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哲学いろいろ

#190

もくじ→2005-05-13 - caguirofie

第四部 聖霊なる神の時代

第二十七章 イエスの復活(第二の基軸)がすでに 人間のアマアガリ(第三の基軸ないしその全体)である

《イエス 弟子たちに現われる》

(参照箇所:マタイ28:16−20  マルコ16:14−18  ルカ 24:36−49)

その日 すなわち週の初めの日の夕方 弟子たちはユダヤ人を恐れて 自分たちのいる家を戸を閉めていた。そこへ イエスが入って来て 弟子たちのまん中に立ち
  ――お前たちに平安があるように。
と言った。そう言いながら手とわき腹とを見せた。弟子たちは 主を見て喜んだ。すると イエスは再び言った。
  ――お前たちに平安があるように。父がわたしをお遣わしになったように わたしもお前たちを遣わそう。
こう言いながら かれらに息を吹きかけて言った。
  ――聖霊を受けなさい。お前たちが誰かの罪をゆるせば その罪はゆるされる。お前たちがゆるさなければ ゆるされないまま残る。
ヨハネによる福音20:19−23)

弟子たちのほんとうのバプテスマとしてのアマアガリの時間 これを 《イエスがかれらに息を吹きかけて 〈聖霊を受けなさい――そしてたとえばマタイによれば 《父と子と聖霊の名によって〔すべての人びとに〕バプテスマを授けよ》(28:19)――〉と言った>歴史時間として 表現して伝えている。だから――だから――《戸を閉めていた家の中へ イエスが入って来た》のである。そうして 言ったのである。また マルコによれば 

そののち 《十一人》が食事をしているとき イエスが現われ その不信仰とかたくなな心をとがめた。復活したイエスを見た人びとの言うことを 信じなかったから。
(マルコ16:14)

である。だから イエスが入って来たのである。その人は 《弟子たちのまん中に立ち 挨拶を述べながら 十字架につながれた釘跡のある脇腹を見せた》。
この訪問者は イエスとは全くの別人であったかも知れない。また その《手と脇腹の傷跡》は 磔刑によるそれとは何の関係もないものであったかも。しかし 無実のとがを受け やはりその傷を残す苦しみを受けたのであろう。だから イエスが入って来てそう言ったのである。
史観の原理が その歴史的時間の方程式として成就するため。だから マルコは イエスが 《全世界に行って すべての人に福音を宣べ伝えなさい》と言ったあと 

信じてバプテスマを受ける者は救われるが 信じない者は滅びの宣告を受ける。信じる者には次のようなしるしが伴なう。かれらはわたしの名を使って悪魔を追い出し 新しい言葉を語る。手で蛇をつかみ また 毒を飲んでもけっして害を受けない。病人に手を置けば治る。

とも言ったと付け加えている。弟子たちは 信じたのである。《この世に属していない》からである。
だからルカはまた

エスは 聖書を悟らせるためにかれらの心の目を開いて 言った。
  ――聖書に次のように書いてある。

メシアは苦しみを受け 三日目に死者の中から復活する。
イザヤ書53:2〜 ホセア書6:2)
また 罪のゆるしを得させる悔いあらためが その名によって――エルサレムから始まって――あらゆる国の人びとに宣べ伝えられる。

   と。お前たちは これらのことの証人である。さあ わたしは 父のお約束なさったものをお前たちに送る。高い所からの力に覆われるまでは 都にとどまっていなさい。 
(ルカ24:46−49)

と宣べ伝える。
方程式において あの《第一の死》を引き受けた時間的存在なる罪人のために 史観の原理が その歴史的時間に 介入したのである。だから 《入って来たイエスは 弟子たちに 〈聖霊を受けなさい。お前たちが 誰かの罪をゆるせば その罪はゆるされる。お前たちがゆるさなければ ゆるされないまま残る〉》と告げた。《この世に属していない》がゆえに やしろ人の《地の塩》(マタイ5:13)として。
アマテラス予備軍は このことを 人間に従って人間の力によって アマテラス語〔とその科学〕において 行なう。かれらも《悪魔を追い出し 手で蛇をつかみ また 毒を飲んでも 害を受けず 病人を治す》のである。科学は進む。地の塩は 《新しい言葉を語って》このアマテラス語を用いるのである。史観の方程式を――これは 経験的な法則として アマテラス語においても 把捉されるが――人間にしたがって見出しこれを用いるのではなく 史観の原理に属く人は このように主キリスト・イエスの背面を見てのように このアマアガリの時間〔においてバプテスマ〕を受けてのように この世の人びとに対しては より背面(うしろ)に在って あたかもあとで〔アマアガリの〕身体を受け〔その方程式を捉え〕てのように キリストの言葉に留まり 愛の中にいるのである。かれらは それ以外のかたちでは 能力によって為し得ないのだ。それ以外のことを為し得ないということが 能力である。
誰もが 神を見うるのではない。誰もが アマアガリを予感しうるのではない。《みなが預言者だろうか。みなが使徒だろうか》(コリント前書12:29)。しかし A圏がS圏を主導するという方向ではなく 八重垣が九重=スーパーヤシロを 自己の圏にも容れて包みこみ主導するというように 歴史的時間としてのやしろが その三一性行為の〔総体の〕方向の基調を変えてゆくのです。新しい言葉 アマアガリしたスサノヲ語が 基調となって 新しい共同主観が 樹立される中に キリストの背面を見うるようになる。

考えてみると 神はわたしたち使徒を まるで闘技場の死刑囚のように 最後に引き出される者となさいました。わたしたちは 世界に 天使にも人間にも見せ物となったからです。わたしたちはキリストのために愚か者となっているが あなたたちはキリストを信じて賢い者となっています。
(コリント前書4:9−10)

使徒パウロが語る共同主観の時代では もはやないからです。使徒の宣教の時代は終わったかのごとく いわゆる教会が その宗教的な組織として この世の人びとに対して より背面である時代も 基調としては 終わったと言いうるのではないか。教会の使命が 終えられたかどうか それは知りません。しかし この教会エクレシアを 自治態勢・S圏の各村において 共同主観の基調を変えうる時代に入った。これを言うために スサノヲ語という――アマアガリしたスサノヲ語という――新しい言葉が 生起しうるし また生起してもよいと考えられる。方程式は アマテラス語において 精神においてこれを認めることから 一歩を進めて――しかしこの一歩はすでに 唯物史観によって進められていると把捉する―-精神をとおして方程式を 似像として 捉え かつ アマテラス語は スサノヲ語において生きたものとして用いる この新しい基調へと替え得ると認められるゆえに。


あたかもなお 言わばキリスト史観の先駆者としての唯物史観に対して その正しい関係を見うるようにというように ヨハネはこのあと つづけて 《イエスとトマス》と題される一段を設けている。

《十二人》の一人でディディモと呼ばれるトマスは イエスが来たとき かれらと一緒にいなかった。そこで ほかの弟子たちが 《わたしたちは主を見た》と言うと トマスは答えた。
  ――あのかたの手に釘の跡を見 自分の指をその釘跡に入れてみなければ また 自分の手をそのわき腹に入れてみなければ わたしはけっして信じない。
さて 八日の後 弟子たちは また 家の中におり トマスも一緒にいた。戸は閉まっていたのに イエスが入って来て まん中に立ち 
  ――お前たちに平安があるように。
と言った。それから トマスに言った。
  ――お前の指をここに当てて わたしの手をよく見てみなさい。また お前の手を伸ばし わたしのわき腹に入れなさい。不信仰な態度をあらためて 信じる者になりなさい。
トマスは 
  ――わたしの主よ わたしの神よ
と答えた。イエスはトマスに言った。
  ――わたしを見たから信じたのか。見ないで信じる人は 幸いである。
ヨハネによる福音20:24−29)

《身ないで信じる人は 幸いである》が 《見ないとき 疑う人は 疑いつづける人》は なお幸いである。なぜなら トマスと他の十人とは ともに同じく《見たから信じた》のである。《疑いつづける人》は――もっとも弟子たちは なおもそのときも 神の手によって蔽いがかけられていたと言いうる。しかしそうではなく かならずしも使徒に選ばれずに 疑いつづける人は―― 別の意味で なお主の背面を――信じないにせよ――見つづけてのように この世の人びとに対して この世の生活を享受することにおいて より背面である。唯物史観者は これである。たが かれらは このより背面であることにより より背面であることの主張を これまでのA‐S連関体制というやしろの共同自治方式にのっとって またはそのままその中で 訴えつつ いわゆるコミュニスムへ向かいそれを目指している。もし あの《荒野に叫ぶ声》として イエスより先に現われた洗礼者ヨハネが ヘロデ王の罪を叱責して 牢に閉じ込められた(ルカ3:1−20)とするなら これと呼応するように イエスが かれについて次のように言ったことに明らかなのである。つまり

はっきり言っておくが およそ女から生まれた者のうち 洗礼者ヨハネより偉大な人物は現われなかった。〔しかし 天の国でもっとも取るに足りない者でも かれよりは偉大なのだ。
(マタイ11:11)

と評したことに 明らかなのである。そのイエスは 《すべての者のはじめ(原理)となられる》べく 誰よりももっとも背面であった。(三位一体論2:17〔28〕)。だから 《釘の跡を見 自分の手をそのわき腹に入れてみなければ わたしはけっして信じない》と言ったトマスにも 《イエスが入って来て 現われた》のである。他の弟子たちの説得する証言を信じるに至ったのか あるいは あの同じ訪問者もしくは同じような別の訪問者が 現われたのか それは知らない。しかし イエスが現われたのである。スサノヲ語(各個人の主観・またしたがって 神の似像なる人間)のほかのところで 空想(これも 人間のものだが)において つまりそのような空想の産物の伝承として 現われるということはありえない。トマスその人に現われたのである。
しかし キリスト史観の正統な信仰は 人間の《身体の復活》を信じるのである。

しかし この肉そのものにおいて キリストの復活の信仰が 私たちを救い 義(アマアガリ者)となすのである。実に 

もしきみが自分の心で神が死人の中から イエスを復活させたまうた と信じるなら きみは救われるであろう。
(ローマ書10:9)

また

主は私たちの罪過のために死に渡され 私たちの義認のために復活したまうた。
(ローマ書4:25)

のである。したがって 私たちの信仰の理由(ことわり)は主の身体の復活である。
アウグスティヌス:三位一体論 2・17〔29〕)

つづけてアウグスティヌスによれば その理由(ことわり)は 

なぜなら 主の肉が受苦の十字架において死んだということは かれの敵さえも信じるが 主が復活したまうたことは敵は信じないからである。私たちは主の復活を限りなく堅く信じて あたかも堅固な岩からのように それを観るのである。それゆえに 私たちは確実な希望をもって 子たる身分を授けられること すなわち 私たちの身体の贖いを待ち望んでいる。(ローマ書8:23)私たちがキリストの肢体――これは私たち自身である――において待望するのは 私たちの頭(かしら)なるキリストご自身において 私たちが完成されることを健全なる信仰によって知っていることに他ならない。だからこそ 主は過ぎ去るときでなければ かれの復活が信じられるために その背面が見られることを欲したまわなかたのである。
ヘブル語で過ぎ越し祭( Pascha )とは通過( transitus )を意味する。それで 《ヨハネ福音書》の筆者は 《過ぎ越しの祭の前に イエスはこの世から御父の御許(みもと)へ移り行くべきご自分の時が来たことを知られて》(13:1)と語るのである。
(三位一体論2・17〔29〕)

われわれは 復活後の身体が どのようなかたちであるのか 知っていない。しかし 身体の復活の信仰は 《私たちがキリストの肢体において待望するのは 私たちの頭なるキリストご自身において 私たちが完成されることを健全なる信仰によって知っていることにほかならない》と告げられ このとき《キリストの肢体 これは 私たち自身である》と知るのである。復活して――一たん生き返ってくるが再び死んでしまうような復活ではなく キリストご自身の肉体が復活したばあいのように 永遠の生命によみがえり 復活して―― 霊的なアマアガリを為すというとき それは 魂によるアマアガリ――したがって身体ないし精神によるアマアガリ――を意味するのではなく そうではなく 霊的であって しかもこれは 霊になるというのではなく 《からだ》なのである。また この世における霊的なアマアガリとは 身体を離れず 上の復活体を 予感するのである。(以上 アウグスティヌス:《信仰・希望・愛(エンキリディオン)》第五部)。
だから イエスは弟子たちにそしてトマスにも 現われたのであるとわれわれは知り かつ信じる。つまり これはむしろ 《絶対に疑ってはならない》(《信仰・希望・愛》5・1・1)のである。そこに実体があると浅はかにも人間が 断言するのではなく 人間はそう表現するのであり 表現すべきことである。
(つづく→2007-11-23 - caguirofie071123)