caguirofie

哲学いろいろ

#182

もくじ→2005-05-13 - caguirofie

第四部 聖霊なる神の時代

第二十一章 したがって われわれの《第一の死‐復活‐アマアガリ》の方程式から成る諸三一性過程の総体(やしろ)が 原理的に その模範なるキリストのからだである

この表題に述べた観想的な史観の原理によって 個人と社会 個体と共同体 政治と経済〔と社会組織〕 S者とA者 S圏とA圏などの分離・対立・連関が まづ主観的には止揚されてあるというのが はじめの空想かつ科学であった。それには 反面で 外的な行動ないし言葉としては 《キリスト〔のからだ〕》などといった固定的な文字 これは むしろ無化されていたほうがよいとも言っておく。もしくは この一つの観想ないし理論は 人間の持つ三一性の像であり 人間はなおこれをそのように人間の有として用いるということだ。そこで
わたしはいま 気の狂った者のように言いますが 聖霊の時代ということにかんして 誤解があってはならない。つまり たしかに 新しい時代は このような歴史的時間として 聖霊なる神なる時代であると言おうとするのですが 一つには これは あのキリストの復活後――かれがみづからの史観の方程式を成就して指し示したのち―― すでにこの時代は この第二のアダムの時代としても始まっていたということ。もう一つには――たしかに気の違ったように言うのですが―― キリスト・イエスその方が この世に――遠からず――ふたたびやってこられるということ。

  • この初稿の表現を留めたいと思います。(第二稿のあとの著者注釈)
  • 《留めたい》というよりは 《留めておきます》に言い替えます。(20071114)

聖霊は 《花嫁(新しいエルサレム 出雲八重垣なるスサノヲイストのデモクラティックなインタムライスム)と共に 〈イエスよ さあ 来てください〉と言う》(ヨハネへの黙示22:17)ということ これらによって 聖霊の時代とは まづそもそも三位一体なる神の国のことにほかならず そうしてこれを 現代の一地点に立って そのようによぶのがふさわしい面もあるであろうということになる。このことに誤解があってはならない。
あるいは これまでが むしろ聖霊の時代であって――なぜならイエスをもう見なくなった―― むしろこれの完成とともに ふたたびイエスが来る。そうして あらためて阿多足意時代が開かれるであろう このようにわたしは見ます。
ヨハネに降った黙示をこう解するとき 同じ使徒による福音書で いまわれわれが見ようとしている箇所から 次には 《この世の憎しみ》と要約された一節を読みます。
はじめに あの史観の方程式にのっとって 霊的にアマアガリしたスサノヲ者は むろん身体を離れてではなく この世の情念・倫理の世界の 時の変化とともに動揺する高みを超えているということ この意味で かれら いやわれらは 《この世に属していない》 これを確認しつつ

 ――この世がお前たちを憎むなら その前にわたしを憎んでいたということを覚えていなさい。もし お前たちがこの世に属する者であれば この世はお前たちを自分の身内として愛したはづである。だが お前たちはこの世に属しておらず わたしはお前たちをこの世から選び出した。だから この世はお前たちを憎むのである。《召し使いは主人よりも偉くない》と わたしが言った言葉を思い出しなさない。人びとがわたしを迫害したのであれば お前たちをも迫害するだろう。わたしの言葉を守ったのであれば お前たちの言葉をも守るだろう。しかし 人びとはわたしの名のために こうしたことをみなお前たちにするようになる。わたしをお遣わしになったかたを知らないからである。わたしがやって来てかれらに話さなかったなら かれらに罪はなかったであろう。だが 今は かれらは自分の罪について弁解の余地がない。わたしを憎む者は わたしの父をも憎んでいる。誰も行なったことのないようなわざを わたしがかれらの間で行なわなかったら かれらに罪はなかったであろう。だが今は そのわざを見たうえで わたしとわたしの父を憎んでいる。しかし こうして 《人びとは理由もなく わたしを憎んだ》と かれらの律法に書いてある言葉が実現した。
   わたしが父のもとからお前たちに使わそうとしている弁護者 すなわち 父のもとから出る真理の霊が来るとき わたしについて証しをする。お前たちも 初めからわたしといっしょにいたのだから 証しをするはづである。
   このように話したのは お前たちの信仰がぐらつかないためである。人びとはお前たちを会堂から追放するだろう。しかも お前たちを殺す者が皆 自分は神に奉仕していると考える時が来る。かれらがこういうことをするのは 父もわたしも知ろうとしなかったからである。だが このように話しておくのは その時が来たときに わたしがそう語ったということを思い出させるためである。
ヨハネ15:18−16:4)

ここで語られていることは 史観の方程式について 具体的に三つの基軸の展開が あのペテロの図式とそしてユダの例とに あたかも分かれてのように そうして大きくは イエス・キリストの模範例(しかしこの例が 真理 一つなる真理である)に摂取されてある。(むろん ユダの場合は 締め出されつつ摂取されているのである。悪は 善なしには存在しない。善は あるいは少なくとも至高の善なる神は 被造物なしにも 存在しうる)。いや言いかえると イエス・キリストの方程式展開を そのまま史観の原理として ここから 人びとの具体的な史観の形成が ペテロの例とユダの図式とに二分され展開されるであろう このことであります。
これが 弁護者 真理の霊が遣わされるとき 実現する。そして 現代の聖霊の時代としては その歴史的時間が S圏を基盤としたやしろ次元で あたかもそれを縫い目のない円環として 方程式の展開において 推移すると先に見た観点との兼ね合いにかんしては この或る種 枠組みの視点の中で 上のように ペテロ類型とユダ形式とが ともに現われ 推移するだろう これを言います。
《この時が来たときに わたしがそう語ったということを思い出させるためである》とは 神の言葉であります。そうして 経験的な情念としてのこの世の憎しみと愛とが このような二つの類型の方程式展開に そのきっかけを提供するでしょう。《〈召し使いは主人よりも偉くはない〉とかれが言った言葉》に属く人は たとい離反ののちにも 岩なるやしろ〔の中〕に立って その八重垣を堅固に守るでしょう。いま 経済的な制度 つまり生産態勢(イエ・キャピタル)の問題を抜きにして語るなら このように〔インタ〕スサノヲイスト・デモクラシに立ったインタムライスム このエクレシアなる花嫁が 花婿なるキリストに聖霊なる神が 八重垣を――霊的に――弁護して このエクレシアじたい キリストのからだだということになります。
神は ユダの形式をも このために用いたまうのです。

悪魔の策略(偽りの接吻)に対抗して立つことができるように 神から与えられた武具を身につけなさい。――と使徒パウロも この史観に立って 語りかけます――。わたしたちの戦いは 弱い人間を相手にするものではなく 支配と権威の霊 暗闇の世界の支配者 天にいる悪の霊を相手にするものなのです。ですから 悪の力が増大する日によく抵抗し すべてを成し遂げて しっかりと立つことができるように 神から与えられた武具を身に着けなさい。
(エペソ書6:11−13)

そうすれば 《キリストのからだは一つ》であり 

しかし――と同じ使徒は エクレシアの建設・その展開をこう明かします―― 恵み(賜物)はわたしたち一人ひとりに キリストが与えようと思われる程度に応じて与えられています。それで 聖書にこう言われています。

かれは高い所に昇るとき 捕らわれ人を連れて行き
人びとに賜物を分け与えた。
  (詩編68:18)

《昇った》というのですから その前に低い地上に降りていたのではないでしょうか。この降りて来られた(――アマテラス族も 天孫降臨を説く――)かたは すべてのものを満たすために 天の上に昇られたのであり そして ある人を使徒 ある人を預言者 ある人を福音宣教者 ある人を牧者 教師とされたのです。こうして 聖なる(健やかな)人たちは奉仕の仕事に適した者とみなされキリストのからだである教会(エクレシア)を建ててゆくのであり ついには わたしたちが皆 《神の子》に対する信仰と知識において一つのものとなり(――《一つのもの》と言うからには はじめはバラバラであった。しかし《一つのものとなる》からこそ 多様であり互いに異見をあい容れることができる――) 成熟した人間になり あふれんばかりのキリストの大きさになるまで成長するのです。こうして わたしたちは もはや子供のように未熟な者ではなくなり 人びとを誤りに導こうとする悪賢い人間の 風のように変わりやすい教えのままに くるくると考えを変えることなく むしろ 愛に根ざして真理を語り あらゆる面で 頭(かしら)であるキリストに向かって成長するようになるでしょう。この頭の働きにより からだ全体は あらゆる節ぶしが補いあうことによってしっかりと組み合わされ 結び合わされて おのおのの部分は分に応じて働いて体を成長させ こうして みづから愛によって建てられてゆくのです。
(エペソ書4:7−16)

これが やしろ(S圏・エクレシア)の観点に立った 史観の展開。方程式の展開は むろん各主観(やしろ人)ごとの史観に属するものであり これが 愛(聖霊)においてあたかも綜合されてのように あのムライスムなる見えざる共同の水路をとおして 共同主観なる八重垣として打ち建てられてゆくのです。そのとき このS圏は そのやしろを堅固なものとし その中に――あたかもその中にというほどに―― これまでのA圏スーパーヤシロを 引きずり下ろして いや A圏の住民があたかも S圏における八重垣の建設を見ることによって かれらの疾患が癒されてのように みづからここへ降りて来て これをS圏の史観全体が 包み 新しいエルサレムを樹立するのです。(重ねて言っておきますが この史観の構造ないし方向性は つとにマルクシスムが説こうとしたものでもあります)。
経済的な制度 あるいはその豊かさは あたかもこれらの土台であるというほどに これまでのキャピタリスムの繁栄を〔も〕継承してのようにその制度を再編成して これを行なうとのみ記せば 済むと言っても 大方の理解を得られないわけではないでしょう。

  • この経済制度にかんする分析・研究あるいは或る意味で予言などの知的再生産にあまりにもかかわることは 生産的ではないでしょう。また これが 一つのくに ないし一つの地平においてだけ行なわれても あたかも無意味だ・あるいは そのようでは 成就できないであろうという批判に対しては むろん この史観(福音)の輸出が 必要であると答えなければならない。しかし もはや これについても その集中豪雨的な輸出はまったく必要でないというほどに 福音の土壌は むしろいやというほどに 出来上がっている。このことを見ないで批判することには 何のの根拠もないと言ったほうがよい。
  • 問題は 批判をしないで 手をこまねいている人たちであります。しかしこれに対しても われわれは 神がこれをなしたまう――神に栄光あれ――との確信に満ち満ちているのですから ユダのように〔イエスへの〕偽りの接吻へと先走ることがあってはならない。キリストのからだは 神ご自身がこれを打ち建てられるのであり またその節ぶしであるわたしたち一人ひとりが これにあづかるのであり わたしたちの内の誰がかが キリストと対等に接吻するまでの大きな魂(身体)であるとは思われない。われわれ一人ひとりは 《神から与えられた武具を身に着け》て 分に応じてこの悪と戦うことで 共同主観としての史観の綜合はなされていくのです。そのための組織が必要であるならば 神がこれをあつらえてくださるでしょう。

(つづく→2007-11-14 - caguirofie071114)