなく その顔蔽いと言うべきアマテラス語が迎えられたということのみが 通って そのような流通経済が 支配的である。
このような言葉の上のコミュニケーションの流通経済が 現実の土台であるとは言いませんが これによって 依然として ともかく一般的にさまざまなかたちの《アマテラス‐スサノヲ》逆立の分離連関が 主観を蔽っている。しかしこの共同主観にかぶさる蔽いは 現実の知解行為・経済活動が土台であるからこそ 容易に取り除けられるしんきろうであることは みなが承知しつつ見ないようにしているそのしろものであります。
共同主観としての主観の主張 それは《自分がわるいとき この私が自分自身に気に入らないということにほかならない》というばかりではなく 《自分が敬虔であるとき 自分の敬虔を自分の功に帰さないということにほかならない》ようになると言うべきなのです。それは このような逆説は成り立たず やはり《自分が悪いとき この私が自分自身にそれでも気にいっていることを告白し 自分の敬虔はこれを自分の功に帰している》ということになるでしょうか。
アマテラス語一辺倒の人は むしろ自分の顔蔽いの面子を保守して そのように 上手に語って自己の欠陥を蔽うと言うべきではないでしょうか。しかしこれが 人間の科学であり 史観でなければならない。だからやはり はじめに帰って 《謙虚の徳》と言ってのように つまりこのように倫理的な言葉で言いつつそれが 倫理規範を超えていたのであるからには むしろ 人間の言葉で 可視的(可感的)には人間の行為の次元で 主観の内なる動きを表現しつつ行為するということに 史観はあるべきではないのか。
《社会的諸関係の総体》についても それは このことに――なぜなら このような人間の本性は本性として それが本質であるという限りで―― 帰着するとさえ 史観は言っているべきである。そうでない史観は いつも外に出かけて ついに帰って来ない。スサノヲ者ではあっても ついに反アマテラス者に終始する。裏返しの(あすなろ)スサノヲ者であると断言しなければならないからです。もっと言うなら そのようなスサノヲ者は あのアマテラス圏で 真正(?)のアマテラス者とともに 実体語と空体語とのあの天秤体制をかたち作って あたかもアマテラス予備軍となっている存在にしかすぎない。
このいまひとつ別種の回転は あの不敬虔の死から生への心の回転とは或る意味で別個に 神の似像〔以後〕の〔告白を伴ないそれを通過してのような〕観想と行為とによりふさわしいと考えられます。それとも これは 不遜なる言辞であり あたかも 《神は高慢なる者たちに立ちむかいたまうが 謙虚な者たちには恵みを与えたまう》のに対して 高慢の思いにふくれ上がった悪霊までがこれを自分のものにしようとして それによって自分が賞讃されることを好むという言葉 すなわち 《服従する者たちをゆるし 高慢な者たちを打ち倒す》というその内実を露呈していると言うべきでしょうか。
主観を語る この意味でのスサノヲイストの言葉 ここにこそ神の国の到来が見られる もしくは 神の国の到来によってそれは裏付けられている このようにこそ あの心の回転以後は 歩むと言うべきではないか。それとも このスサノヲイストの言葉は 身体的肢体の仕組みに限られた恣意的な〔プレ・〕スサノヲ語にしか過ぎないと言うべきでしょうか。いやそうではなく そこにこそ 生きた史観として生きるいのちがあると言われるでしょうか。それともこれは あの墜落への逆戻りであると言われるでしょうか。
《人間の厚かましさが アマテラス語を自己の訓練とともに恣にし これを駆使する操作上の優劣(日本では これが 弁論術となりうる 官僚言葉つまりアマテラス方言)によって 精神の支配関係を打ちたてようと またあたかも打ち立てたものを保守しようとして 奪い取ったアマテラス者の高貴さとは違う 神の恩恵によって与えられた高貴さが 時の変化とともに動揺するこの世のあらゆる高さを越えている》とは どこに問い求め見出されるべきと言うでしょうか。しかし アマテラス者も 《神の恩恵によって与えられた高貴さ》を知っているのであり それを スサノヲイストの英霊と讃えつつ 密教圏に葬ることを 罪の共同自治の根幹としているのです。死者(つまり 主観の包み隠し)に口なしとして つねに事後的にこの共同主観の高貴さを讃えてやればいいのだというのが アマテラス方言政治(それも愛)のやり方です。なぜなら 昼と夜の二重連関 労働の二重性を ことば巧みに アマテラス律法統治の栄光の中に組み入れることによって そのもとにおいてのみ人びとがますます人間的(ムライスム共同和的)になることによって・また なりさえすれば 世の中うまく行くと 内省・思惟し行動しているからです。
ますます人間的(アマテラス‐スサノヲ連関者)になった人びとは しかし この反面で同じくますますその虚偽を見つめつつ ついに この古き人の身体および魂の死を受けとめて 新しき栄光へと復活するのです。神は死にたまうたが そして復活されたが この神は 生ける者の神だからです。その保証金が われわれに与えられているというのでありました。だから まだ受け取っていないとか もっとちょうだいとかと言うのは むしろ自己を誇ることになると考えられた。しかし 虚偽と損傷へ連れて行かれた自己の弱さがあるからこそ 死と復活という史観の方程式として 神はそのみ心を告知されたのでないなら 人間の科学はついにこの世に留まらない。つまり すでに人間は強いのであるならば 《まだ保証金たる聖霊を受け取っていないと言って 自己を誇るべきではない》とは言われなかったでしょう。ここに 神の国の到来 キリストの再臨を見るべきであります。
しかし神は 不可視であります。不在なもの現在であります。人間なる三一性主体が 神なる三位一体を分有するのです。しかもこれは 信仰です。三位一体その方をわれわれは見ているわけではなく 信じるのです。信じるというその思念は 内なる眼で 見ています。だから 《顔と顔を合わせて〔真理を〕見るかの日》には この信仰=時間的存在は 残らなくなります。この生において かのお方を直視しようとして 上昇していこうとは思いません。だから この信仰という動態的な存在が 人間の・理性的に科学的に知解された実態です。
(つづく→caguirofie070917)