caguirofie

哲学いろいろ

#189

もくじ→2005-05-13 - caguirofie

第四部 聖霊なる神の時代

第二十六章 イエスの復活――第二の基軸――

ヨハネによる福音は イエスの復活関係の記事として つづいて次の一段を表わす。(以下 記述の順序に沿って 各段落を取り上げる)。《イエス マグダラのマリアに現われる》として マルコによる福音の第十六章第九〜十一節に対応しつつ――

さて マリアは墓の外に立って泣いていた。

  • 弟子たち つまりペテロとヨハネとは すでにそれぞれの家に帰っていた。

泣きながら身をかがめて墓の中を見ると イエスの遺体の置いてあった所に 白い衣を着た二人の天使が見えた。一人は頭のほうに もう一人は足のほうに坐っていた。天使たちが
  ――あなた なぜ泣いているのか。
と尋ねると マリアは答えた。
  ――わたしの主が取り去られました。どこに置かれているのか わたしにはわかりません。
こう言いながら うしろを振り向くと イエスの立っているのが見えた。しかし それがイエスだとわからなかった。イエスは聞いた。
  ――あなた なぜ泣いているのか。誰を捜しているのか。
マリアは 園丁だと思って答えた。
  ――あなたがあのかたを運び去ったのでしたら どこに置いたのか どうぞ教えてください。わたしが あのかたを引き取ります。
エス
  ――マリア。
と言うと かのじょは振り向いて ヘブライ語
  ――ラボニー ――《先生》という意味――
と答えた。イエスは言った。
  ――わたしにすがりつくのはよしなさい。まだ父のもとへ上がっていないからである。わたしの兄弟たちのところへ行って こう伝えなさい。

わたしの父であり お前たちの父であるかた また わたしの神であり お前たちの神であるかたのところへわたしは上る。

マグダラのマリアは弟子たちのところへ行って
  ――わたしは主を見ました、
と告げ そして 主から言われたことを伝えた。
ヨハネによる福音20:11−18)

《マルコによる福音》からは 弟子たちは これを《信じなかった》(16:11)とまづ 知ることができる。
しかし 《あなた なぜ泣いているのか。誰を捜しているのか》と イエスが言ったのである。かれは 《まだ父のもとへ上っていない》からだであるが 復活後の身体で そうマリアに語りかけられたのである。これは むろん〔まだ かれが《天に挙げられる》(使徒行伝1:9)前であるので〕 人間の経験的な歴史的時間に属することであるが 人間は 将来すべきこととして臨むのが正しい。

  • もっとも 《高挙》のあとでも イエス・キリストが生きておられるのは 人間の経験的な歴史時間に 時として 出来(しゅったい)するようである。わたしがこれを告げるのであるが むろん論証しようとは思わない。しかし 《〈かの日〉には わたしが父のうちにあり お前たちがわたしの内におり わたしもお前たちの内にいることが お前たちにわかる》(ヨハネ14:20)と言われたことは 神にはお出来になるのでないなら この小論を書く意味がないだろう。

《マリア》と イエスが呼びかけられたのである。かのじょは 《振り向いて 〈ラボニ〉と答えた》のである。《イエスは言った。〈わたしにすがりつくのは よしなさい。まだ父のもとにのぼっていないからである。・・・》と。
あるいはそこで 園丁との会話の中で むしろ園丁が マリアを見かけて イエスと見間違えてのように 園丁のほうが 《ラボニ》と言ったのかも知れない。園丁が そのマリアに《すがりついた》のである。マリアが《よしなさい》と人間の声を出して 言ったかどうかは分からない。しかし 園丁が これらを聞いたのである。マリアは これらをすべて 了解した。
史観の方程式 いや史観の原理 いややはり少なくとも史観の方程式として つまりイエスの背面を見てのように すべてを了解したのである。だから これは 生命の言葉であると解さなければならない。筆者(わたし)の体験――これを詳らかにして明かさないが――が これを証しすると付け加えるまでもなく これらのことは 経験的な時間に見られるものである。
あるいは人は この神秘――逆に確かに神秘だ――を 疑うことはできるが また大いに疑うべきであるが これに無関心であることは ゆるされていない。それは 八重垣・スサノヲイスムが 許さないのであって これに無関心であることは 畢竟 自己に無関心であることになるからである。だから 《イエスは マグダラのマリアに現われた》のである。マリアに アマアガリの時間として 経験的に 宿った。このアマアガリは とうてい史観の原理であるお方のそれとは 不類似であるが それとしても 予感によってではあれ 時として 実現するのである。人は これを信じるべきであろう。そのために 疑うべきである。また 信じるというのは 主体的・理性的に 行ないうるし また そう行なうべきであるが 一つひとつの事柄にかんしては 疑うべきである。主体的・理性的に 人間の全的な行為として 信じるという行為は 《イエスが 十字架上の死へと みづから〔主体的・理性的に〕のぼられた》という経緯を みづからの意志によって――と言っても 精神の主導によってというよりも 身体の運動として かつこの運動を精神は見守っている このような意志の全体として―― 飲みまつることによって為される。だから このバプテスマ――聖霊が そう為さしめるのである――は 教会のそれとは ちがう。ないし 教会のそれを包みこむものだ。だから人は 自分を キリスト者だと みづからより 告げる必要はない。必要と思ったときに 相手に 直接の言葉としても 伝えてあげればよい。
また このマリアのように 知らずに アマアガリの時間を持つこともありうる。これは バプテスマのあとのアマアガリであるが バプテスマも そのようなかたちで起こりうると言いうる。つまり そのようなアマアガリが ほんとうの聖霊によるバプテスマとして つまり 弟子たちも長いあいだ イエスと一緒にいたのであるが そしてその限りでかれからバプテスマを受けていたのであるかも知れないのだが このほんとうのアマアガリ(その予感という歴史時間)によって あの史観の方程式が 最後の第三の基軸をむしろ中心とし かつ はじめとして 三つの基軸の全体が 身体および心に刻み込まれるということによって かれらがイエスの内におり またイエスがかれらの内にいるという歴史時間が 実現するのであると思う。
つまり キリスト・イエスを飲みまつるというバプテスマの信仰は アマアガリというバプテスマの信仰によって 堅固にされる。これらは 時間的に 過程の中で為される。人間はこれを受け取り これに気づくのである。自分が 《ラボニ》と――或る誰かに向かってにしろ 自分ひとりでいる時間においてにしろ――声を発する あるいは 人が自分に向かって そう語りかける――面と向かってにしろ 離れているときに これを了解し引き受けるにしろ――。
だから マリアは 復活したイエスを見たのである。見なかったという法は どこにもない。むしろ これを信じない(つまり疑わない とも言いうる)ほうが 人間の理性にとって もっと不思議である。宗教に陥ることなく また 無信仰に陥ることなく 史観の原理・《聖顔をつねに求めよ》。この上なく安全な生(史観)とは この信仰である。キリストを信じるにせよ 疑うにせよ。
だから聖書は むしろ宗教を排して しかも日常生活の言葉を用いつつ あたかも何が神でないかを教えるというように その限りで言わば《疑いのキリスト》を提示するかのように しかし 真実のキリストを 指し示している。しかしそれは 神の言葉である。
マリアは《イエスの立っているのを見る》前に 《二人の天使を見た》。かのじょは《イエスを見ることができる》という予感を持ったのである。遺体がそこにないのだから むしろ生きたイエスに会えるかも知れないと。これを 天使――神の御使いである――が知らせたという表現をとる。そのあとに アマアガリが――不類似の類似が・だから むしろ後になってこれを了解するとき 或る種の予感だったのだなと認識する事態が―― やって来たのである。また 園丁であるかどうかにしろ 一人の人がそこへやって来た 共同の水路をとおってのように(それは 情感・意識・精神のだが) 何がしか了解されたことが 一連の事実としての経過となって 捉えられ表現された。次につづく一段は 弟子たちのいる所へ 《イエスが入って来て》会話を交わすところが記されている。ここでは マリアに付いて以上のように解する。
(つづく→2007-11-22 - caguirofie071122)