caguirofie

哲学いろいろ

#188

もくじ→2005-05-13 - caguirofie

第四部 聖霊なる神の時代

第二十五章b イエスは《死んだ》のである――史観の原理的な方程式の第一の基軸――

《主が墓から取り去られた》をめぐるいわゆる学問的な点検・解釈 これはどうであるか わたしは知らない。

  • 西欧の学者は 批判的にしろ護教的にしろ これを真剣に一度は取り上げる。また 日本ではむしろ そこにあまり価値を見出さないようである。

しかし 《取り去られた》と言うからには 《その前に葬られた つまり 死んだ》のであり また この《取り去られた》ことを否定的に見る人も 葬られたことは 大前提としている。またさらに そもそもイエスなる人物は 歴史上に存在しなかったと言うならば 世界中の《聖書》という聖書の書物は すべて それとして 破棄されねばならないのであり これに赴く人びとは おそらく――つまりいわゆる《マルクシスト》の人たちであるが おそらく――いま 経験的なものごとの類推にしかすぎないが 別のアマテラス人種となることを意図しているとしか思われない。すなわち 国家の消滅を言いつつ 同じ国家という形態の中で 別のA圏形態の住民として そのやしろの共同自治を計ろうとしているか または 国家を そのいまの形態としては或る別のかたちに移行させつつ しかも そのやしろ形態としては 同じくA圏主導のA‐S連関体制を採りこれを 既存のその他の国家形態に対抗させようとしているかであるに過ぎないと言わざるを得ない。そうして ともかくこのいわゆるキリスト教の系譜にある国ぐにでは 《イエスは人間として死んだ》のである。
他方 日本では イエスが死んだかどうかも どうでもよいものとされている。ここでは 時間的存在たる人間として 二つのまったく異なった種類が存在するかのようである。

  • ラテンやゲルマン系あるいはスラヴ系も含めてヨーロッパ人は キリスト教と無縁であったのだから 時期的に大きなずれがあるものの 日本や他のアジアの場合と その対応の仕方などにかんして 条件は同じである。つまりいまの議論は 信仰の有無に関係なく成り立つ。

もし キリスト教の系譜につらなる国ぐにで イエスなる人物は歴史上 存在しなかったという見方が その死はどうでもよいと見なすという見方と同じものであるとするなら おそらく 日本とそのようなソシアリスムの国ぐに〔の政策的な行き方〕とは 深いところで通底しているということであるかも知れない。(いまは 真理について つまり真理が人間となったということにかんする見方について 論議している)。しかし 《わたしはすでにこの世に勝っている》というすべての人間の平等ちうことは そもそも真理ではなかったか。しかも この言葉を イエスは 人間として 語った〔と伝えられる〕のである。《すべての人の 神の前の・あるいは法の下の 平等》というアマテラス語によってではなく 《わたしはすでにこの世に対して勝利している》とまさにスサノヲ語によって語ったのである。こう考えるならば すぐ上に見た・あたかも二つの異なった人種が 人間のあいだに 存在するといった印象は 西欧と日本 ないし いわゆるキリスト教圏と非キリスト教圏の分立・対立ではなくして アマテラス人種とスサノヲ人との分裂・対立〔的な共同自治〕という実態を指し示すものと見なければならないのではないか。ソシアリスムの国ぐにと日本の社会とが ある意味で 互いに通底するという印象も 《イエスが死んだかどうか どうでもよい》という見方をともに持つといった事柄を媒介として 実は そのやしろの統治形態として 実に 《A‐S》連関体制という〔いわゆるアジア的な共同自治の方式・しかも歴史的に見て 古い方式〕の共通性(その中の実態は 別である)を物が立っていると言わねばならないのではないか。
いわゆる西欧的なやしろの共同自治の方式は 或る意味で同じくA‐S連関形態を採りながら むしろスサノヲイスムないしデモクラシという点では S‐A連関形態として それらに異なっていると言いうる。しかしこのスサノヲイスム・デモクラシという概念および現実は そもそも 日本のやしろの中にも 歴史的に明確に見出され むしろいまひとつのではあっても正統の伝統となったいるものではないのか。それは ただ 《わたしはすでにこの世に対して勝っている》のであるが あの《国譲り》という一つの歴史的時間の形態に象徴的に表わされているように 《わたしの国はこの世に属していない(しかし それは 身体を離れるという意味ではない)》がゆえに アマテラス人種に対して ただ譲歩した そしていまも譲歩しているということにすぎないではないか。
二つのくに すなわち 神の国と地上の国の 基本的な分立・しかもこの地上での相互錯綜の両立〔というほどの〕形態ということは そもそも このことではなかったのか。そこに もし見ようと思えば 二つのあたかも人種が存在するという印象が 見られるにすぎないのではないか。
したがって やしろ〔の共同自治の方式〕として 通底するべきは 明らかに スサノヲイスムないしデモクラシ(言うまでもなく デモスとは市民スサノヲ者であり クラシとはその力である)であって――また デモクラシとは やしろの組織形態として・そして或る種の人間の精神の秩序として 記憶行為という人間の三一性の中の一能力に 固有の意味で 対応する―― これに敵対すべきは A圏主導のA‐S連関体制である。もしくは これを保守する〔インタナシオナリストと言うまでの〕ソシアリスムにおけるにしろ あるいは シントイスト・ナシオナリスト・キャピタリスムにおけるにしろ そのA圏の住民類型 しかも《権威には従順であるべし》と使徒パウロが言うからには 必ずしも現行アマテラス社会科学主体が それではなく むしろ これらを補完し A‐S連関体制の保守のために それに輪(第九番目の垣根)をかけて シンキロウを作るかのごとく働くアマテラス予備軍の類型に捉えられるべきではないか。
これは 必ずしも 図式的に つまりやしろの中のただいまの職種によって 区別けするべきではないが やしろにおける八重垣の建設にとって敵対すべき力が そこに見出されるとするならばそれは 上にあたかも理論づけたように(つまり 理論は道具である) われわれは 聖霊(愛)をとおして 愛しつつ 識別して 史観の方程式を展開するのである。その社会的な基盤は ムラ(自治態勢)というエクレシアなるやしろを岩としなければならない。いや すでにその歴史的時間として これは つちかわれている。ここに キリスト史観は その史観の原理の観想と その方程式の具体的な経験的・歴史的な展開への行為とが その両者の理性的な結婚が成ったというかのごとく 問い求められ 見出され 過程されているというのが その理論(あくまで理論)である。
これを 石板の上に書いて掲げるのではなく その理論の意味表示する実態を〔生産〕力として つまり 身体と心とに刻むのである。いや かれによって われわれは 刻まれるのである。(ただし 問い求めずして 刻まれることは 稀れである)。アマテラス語(その主義)を排し しかもアマテラス語〔による理論〕を用いて 生きたスサノヲ語として 史観を生きるのである。このほかに 方法(福音)はないと思う。このような表現として 断言するあやまちが 人間を生かすのであると思う。それは すでに日常の生活の中で 行為されていると思うが 人間の科学は これを 知解しうるための言葉としても 科学するものであると思う。ここで 神に栄光あれという言葉は 自己に逆らってでも 持つべきである。
(つづく→2007-11-21 - caguirofie071121)