caguirofie

哲学いろいろ

#180

もくじ→2005-05-13 - caguirofie

第四部 聖霊なる神の時代

第二十章a なぜなら 史観の原理的な方程式つまり《十字架上の死‐復活‐高挙》は 人間キリスト・イエスの時間でもあったから

史観の方程式とその歴史的時間を素描することによって 聖霊なる神の時代を問い求めてきました。
ヨハネによる福音》では その第十三章で 過ぎ越し祭の前の最後の食事の記述に入るわけですが その前に 《イエスの言葉のよる裁き》という一段を設けています。
〔人間の〕史観の方程式は 神の言葉(キリスト)のあたかも歴史的展開とよぶほどに(むろん 人間社会が時間的・歴史的な展開をとげるのである) 神の言葉・知恵・力に そして同じく その後の聖霊なる愛なる神の派遣に あづかる。言いかえると 人間の内なるやしろの形成では この真理の光に照らされてのように あるいは その手で蔽われ時に遮られてのように みちびかれつつ 史観(生)が展開される。このことを

エスは叫んだ。
 ――わたしを信じる人は わたしを信じるのではなく わたしをお遣わしになったかたを 信じるのである。わたしを見る人は わたしをお遣わしになったかたを見る。わたしを信 じる人が ひとりとして暗闇の中にとどまるこのとないように わたしは光としてこの世 に来た。わたしの言葉を聞いて それを守らない者がいても わたしはその者を裁かな  い。わたしは この世を裁くためではなく この世を救うために来たからである。わたし を拒み わたしの言葉を受け入れない者に対しては 裁くものがある。わたしの語った言 葉が 《終わりの日》にその者を裁くことになる。なぜなら わたしは自分勝手に語った のではなく わたしをお遣わしになった父ご自身が わたしの言うべきこと 語るべきこ とをお命じになったからである。父の命令は永遠の生命を意味することを わたしは知っ ている。だから わたしは 父がお命じになったままに語るのである。
ヨハネ12:44−50)

《イエスの言葉による裁き》の一段が これであります。かれの復活(永遠の生命)という基軸を 人間における復活(正しさ)という第二の基軸として 第一の死による虚偽と損傷が 棄てさせられ癒され そこから回復してのように 第二の死の方向転換およびそのものへ至らしめられる これは かれの語った言葉によって 史観の内なる展開として たしかに人間の歴史であるということであった。

 ――動揺してはいけない。お前たちは神を信じている。わたしを信じなさい。――と同じ 食事の席で ペテロの離反を予告したあと かれは語り継いだ――。わたしの父の家には 住む所がたくさんある。もしなければ お前たちのために場所を用意しに行くと言ったで あろうか。行ってお前がちのために用意したら 戻って来て お前たちをわたしのもとに 迎える。こうして わたしの所に お前たちもいることになる。どこへわたしが行くのか その道をお前たちは知っている。
トマスが尋ねた。
 ――主よ どこへ行かれるのか わたしたちにはわかりません。どうして その道を知る ことができるでしょうか。
エスは答えた。
 ――わたしは道であり 真理であり 生命である。わたしを通らなければ 誰も父のもと に行くことができない。お前たちがわたしを知っているなら わたしの父をも知ることに なる。今から お前たちは父を知る。いや すでに父を見ているのだ。
ピリポが 《主よ 父をお示しください。それで満足です》と言うと イエスは答えた。
 ――ピリポよ こんなに長いあいだ一緒にいるのに わたしのことがわかっていないの  か。わたしを見た人は 父を見たのだ。なぜ 《父をお示しください》と言うのか。わた しが父のうちにあり 父がわたしの内におられるということを 信じないのか。わたしが お前たちに言う言葉は 自分勝手に話しているのではない。わたしの内におられる父が  そのわざを行なっておられるのである。わたしが父の内におり 父がわたしの内におられ ると わたしが言うのを信じなさい。わたしの言葉を信じることができなければ わたし の行なったわざによってわたしを信じなさい。はっきり言っておきたい。わたしを信じる 人は わたしが行なうのと同じわざをするようになる。しかも もっと大きなわざをする ようになる。わたちが父のもとに行くからである。わたしの名によって願うことは なん でもかなえてあげる。こうして 父は子によって栄光をお受けになる。わたしの名によっ て何かを願うならば わたしがかなえてあげる。
ヨハネ14:1−14)

ここにも 《死‐復活‐アマアガリ》という方程式を見ることができる。《かれが父のもとに行く》という第一の基軸もしくは その三つの基軸の全体によってである。そこで 今度は もしこの三つの基軸の全体が 史観の原理〔の全体〕として 一つのこと すなわち永遠の生命(神の言葉すなわちキリスト・神の国)であるとするならば 実に イエス・キリストの《死‐復活‐高挙》は 人間的な・時間的・経験的な史観の展開でもある。ペテロやユダの展開例とならんでのように 人間イエスの個体にとっての具体的な方程式の形式である。かれは 人間として《死》に 《復活》し 《天に挙げられた》のである。その《死》は 人間として涙しながらであったのであり 神の貌としてはみづから欲しられて これを引き受けた。人間として 身体ごと(ヨハネ20:24−29) 復活し 天に挙げられた。この最後の二つは 人間にとっては 将来するものとして臨むのがただしい(三位一体論4・18〔24〕)。第一の 死〔そしてその前の生誕〕は――死が将来すべきものではあっても―― われわれに経験共通である。
《わたしにとって生きるとは キリストを生きることである》(ピリピ書1:21)という使徒パウロにとっては 人間キリスト・イエスのこの方程式形式を生きることであった。あたかも 《わたしを信じる人は わたしがおこなうのと同じわざをするようになる。しかも もっと大きなわざをするようになる》と言われた言葉の展開であった。
そうして これが 内なる人の秘蹟・外なる人の模範というように われわれは 内なるやしろの方程式展開と外なるやしろの史観形成を いま 聖霊の時代においてというように 問い求めている。
聖霊の時代というのは 《ピリポよ こんなに長いあいだ一緒にいるのに わたしのことがわかっていないのか》と言われたその人 かれを いまはすでに見ないからである。しかも 永遠なる生命という史観の原理(キリスト)としてだけではなく 《死‐復活‐アマアガリ》という方程式を 人間(キリスト・イエス)として生きた歴史的時間が かれによって キリスト者に与えられている。
(つづく→2007-11-13 - caguirofie071113)