caguirofie

哲学いろいろ

#201

もくじ→2005-05-13 - caguirofie

第四部 聖霊なる神の時代

第三十五章 復活した人間の史観の方程式

さて 信仰は人間の論議によってではなく 神的権威によって 魂と身体から成る全体の人間は不可死であろうこと したがって真に浄福であろうことを約束する。それゆえ 福音書ヨハネ1:12−14)においてイエスが 《かれを受け容れた者に神の子らとなる権能を》与えられたと語られるとき かれを受け容れた とは何であるかが簡潔に 《かれの御名を信じた者に》と説明されるのである。さらに どのようにして神の子らとなるのか ということについては 次のように付加される。

血筋によらず 肉の意志によらず また人の意志によらず 神によって生まれた。

私たちが見ており また自分が担っている人間の弱さがあれほどに卓越したものについて絶望することのないように 同じ箇所で

御言は肉に造られ 私たちのうちに宿られた。

と付加されるのである。それは反対側から 信じ難いと見られたことについて私たちを納得させるためである。もし本性において神の御子であられるお方が人間の子らのために 憐れみのゆえに人の子となられたのであるなら――これが 《御言は肉として造られ 私たちのうちに宿られた》ということである―― 本性において人間の子らである者が神の恩恵によって神の子らとなり 神のうちにおいてのみ 神からのみ神の不可死性を分有して浄福ならしめられるということははるかによく信じられることである。私たちにこのことを説得するために神の御子は私たちの可死性を分有されたのである。
(三位一体論13・12〔12〕)

ここでアウグスティヌスは――この文章としては―― 《全体の人間の不可死性 / 真の浄福》 すなわち 《第二の死の方向転換としてのアマアガリ》が あたかも少なくとも人間の一生涯の期間内に ――たとえわづかな予感によってであれ――到達されてのように その成就が約束されていると言おうとしているかのようである。また しかるがゆえに 人は この形相を愛し この形相をとおして愛し またその愛に燃え立たしめられる(*〔引用者註:以下同じ〕それは 身体の運動としでもある)とも言うことができるし あるいは逆に その一生涯のあいだにおいて あたかもつねにと言うがごとく 不安にされ空しくされるとも言う人がいても 不思議ではない。
実際このことは 《信仰》というほどに 時間的存在の〔時間的な過程における観想とそれにつながった〕行為のなかに しかもそれは 人の意志によらず 神によって生まれ 其れに到達するのは あわれみたまう神によると聞かれるごとく〔のみ〕 生起すると信じられることがらに属している。したがって不可死性なる真理は 永遠に そして信仰は 時間〔的なもの〕に それぞれ関係されているのである。なぜなら 時間は 永遠に関係されるごとく 信仰が真理に関係しているから。
したがって ここでさらに銘記しなければならないことは この信仰が たとえば史観の方程式〔とその具体的な展開 の把握〕といった人間の側の理論に 還元されてしまうことを警戒するとともに 同じく信仰が 信仰そのもののために保持され 一般化してしまいその意味で宗教となることを戒めなければならないことである。時間的存在の時間的な不安定な過程のなかに 片や理論としてではなく 片や宗教としてでもなく 信仰として 動態的に 保持されること そしれそのときにはむしろ この信仰に生きるようにみちびかれるということ またそのために人は祈る必要がある このことである。たしかに人は このような孤独〔関係なる時間〕から出発したのである。また そのような孤独関係のなかへ その以前に促されみちびかれてのように 出発させられていたと理解することになる。
したがってまた このような或る種の絶望――《わが神 わが神 なにゆえ我れを見捨てたまいしや》――のなかで 先の《アマアガリ〔の予感 ないし その約束〕》のうちにあって その聖霊なる愛のうちにあってのみ 第一の基軸たる人間の死を あたかも経験するのである。そのとき 神はたしかに見捨てたまわなかったというほどに 第二の基軸である復活を 予感する。ないし実際 経験もするということでなければならない。ここに人間の希望があり また 信仰・希望・愛といったおおきく信仰の別の三つの基軸を理解しなければならない。言いかえると 人は 不安になり空しくされるとき 宗教といった信仰の形態によってすくわれるのではなく また理論に根拠を求めて将来の希望へとつなぐことによってでもなく あたかも はじめ(原理的)に 愛を注がれてのように 絶望のなかから 信仰が 生起するということによってすくわれる。
これは 人間の主体的・理性的な判断によって為され またその行為は つねに史観の原理への観想にみちびかれていたというほどに 神によってたどりついた結果であり出発点でもあると知る。こうして 人間は 空しくされるが かれはつねに 神の似像として歩むという史観が 生きることでなければならない。
もし このようにして 方程式の三つの基軸 《死‐復活‐愛(アマアガリ)》を 観想し経験した人びとは その史観(生)の全体として生き むろん身体の運動としてとともに 或る意味で――信仰によってこの生において〔やしろ〕関係的に生きるあいだは―― 他者を啓発することへと促され また燃え立たしめられるのである。
人は 啓発のために人を啓発するのではなく またそういうことはできない。(つまり そういうことがあっても 有効ではない)。いわゆる《啓蒙》という言葉とその実践〔があるとするならそれ〕(つまり 人間の理論の時代のなかで 啓蒙の時代とよばれた一時期があった)――この啓蒙という言葉の持つ意味あいの善し悪しをたとい別としても――は もし ここでいま論議している《愛 すなわち 聖霊なる神》という実体が実体であるとするなら この愛による啓発のための土壌をつちかう啓蒙 あるいは むしろ自己啓蒙といった〔人間の理論ないし科学(その眼)を発見し知解するための〕或る種の運動であったと理解したい。
真理は あそこにあるそれではなく ここにあるこれだと言って 見せて その蒙(暗闇 だから プレ・スサノヲ領域)を啓くなどという具合いに 明るみに出されるものではなく もし仮りにプレ・スサノヲ領域への啓蒙があったとするなら それは ただ暗闇に隠されていたアマテラス領域(その概念・言葉 だから 人間の知恵と知識)を開くための人間の運動であった。真理は 人はこれを なおこのアマテラス語をとおして・ないし象徴・謎としてのアマテラシテにおいて 各主観の内なるヤシロにおいて それぞれ 観想するものであり これ以外の他のかたちではありえないから。(《人間のうちに起こっていることを知る者は その人のうちにあるその人の霊よりほかにない》(コリント前書2:11)。
しかし アマアガリするそのスサノヲ者は 啓蒙ということにかんしては このすでに或る意味では啓蒙しあったことを 人間のものとして用いつつ また たといその学問を知らないとしても(だから これを用いていないとしても) 或る種の生のかたちとして〔自己および〕他者を 啓発するのである。その愛に燃え立たしめられるのである。(三位一体論2・17〔28〕)。むろん かれの〔人間としての〕愛は 主観的であり またスサノヲ語によってこれを為し 言いかえると 私的なものを愛さずして〔ということは アマアガリの途上にあって なお〕個人的・私的な諸関係のなかで これを為すのである。あわれみたまう神は ここに 聖霊なる愛なる神を 注ぎたまうのである。ここで かれの史観は 方程式の三つの基軸を 構造的にして過程的 過程的にして構造的な歴史時間と為し(――ムライスムとは確かに やしろ構造的な見えざる共同の水路であり ナシオナリスムとは さらにA圏からする共同の観念の運河であった――) 互いの関係において 自己を共同主観者とする。これが インタスサノヲイスムの成立である。

それゆえに かれらは主に在って一つのものであり得るように仲保者キリストによって清められるのである。(=《死》の基軸)。それはただ すべてのものを死ぬべき人間から天使に等しいものたらしめる(=《復活》の基軸)同じ本性によってだけではなく 愛の火(=《聖霊》の基軸)によって或る仕方で一つの霊へ融合され 同じ浄福(=つまり《アマアガリ》)を協調して共に渇望する同じ意志をとおしても一つのものとなるためである。
(三位一体論4・9〔12〕)

ここで 男女両性の関係の問題にあてはめて考えておくなら 一つに このアマアガリの基軸を中心とし初めとすれば 男女両性は 本質的に平等である。

  • キリストに合うバプテスマを受けたあなたがたは みなキリストを着たのである。もはや ユダヤ人もギリシャ人もなく 奴隷も自由な身分の人もなく 男も女もない。あなたがたは皆 キリスト・イエスにあって一つだからである。(ガラテア書3:27−28)

一つに 性としての存在としては――しかし 神の似像に性は存在しない―― 男はかれ一人でも全体を感想する能力を持つが 女はあたかも男と一体となったときはじめてこれを行ないうるというように 《男は 神の似像であり 栄光であるが 女は 男の栄光である》(コリント前書11:7)――しかし 神に性はないだけではなく 神の似像に性は存在しない―― したがって 次に あのマルクスが 《コミュニスト党宣言》で きわめて不明確はとも言える・また逆に明確であるとも見える・その意味であいまいなかたちで打ち出した《婦人の共有》なる一視点は これらを綜合して 《性関係としては 霊的な〈婦人の共有〉》において コミュニスム(共同主観・常識)が 上のインタスサノヲイスムの一環として成立するのであると 人は解さなければならない。
人間の歴史の共同相続人として つまり 言いかえると神の国の歴史につらなる時間的存在――しかし神の似像(人間である)に性は存在しない――として 性としては女を 排除しないということである。(またこの点は 《八雲立つ出雲八重垣 妻籠みに〔妻とともに〕八重垣作る・・・》の視点として 第三部後半でよく論じた)。
いまは この視点をも容れて アマアガリするスサノヲ者は あたかも愛の火に燃え立たしめられてのように 自己および他者を啓発するということがらを見ておく。それは 信仰の不安(不安定)からの――死‐復活‐アマアガリの三基軸をつうじての―― 信仰・希望・愛という別の三基軸の生起によって かれが立たしめられるその結果であり出発点であると論議したのである。
(つづく→2007-12-04 - caguirofie071204)