caguirofie

哲学いろいろ

#64

もくじ→2005-05-13 - caguirofie050513

第二部 唯物史観への批判

第四章 キリスト史観は われわれ人間がキリストに似るであろう史観である

第三節 栄光から栄光へ(3)

肉に従って生きる者は 肉に属するものを考え 霊に従って生きる人は 霊に属するものを考えるのです。肉の考えに従えば死が 霊の考えに従えば生命と平和とが与えられます。なぜなら 肉の考えに従う者は神に敵対しており 神の律法に従っていないからです。いいえ 従うことができないのです。肉の支配下にある者は 神に喜ばれるはづがありません。神の霊があなたたちの内に宿っているかぎり あなたたちは 肉ではなく霊の支配下にあります。キリストの霊を持たない者は キリストのものではありません。キリストがあなたたちの内におられるならば 体は罪のために死ぬことになっていても 正しい者とされたことのために 聖霊があなたたちの生命となっています。もし イエスを死者の中から復活させた方の霊が あなたたちの内に宿っているその霊によって あなたたちの死ぬはづの体をも 生かしてくださるでしょう。
それで 兄弟たち わたしたちには一つの義務がありますが それは 肉に従って生きなければならないという《肉》に対する義務ではありません。肉に従って生きるなら あなたたちは死ぬことになります。しかし 霊によって体の悪い行ないを絶つならば あなたたちは生きます。神の霊によって導かれる人は皆 神の子なのです。あなたたちは 人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく 神の子とする霊を受けたのです。

  • 唯物史観(ないし共同観念史観)によって認識される歴史の古今にわたる流れは もしそれらが正しいものであるとするなら それは第一義的には このことによって またこのことによってのみ 実現の運びへと向かうことができると推察されるはづです。
  • マルクシストや後代のナシオナリストがたとえそうではなくとも マルクスその人やはじめのナシオナリストらは 前者は 言わば共同主観〔唯物論〕の神の国と地上の国とへの分裂に比されるべき社会階級間のその具体的な分裂の想定を見るとき また 後者は プレ・ナシオナリスムの段階へと 社会形態を導きそのように国家形態を形成しようと考えこれを実行したとき それぞれ両者とも このこと・すなわち《肉に従って生きる肉に対する義務ではなく 主観共同(その霊による心)によって導かれること》を 後代の歴史に対しても託さなかったとは言えません。また そうだとするならば このことも たしかに死者の復活として――なぜなら マルクスも初期ナシオナリストも死んでいます―― 事はよみがえってくるものでなければならないことになります。
  • しかもこのことは 人間的な動機による階級闘争や国家形態の変革やまた社会の改革ないし維新といった事業に 直截・第一義的にあることなのではなくて 言いかえれば 直接 力によってわたしたちの内なる罪や悪を打倒するということではなくて そうではなく逆に 何者かから 言わば無償で 信仰と心の義の報いとしてのように 理性的な観想とその力が与えられる。またこれを受け取ることによって 第一義的な・旧き人の死と新しき人の再生とが 可能となることとしなければならないと考えられます。
  • マルクシストの階級闘争やナシオナリストの正しい共同観念の実行としての維新や これに従属して導かれるものとしてのみ 神の律法=共同主観が 人間の有・人間の力としての共同主観史観へと だからこれによる新しい共同自治の形式へと わたしたちが変えられ導かれるものと言うことができるでしょう。なぜなら キリストは天使たちに優る(ヘブル書)からです。また キリストは 御父とともに この賜物である聖霊を 天使たちのためではなく 人間が受け取るものとして 発出され遣わされるからです。無神論に立つとされるマルクスさえ この天使たち=純粋思想=つまり幽霊(紐帯・幻想・高次の本質)の支配を排し あたかも賜物を自己とプロレタリアの心に受け取ることを俟つようにして かれのコミュニスムの方程式を 現実なる運動・自然史的な過程にこそ 第一義的には見出したものと言わねばならないようにです。
  • ちなみに レーニン(その革命方式)は あたかももう一方のナシオナリストの要因を含むごとく このマルクスの特殊な一継承例であるようにです。しかし 共同主観の内部かつ地上的に分裂した一派であるキャピタリスムが 歴史的にその最高の段階に到達したのだとするなら 他方 共同観念=律法(その遵守を旨とする人たち)のすなわちナシオナリスムが やはり同じように はじめのナシオナリストらの段階から その可能なあらゆる形態をすでに採って 最終的な段階に至ったとも考えられ もしこう考えるなら 人為的な・一方では学問による天使たちの明示・提示 他方では律法の正しい行ないの主張と継承 これらはやはり その最終的な段階に至っており また キャピタリスムおよびソシアリスム(かつナシオナリスム)社会形態として 共同主観の二重分裂と共同観念の正しい実行とのその最高の段階にすでに現実的に至っておると見なければならず わたしたちはここで 新しい衣替えを待ち望むようにして おおきく自然史の過程に身を委ねるから または この過程としての第二のアダムすなわちキリストを主体的に飲み祀るかすることが 課されていると言っても言い過ぎではないとかんがえられます。

この霊によってわたしたちは神に向かい 《アッバ 父よ》と呼んでいるのです。この霊こそは わたしたちが神の子どもであることを わたしたちの霊と一緒になって証ししてくださいます。もし子どもであれば 相続人でもあります。神の相続人 しかもキリストと共同の相続人です。キリストとともに苦しむなら ともにその栄光をも受けるからです。
パウロ:ローマ人への手紙 8:5−17)

第四節 将来の栄光

現在の苦しみは 将来わたしたちに現わされるはづの栄光に比べると 取るに足りないとわたしたちは思います。被造物は 神の子たちの現われるのを切実に待ち望んでいます。被造物は虚無の力に服していますが それは 自分の意志によるものではなく そうさせた方の意志によるものであり 同時に希望も持っています。つまり 被造物も いつか滅びの奴隷状態から解放されて 神の子供たちの光栄ある自由にあづかれるからです。被造物がすべて今日まで ともにうめき ともに産みの苦しみを味わっていることを わたしたちは知っています。被造物だけではなく 聖霊の初穂をいただいているわたしたちも 神の子とされること つまり 体のあがなわれることを 心の中でうめきながら待ち望んでいます。わたしたちは このような希望によって救われているのです。見える(かたちある)ものに対する希望は真の希望ではありません。見えるものを誰が希望するでしょうか。わたしたちは 目に見えないものを希望している以上 忍耐して待ち望むのです。
同様に 聖霊も弱いわたしたちを助けてくださいます。わたしたちはどのように祈ったらよいか知りませんが 聖霊ご自身が 言葉に表わせないうめきをもって執り成してくださいます。人の心を見抜く方は 聖霊の思いが何であるかを知っておられます。聖霊は 神の御心に従って 聖なる人たちのために執り成されるのです。ご自分を愛する人びと つまり ご計画に従って召された人びとに対しては 神は万事が益となるようにお働きになるということを わたしたちは知っています。神は前もって知っておられた人びとを 御子の姿に似たものにしようと予定されました。それは 御子が多くの兄弟の中で長子となるためです。そして 召し出された人を正しい者とし 正しいとされた者に栄光をお与えになったのです。
(ローマ人への手紙8:18−30)

わたしたちは このような確信に満ちあふれていますので この《将来の栄光》を いま見つめています。身体ごとあがなわれる栄光をいま見つめています。ですから 《将来の栄光》というこの《将来》を 現在するものとして確かにつかんでいます。そうでなければ いま《将来の》栄光と言えません。
ですから 唯物史観の将来の栄光には わたしたちの主観は引き渡すことができません。かれらの言う《将来》も それがいまたとえ同じく現在する歴史過程であると考えたとしても たとえば 人間による人間の搾取(生産手段の所有者による他人の労働の成果の取得)が存在しないことといった知解行為(その視観)にのみは この身体も心も拉し去られてゆくというわけにはまいりません。また ソシアリスム共同主観による社会形態のもとでは 各人は能力に応じて働き 労働に応じて受け取るという原則 また コミュニスム共同主観の社会にあっては 能力に応じて働き 欲望に応じて消費するといった原則 このような原則が行なわれるというかたちあるものには 希望を託すことはできません。これは よく考えてみると 主観の〔自己形成における〕希望が むしろ この原則的なかたちに引っぱられてゆき このような知解行為(その視観)に 実はおのれの史観を託しているといったことが 実態なのではないでしょうか。
人間の精神(記憶)が――それが 人間を構成する物質の動きの反映でありその翻訳されたものであれ―― はじめの視観を捉え この視観を 人間の知性が さらに視観(知解)する たしかにこのように知解しますが 人間は その主観は はじめの視観と 次の視観からの視観とを 第三の意志によって言わばつなぎ合わせて これをいま 愛するということによって 形成されるのです。このようにして生きるのです。たしかに 視観と視観からの視観との関係が 知恵たる父なる神と知恵からの知恵たる子なる神との〔無時間・原理的な〕一体に 人間としても似るものになるであろうと信仰しつつあえぎ求めますが しかし聖三位一体と人間の時間的な存在としての三一性とには はなはだしき不類似が存在することをわたしたちは見ないわけにはまいりません。この人間の真実の言葉としての知解行為は 神の力・神の知恵であるキリストにいくらかは似ていますが しかしこれらが如何に似ていないかを考察するのにわたしたちは躊躇すべきではありません。
しかも このような悲惨な存在であるわたしたち人間は その身体ごと贖われてのごとく キリストの聖霊を受け取り 三行為能力(精神・知解・愛)の全体で かれキリストに似るものになるのです。ここに 希望が託されます。キリストをわたしたちの長子とするようなに命じる神の愛によって わたしたちは 自己と他者とを愛するがゆえに 正しい真実の知解行為を愛し 人間の有とするのです。《つまり人間が欲するままに生きること――〈能力に応じて働き いや欲するままに仕事を為し 欲望に応じて消費する〉――が真実となるであろう》 この視観(視像)とその知解行為 これを愛して これを人間の有とするのです。しかし この主観の自己形成は 主観のであって(その内的なことであって) 客観の外的ではありえません。それを 第一義的に 社会階級関係の問題に置こうとする人は それを宗教組織やその活動に見出そうとする人びとと同じように 外的な客観に〔主観の自己形成を〕問い求めているのです。希望も信仰も愛も大事ですが その中で愛がいちばん尊いのですと言われるように 人間の主観形成は 精神の視観(アマテラス概念)よりも 知解行為の人間の真実の言葉(理論)よりも 身体ごとの愛の行為者としての自己の存在がその基軸であり そのすべてであるので 上のような点が言えるのです。聖書のおしえることのすべては 二つの戒めに・すなわち 神の愛と隣人の愛とに帰すると言われるように 比較にならぬほど神を愛し(神のために神を愛し) 自分自身と同じほど隣人を愛し(神のために隣人を愛し) いま生きるその姿が われわれのキリスト史観にほかならないのです。
わたしたちは この将来の栄光をいま見つめているのです。聖書として伝えられる言葉は 神の言葉と知ったからです。
だから わたしたちは 唯物史観を批判します。いまはすでに過去となったキャピタリスム共同主観には未練はありません。われわれ自身がキリスト史観となって 言いかえると 一定の形態の共同主観を立てない・新しい主観共同の社会へ進むというのが――むろんそのとき ソシアリスム共同主観に対しては 個体としてインタスサノヲイスム 社会的にはインタムライスム=インタキャピタリスム つまり《S圏主導‐A圏》連関制などなどといった諸形式・諸方式をむろん考えますが―― われわれの現在の自己の存在なのです。
(つづく→2007-07-19 - caguirofie070719)