caguirofie

哲学いろいろ

#117

もくじ→2005-05-13 - caguirofie

第三部 キリスト史観

第四章 神の似像の以後

第二節 いわば《神の似像》以後の試練と問い求め

ゆえに 《神の似像》とは このように語ってわれわれの内に生きている史観 あるいはこの史観としてわれわれが生きていること自体であります。しかもそれは 身体・スサノヲ性を基体としつつ この身体的肢体の仕組みに限定されないという・アマテラス性をとおして人間の存在・過程的時間的な行為そのものであると考えるわけでした。
この意味で この《神の似像》以後が この第四章以下の対話であります。《後続するものが先行するものから 後者の点検によって前者が忘却されるほど離れないようにしたい》(三位一体論15・3〔4〕)ということ いまはこのような意図のもとに 論点をさらに抜き出し いくらかの考察を加えたいと思うことです。


私たちはこんなにも長く神が創られたものの周りに低徊してしまった。それは神が創られたものをとおして神を知りまつるためであった。・・・それで《知恵の書》において 

見える善きものによって 真に存在するお方を知り得ず またそのお方の作品を考察して 作品の制作者を認識しなかった
(知恵の書13:1)

人びとが非難されるのである。
アウグスティヌス:三位一体論15・2〔3〕)

ということ。しかし いまは《神の不可視性は 世界の創造以来 造られたものをとおして知解され 見られる(ローマ書1:20)ことをむしろ前提としつつ――なぜなら それによって 人間の本性である《アマテラス‐スサノヲ》連関は生き動き存在すると知解されるから―― 直接にわれわれの信じる神〔の力・知恵〕を指し示すといった宣教・護教の言葉によるのではなく あたかもこの神の言葉を問い求め見出した者のように あるいは少なくともその問い求めの場を見出した者のように 人間あるいは社会という鏡から 神の似像〔以後〕を省察することに着手したのです。読者がここに参加されることをわたしたちは信じており あるいは少なくとも読者がこのわたしたちの省察のさらに展開されることを欲していることを わたしたちは知っているからです。
むろんこのように文字で書かれた書物によって 展開されることを望んでおられるのでないことは これを承知していることです。《わたし》という一巻の書物 これがすべてであることは すでに一緒に見てきたことがらでした。この文字による文章は 言わばたわむれの手紙でもあります。たわむれという言葉は悪いですが それは 生きることをむしろ享受するがためにほかなりません。少なくとも あの問い求めの場を見出したなら 《常に――なお――聖顔を求めよ》と言われつつしかも(神を畏れよ。神を畏れることが 知恵の初めであると言われつつなお) 人間の歴史 その時間的な事柄の偶有性(どうでもよさ)に対して必ずしも恐れる必要はない。臆病である必要はない。むしろ《大胆に神の恵みの座に近づけ》と言われるようにして 清らかな享受(そのあえぎ求め)を享受していきたい。

  • この意味で 《集会書》において 知恵が《私を食べる人びとは なお飢えるであろう》(24:29)と語っていることが理解され得る。かれらは見出すゆえに 食べそして飲み 飢え渇くゆえに なお問い求めるのである。信仰は問い求め 知解力は見出す。それゆえ 預言者は 《あなたがたは信じないなら 知解しないであろう》(イザヤ書7:9)と言う。また 知解力は見出したお方をなお 問い求める。なぜなら 聖なる《詩編》で歌われているように 《神を知解し あるいは尋ね求めているかどうか見たまうために 神は人の子らを顧みられたのである》(13:2)からである。だから 人間は神を尋ね求めるために神を知解するものでなければならない》(三位一体論15・2〔2〕)。


神を尋ね求め知解することは 神の似像にとどまることである。神の似像にとどまることにおいて 神を尋ね求めており また神を知解するものとなる。なお飢え渇き問い求める者は この同じ神の似像において 尋ねつつ見出す また見出すなら なお問い求める。かれは その同じ神の似像において あたかも主の霊によってのように あの栄光から栄光へ変えられるのである。それはまた あのどうでもよい偶有的な生の事柄において あのつまづきの石に――それを 天使の能力を欲するがごとく 自己のものと思い為さず また 卑劣にも回避したりすることなく―― 固着して キリストの信仰によって問い求め この偶有的・可変的なことがらの中から 永遠を観想して つまづくことなく失望することなく 神の愛と人間の愛とに生きるためである。
この可視的な可変性と不可視的な不可変性との過程的な〔と観想された〕関係が 神の似像であり それはいま 神の似像の以後の過程としてのようにそう言えると考えるのである。しかし人は 神のために神を愛し 神のために人間を愛する者である。同じ似像(A‐S連関)において 暗いかたちの栄光(似像ならばすでに人間の知恵の薄暮においても 栄光)から 明るいかたちの栄光へ 変えられるのであって これは 人間の自己の中心性によって自己自身の力によって 倫理・律法規範的に 自己を変えることではなく また この律法というアマテラス語において信仰を保持し そこでは必ずしも問い求めと知解を行なわない宗教生活の中に 自己が変えられることを欲するのでもなく 自己自身に逆らってのように つまづきの石に固着しつつ 神を愛しこれによって人間を愛する日から日への生活において 生起することでありました。
この愛が 信仰に始まる人間の理性的な尋究によらないでは 神の似像としての愛にとどまらないとは 人間の言葉としての歴史が われわれの問い求めるお方すなわち神の国の知解行為によるものであるゆえとも言うべきかと思います。しかもこの知恵と知識のすべては 十字架上のキリストに隠されてあると知られることです。
これはだから 学問の成果(A語)を排除するのではなく 生きた身体のスサノヲ者において出遭うつまづきの石とその試練をとおることによって 神を知る・すなわち神に知られるというように 〔信仰と知解が〕生起すると思われることです。実に《神を知解し あるいは尋ね求めているかどうかを見たまうために 神は人の子らを顧みられたのである》。人間の言葉は いま信仰を問題にするなら このようには言うべきかと思うのです。神の似像以後の問題としてこのようになお言うべきかと思うのです。そうでなければ 人間はすでに神に等しいとするか もしくは人間の中間性によって 自己自身の存在を不動の神としているかによるものであり また あの《わたしの墜落》は空しいものとなるでしょう。
このような人間の本性を超えず人間の本性に根拠を置く或る種の史観 したがって これによる墜落とその損傷をも癒やすためでないなら 神の言葉の派遣はなかった。それは 墜落と損傷とが 信仰によって主観的に――主観的に――癒やされたと言おうとするためではなく――そうであるなら 人間は人間キリスト・イエスを大きいものと思わなかった(迫害しなかった)であろう だから 主観的に癒やされたと言おうとするためではなく―― 人間の本性の美しさと醜さとによるその種の史観はすべて 無意味で空しいものとなるであろうと評価することになるためである。人間の理論や芸術に或る美しさを見出したなら これらの作品の真の制作者を問い求めることは この美の可変性を 神の似像においてとどめること すなわち 美醜といった経験的なことがらを超えて これらを享受することにほかならない。そこに見出される神の国が 人間の自由と観想されるからにほかならない。
人間的な〔尺度による可変的な〕自由というつまづきの石につまづかないためなのです。ここにおいて 神の似像すなわちわれわれ人間は 神の言葉という永遠〔のいのち〕を分有すると思われるからです。キリスト〔史観〕において この道は用意されていると思われることです。神は しかし その人の能力を超えて試されることはないと思われます。それぞれのキリスト史観において 神の愛という一つのもののもとにおいて 自由だと考えられていることだと思います。
ですから 愛なる自由は 試練のなかで試練をとおして 神の似像をとどめる人の神の観想とその知解にあると思われます。(神の観想は 信仰の報酬と言われる)。次節ではここに観想する神を 三位一体の神として あらためて知解しておきたいと思います。
(つづく→caguirofie070910)