caguirofie

哲学いろいろ

#120

もくじ→2005-05-13 - caguirofie

第三部 キリスト史観

第四章 神の似像の以後

第四節a ふたたび アマテラス語の止揚

だから 今後 私たちは――とアウグスティヌスは語り継ぐ―― 神なる三位一体を永遠にして非物体的・不可変的なものそのものにおいて問い求めよう。これの全き観想において 永遠である浄福な生が私たちに約束されている。なぜなら 聖書の権威が 神在(いま)すと と言明するだけではなく 私たちを囲繞し 私たちがそれに属しているすべてのものの普遍的な本性そのものが 自分よりも遥かに卓越している創造主を持っていると宣言しているからである。この創造主が私たちに本性的な理性と精神を与えたまうたのである。
(三位一体論15・4〔6〕)

神は愛であり霊であり その存在することじたいが知恵である非物体的・不可変的な一つなる本質でいます。これを読む(観想する)こと つまりその神の言葉は 全世界あるいは《私たちを囲繞し 私たちがそれに属しているすべてのものの普遍的な本性そのもの(――S者を基体とするA者なる概念――)》がその証言となった。これは 聖書なる神的権威が 人間の言葉をとおしても 指し示したことである。いやむしろ 聖書は 人間の言葉を用いて語って この愛であり霊であり知恵である非物体的・不可変的な存在を指し示すのに 《全く存在しないものから或る名称をひき出して 比喩的な語り方をなしたり 謎めいたことを濃くしたりはしなかったのである》(三位一体論1・1〔2〕)。
愛も霊も知恵も これらの言葉すべて 人間について・もしくは人間がそれらの事柄について そのように語る言葉である。また 愛も知恵も 何か可視的な行為のかたち・ないしその経験的な結果からみちびかれた言葉であり 霊という語ですら 雨の普遍的な恵み(霊)・風ないし息( pneuma )というように むしろ物体的なものが 自分より遥かに卓越している創造主を持っていると宣言している》わたしたちも告白するのである。
したがって 

私たち自身もそうである被造物のところに 〈神の不可視的性を 造られたものをとおして知解して見る〉ことが出来るように留まったのである。〔ところが〕そして視よ 私たちに必要であった限り あるいはおそらく必要以上であったように より低位の事物の領域で すでに知解力を習練したのであるが 今もなお 私たちは神なる至高の三位一体を観まつることに自分自身を高めようとは思わないし またそれは不可能である。
(三位一体論15・6〔10〕)

と宣べ伝えるのである。
また このことの一つの方向としてはそれを アマテラス概念をとおして だからアマテラス語と用いつつも このアマテラス語を止揚する(=主観の内におけるその虚偽の廃棄)ということがらに わたしたちは見たのであった。それが 神を非物体的・不可変的なものそのものにおいて問い求めるためでなかったなら 何を意味するであろう。またもし神を 物体的・可変的・経験的なことがらに 見出すのではなく 神はもはやない そして経験世界がすべてだと言うなら 人びとは 神でないものに雨乞いをするか 人間が自己の力によって普遍的に雨を降らそうと企てるであろう。ここで 人間が自己の中心性(アマテラス語理論・科学)によって その部分性を全体とし 全体に優るものを欲するという・上昇に見えるかのごとき墜落が始まると言って言い過ぎではない。このように言うことは 雨を降らせる(福祉)を科学的に探求し施策することを貶めたり排除したりするものではないのだから。
だから これらの全き観想(あのこの上なく安全なやしろの望楼に立って そのキュリアコンもしくはキリストを見るのである)において 永遠である浄福な生がわたしたちに約束されていると信じるのである。キリストが人間となられ 人間の本性である《社会的諸関係の総和》を生かす霊なるいのちが われわれにも与えられたことにおいて それは現実であり 同じくこの現実は 人間がなお時間的・可死的な存在であるゆえに 不自由・矛盾を 正当にも 孕んでいるのだから 信じるのである。
この信仰という主観の動態が 人間の現実なのである。この信仰は 宗教になりえないし 科学が 空想には取って代わったとしても 信仰に取って代わりきるものではないと 観想するのである。しかしこれら宗教も科学も ともに 幻想的にしろ実体的にしろ 人間のアマテラス語概念のしんきろう閣ないし理論の城にしか過ぎないのであった。しんきろう閣が愛するのでもなければ 理論の城が理論するのでもなく 人間が知解し人間が このわたしが 愛するのであった。しかし 上の浄福の語も 〔精神の〕悲惨という語に対して そのわたしたちの内なる人に 地上の生において生じる虚偽から来る悲惨という経験的なことがら・それを現わす言葉の反対概念としてあるなら それも経験的なものの言葉である。したがって 永遠なる神の国の観想は その至上の浄福なお方でいます神を指し示すために この語を用いるのであり それは 神がそのようにあられるということではなく 神はそのように語られるのがふさわしいということを意味表示する。それのみである。
言いかえると 《質にしたがって言い表わされるように見えるもの(たとえば 浄福)はみな 〔神の〕実体あるいは本質にしたがって理解すべきである》(三位一体論15・5〔7〕)ということが このアマテラス言語の止揚という内的な主観形成なのであると理解しなければならない。国民総生産(GNP)や厚生指標(NNW)なるアマテラス概念も 同様であることは 言うまでもない。

ところが――とアウグスティヌスは 或る種の仕方で その実体そのものを指し示すかのように 次のように語る―― 神なるあの生命は すべてを知覚し知解する。神は精神によって知覚するのであって 身体によってではない。神は霊であるから。しかし神は身体を持つ生物体のように身体によって知覚するのでもない(これは人間は 身体によって知覚すると言っているのでなければ 何であろう)。神は魂とか身体から成り立つのではないから。このゆえに この単一な本性は知解するように知覚し 知覚するように知解するのである。この本性にとっては感覚と知解とは同一である。
(三位一体論15・5〔7〕)

しかしわたしたちは この形相を 永遠なるものの本性であると言う。これに対してマルクスは 次のように言う。

私有財産(――すなわち このような神の形相をアマテラス概念としたままで そのアマテラス語を宗教とし 神に仕える者の権威支配制度の中で 私的=スサノヲ的所有を行なえば アマテラス普遍の共同主観が確立されると主張する つまり 封建市民的なカトリック支配体制をいま除外すれば キャピタリスム原理なるアマテラス語規範にのっとってスサノヲ・キャピタリスト的な所有が行なわれるなら そのようになると言い 実は アマテラス・キャピタリストの所有を保守する行為――)の止揚
(――だから アマテラス・キャピタリストの所有制のもとで 実は スサノヲ者の中にもアマテラス概念者を作ることによって その反面で全体として 《スサノヲ‐アマテラス》連関主体的な所有行為を用意する そのような止揚は――)
〔繰り返すと 私有財産止揚は〕
すべての人間的な感覚や特性の完全な解放である。・・・だから諸感覚は それらの実践において直接に理論家となっている。
(つまり 《感覚と知解とは 同一である》。)
・・・要するに 人間的な享受をする能力のある諸感覚が すなわち人間的本質諸力として確証される諸感覚が はじめて完成されたり はじめて生みだされたりするのである・・・
マルクス:経済学・哲学草稿 3・2)

この唯物史観は わたしたちは 創られずして創る本性である神にわたしたちが固着することによって成就すると言うのである。唯物史観を 理論することはいいが――しかしそのときも この《わたし》が理論するのである しかもその前にこの《わたし》が愛するのである―― 唯物史観じたい・もしくは《社会的諸関係の総和》なる人間の本性に〔のみ〕 固着することによってではないと わたしたちは常に言っていなければなるまい。

(つづく→2007-09-13 - caguirofie070913)