caguirofie

哲学いろいろ

#183

もくじ→2005-05-13 - caguirofie

第四部 聖霊なる神の時代

第二十二章a だからペテロの信仰

前章に見た歴史的時間 やしろの・主観によるかつ共同主観的な建設 これにかんしては やはり 最後の食事の席上でイエスは たとえを用いて説きます。すなわち 《イエスはまことのぶどうの木》と要約される一節であり ぶどうの木の枝々・房々が キリストのからだにおけるわれわれとしての節ぶしであります。このおとぎ話しふうの言葉をわれわれは避けて先走る必要はありません。
ヨハネの記すところによれば。

 ――わたしはまことのぶどうの木で わたしの父は農夫である。わたしに付いている枝で 実を結ばないものはみな 父が取り除かれる。しかし 実を結ぶものはみな もっと豊かに実を結ぶようにと 手入れをなさる。わたしの話した言葉のおかげで お前たちはすぐに清くなっている。わたしにつながっていなさい。わたしもお前たちにつながっている。ぶどうの枝が 幹につながっていなければ それ自身では実を結ぶことができないように お前たちも わたしにつながっていなければ 実を結ぶことができない。わたしはぶどうの木で お前たちはその枝である。わたしにつながっており わたしもその人につながっていれば その人は豊かに実を結ぶようになる。わたしを離れては お前たちは何もできないからである。わたしにつながっていない人がいれば 幹につながっていない枝のように 外に投げ捨てられて枯れる。そして 集められて火に投げ入れられ 焼かれてしまう。お前たちがわたしにつながっており わたしの言葉がお前たちの内にいつもあるならば 欲しいものはなんでも願いなさい。そのとおりになる。お前たちが豊かに実を結び わたしの弟子となるなら それによって わたしの父は栄光をお受けになる。父がわたしを愛されたように わたしもお前たちを愛してきた。わたしの愛に生きなさい。わたしが父の掟を守り その愛に生きているように お前たちも わたしの命令を守るなら わたしの愛に生きていることになる。
   こういうことを話したのは わたしの喜びがお前たちの内にあり お前たちの喜びが満たされるためである。わたしがお前たちを愛したように お前たちも愛しあうこと これがわたしの掟である。友のために自分の命を捨てること これ以上に大きな愛はない。わたしの命じることを実行するならば お前たちはわたしの友である。もう わたしは お前たちをしもべとは呼ばない。しもべは 主人が何をしているかわからないからである。その代わり お前たちを友と呼ぶ。父から聞いたことをすっかりお前たちに知らせたからである。お前たちがわたしを選んだのではなく わたしがお前たちを選んだのである。お前たちが出かけて行って実を結び その実が残るようにと また わたしの名によって 父に願うものはなんでも与えられるようにと わたしがお前たちを任命したのである。お前たちが互いに愛しあうこと これがわたしの命令である。
ヨハネ15:1−17)

人はここから キリスト史観の要綱をあらためて 見出す。
(1) やしろの奥なる至聖所のいと高きところにいます神は 《三位一体》の神である。――《わたし(子)が父の掟を守り その愛に生きている(聖霊)ように お前たちも わたしの命令(神の言葉すなわち 生命)を守るなら わたしの愛(永遠の生命)に生きていることになる》。前半が したがって 史観の原理である三位一体 そして後半が 三位一体の似像である人間の史観(生) しかもこの人間の史観においては 三位一体の似像たるその形相あるいは行為能力は これを人間が自己のものとし よく用いる。
(2) 三位一体のいづれの位格(ペルソナ)も そしてその全体も 愛であり また固有の意味では 父と子との共通の愛としての聖霊が 愛なる神と呼ばれるものであるとき この愛なる光に照らされて つまり言いかえると 人間が《互いに愛しあう》なら かれは神を見る。それは――神は三位一体であったのだから―― 《わたし(子なる神)はまことのぶどうの木で わたしの父は農夫である。わたしに付いている枝で 実を結ばないものはみな 父が取り除かれる。しかし 実を結ぶものはみな もっと豊かに実を結ぶようにと 手入れをなさる》と表現されるにふさわしいかたち あたかもそのような働きとして かれは 神を見る。しかし かれ(人間)がこのように表現した言葉じたい 人間の真実の言葉ではあっても 神〔の言葉〕(その実体)そのものとはちがう。それは なお人間の能力によって捉えた言葉でありまたそれが内包する形相(思惟の像)であり(――つまり いま言っていることは イエス・キリスト自身の語った言葉についてこのように言うということは それがここでは殊に《たとえ》によっているからであり それについて 或る意味で言わずもがなの点を確認する――) われわれはこれを 鏡ないし似像というのであって この似像をとおして この真実の言葉(人間の捉える・かれの存在にかかわる或る三一性)を 先に見得た神〔の国・その歴史〕に関係させ得る。
これは つまり《キリストがまことのぶどうの木で 父なる神は その枝を取り除いたり 手入れをしたりなさる農夫である》といった観想――そしてそれが 行為にもつながったものとしてあるもの――は 《父と子との交わりである聖霊なる愛》〔を与えられてのように そこ〕において 人間はこれを為し得る。これは 神の国である。
(3) そして この神の国は 《第一の死(罪)‐復活(正しさ)‐第二の死〔の方向転換〕(裁き)》という三つの基軸の史観の方程式によって基本的に成り立っている。

  • いま この方程式の内容をそれぞれ《第一の死=否定》 《復活=否定の否定》 および《アマアガリ=第一義的な肯定 あるいは 自由》というふうに捉えるなら 弁証法の言う過程的な原則に近いと見得るかも知れない。これについて 基本的に整理しておくと まづ 次のような対比によってそれらの違いが明らかになるだろう。
  • キリスト史観の方程式は 史観(人間の生の全体)であり 弁証法はその・あるいは独自の 理論であるということ。したがって 全体・観想的に対して 個別・論証的。超論理的に対して 倫理的ないしは逆に論理的。《キリストは裁かず かれの言葉が裁く》というほどに 主観的であり――文字どおり その方程式展開が目に見えては現れないこともありうるというほどに 主観的であり――これに対して 個別・論理的に客観的である。
  • ちなみに このとき 唯物史観が 弁証法であるという場合には 唯物史観は この論理・客観的な理論をそのまま史観とするというのではなく そのはじめの出発点つまり主体である主観を 生きた史観としていなければならないであろう。そうでなければ 《無階級社会》――それがほんとうに実現されるべきものかどうかはどうであれ ないしその意味するところがほんとうは何であるかはどうであれ――は 論理アマテラス語の上では獲得されても 主観・主体がこれを用いる・享受するということは 不可能であろう。なぜなら その弁証法が必要であると言っている間は そこに到達していないであろうし もはや必要でなくなったと言えるときには この理論としての弁証法は つまり階級闘争にかんする弁証法は 実ははじめから必要ではなかった。すなわち階級闘争史観という理論に自覚的に立たなくとも 社会的な敵対関係は存在していてこれに対して いわゆる実践はすでに行なわれていたであろうから。もしそうでないと言うには いまここで 《無階級社会》というものをはっきりと示して見せなければならない。そうでなければ その客観理論を――永久革命と言うがごとく――つねに 叫んでいなければならないと言わなければなるまい。そうであるなら やはり《理論は 史観の生きるときはじめて 生きるのであり またそれは つねに工事中である》ことを承認して そのコミュニスム史観からのいくつかの方法を その接近の仕方として つまり複数の理論として出し合い またこれらを同等に評価しあっていなければならない。しかし もしこれが 何を言うのか そんなことはわかりきったことであり 実際そうしていると言うなら しかしそのときにも われわれの側からは それら唯物史観の接近の仕方にかんする諸理論も なおあの鏡を見ている 鏡そのものを見ている と返答するということになるであろう。
  • つまりもし《無階級社会》という一命題を取り上げるとしても これは 現在する将来の共同主観なのであると――なかんづく主観であると―― たしかに史観していなければならないのである。かれらは たしかにそうしているかも知れない。多かれ少なかれ 一部の人びとは そのように認識しているのかも知れない。ただ この一確認は 重要であり そしてこの共同主観を もっと前面にないし第一義に やはり掲げていなければならないのである。そのためには キリストをと言ってわれわれの田に水を引くことは差し控えるとしても たしかにキリスト史観が 事の本質としてこれをよく明らかにするであろうと われわれには考えられた。これには むしろ断定的に マルクスがこれに立っていなかったとしたなら 唯物史観の理論はすべて空しいであろう。つまりなおいわゆるナシオナリスムの中でのみ有効であるとしかならないであろう。だからそのとき 接近の仕方にかんして現われる諸理論は このナシオナリスムを大きな一基軸としている。それを一基軸としてしか打ち出されて来ないであろうと言っていることになる。
  • コミュニスト党は 一個のナシオン・社会形態の中にも 事の本質として 複数でなければならない。そのときには 唯物史観を脱皮してこのキリスト史観とするか さもなくば いま――この今 つまり無階級社会がまだ実現していないこの今――唯物史観は そのようなものだと宣言している必要がある。もしこれが出来ないなら それは なお客観共同なのだと言ったほうがよい。しかし このことは ぼんやりとでも 《無知な》市民には すでに十分に承知されていることである。

(つづく→2007-11-16 - caguirofie071116)