caguirofie

哲学いろいろ

#65

もくじ→2005-05-13 - caguirofie050513

第二部 唯物史観への批判

第五章 理論としてのキリスト史観(1――その前提)

第一節 キリスト史観は歴史理論として述べうるか

ここまで述べてきて いまその当否がどうであれ もはやわたしたちの言うキリスト史観がどんなものであるか おおよそはつかみ得たのではないかと あえてここで一区切りを打ちます。
さて この最終の諸章は かなり大幅に紙面を割いて それではと理論としてのキリスト史観を考察しておきたいと思うところです。理論としてという条件は 前四章の叙述を前提として 現実の自己の主観形成(――これは 思惟のみによっては捉えられない また 思惟するとおりには語り得ないと言われる性質のものですが――)を主とし この理論を従とするという意味です。またその限りで 歴史理論として史観はどのように知解されうるか これに迫ってみたいと思うのです。くれぐれも言っておきますが これまでの考察は むしろその思惟を無化するところに 現実の自己形成があったというのに対して この理論としての史観は 何らかの思惟の内容として その史観を考えているということになります。
生きた史観は 共同主観でありました。すなわちその共同性というのは――聖霊の働きによって 一つのものとなるという大前提を措くとすれば――その要因としては 原主観(すなわち 三行為能力の一体性という 聖三位一体なる神の似像であることですが)のそれであり これが 客観共同ではなく主観共同だと言うのは この原主観は各自の個性と一体であるということです。また神学的に申すならば 主観共同夢が 唯一なる神の聖霊という一つなる賜物であると考えられるとき 個別的な主観は その三行為能力の分与において いくつかの形の賜物がなお存在すると言ってのように それぞれ異なるということです。すなわち 或る人においては記憶行為が優れており 或る人は知解行為がより優れた能力としてあり 或る人は愛の行為がそれらを凌駕するといったふうにです。
これらが 共同主観の共同主観であることの実態でありました。
これに対して 理論としての史観は この共同主観が現実に前進するとき 一般的にしろ個別的にしろ その過程を理論するという知解行為に属します。しかしながら ひるがえって わたしたちはこれを なお キリスト史観として為します。キリスト史観として理論(知解)するということは たとえば一般に理論としての歴史学ではないということであり なおやはり はじめの共同主観にとどまっていると言わねばならないとはお断りしなければなりません。これを このように為す理由は たとえばここで やはり唯物史観に対して・またその立ち場からのわれわれへの批判に対して わたしたちがただ沈黙しないがためということになります。キリスト史観者は わたしが間違ったなら そのあやまりを指摘していただきたいと思います。唯物史観者は この理論のあやまりを見て キリスト史観者を批判するのではなく また その自分たちの理論を必ずしも固執するのではなく つねにこれまでの前四章に叙述した原則的な考察の地点から その批判的な検討を経て その共同主観を自分たちなりに築き語りかけて欲しい。このことをお願いして この課題に取り組んでゆきたいと考えます。


第一節は キリスト史観は 歴史理論として述べうるか また 述べうるなら それはどのようにかに関してです。
たとえばまづ キリスト史観は あくまで一個の個体としての人間の主観=自己形成の過程の中にあります。これを おおきく人類の歴史としての過程といった次元にまで拡げて 理論として 考えうるかであります。もっとも はじめに断わっておかねばならないことは たとえばわたしたちは 一個の人間は有限な存在であるが 類としての人間は永遠であるなどとは考えません。捉え方が異なっています。時間的な存在である一個の人間の中に その主観形成として 有限なる永遠のいのちが与えられ見出せるとは考えても これの寄せ集めとしての普遍性ないし はては各世代の連結による人間の類としての永続性といった〔人間的な尺度での〕永遠観(その客観概念)は 主観の自己形成じたいとして 持たないし また基本的にこれになじみません。(そういうことを 人間のアマテラス概念として説くことは むろん自由ですが)。
そこで それならば 人間の歴史理論としての史観は われわれにとって持つことが可能であるか。
答えは 可能だと考えられます。一個の主観の中で ――たといそれが必要不可欠のものでないとしても――人間の歴史にかんして理論することは可能であるし これまでの諸史観の存在を考えるなら それは必要不可欠のものでないとしても 必要性を認めないわけにゆかず それなりにいま要請されていると考えたいと思います。たしかに その出発の地点はおおいに違っていますが ただこの出発点における原理的な違いの省察にのみ留めて満足することも 人間として不遜のそしりを免れないことであるかとも考えます。可能であるとするならば これに答える必要を見ないわけにはいきません。


次にそれでは 一個の主観(それは 有限です)の中に 人間の歴史全体の理論(テオーリア=観想)を見出すとはどういうことになるのか。出発点の違いによって キリスト史観の理論は 他の史観に比べて どのような異なった性格を有するものなのか。このような前提としての考察からまづは入ってゆくべきかと思います。
第一にそれは 生きた史観(個体の存在)そのものではないとしても その主観の中に つねに現在する理論である。殊に知解行為という人間の存在の一部であると性格もあります。生きた過程としての史観が その存在のとおりには思惟されず 思惟するとおりには語りえないとするならば ある程度この条件のもとに 知解行為そのものとして 理論を提出し これによって 各主観の愛をそれぞれ形成するという方法が採られてもよいと考えられます。(またむろんこれまでの諸史観も このような前提のもとに築かれたものとけっきょくは考えられます)。この作業をまったく回避することは われわれの側の落ち度となると思われます。落ち度が弱さであり われわれはむしろこの弱さを誇るほうが 史観そのものと成るわれわれの史観にとって 基本的ではあります。この栄光をあえて空しいものとするかのごとく ここに理論を知解行為として提出するのは そうしないことによる沈黙が この基本的な栄光を空しいものとするやはり基本的な人間の存在の領域があるとするならということになります。
わたしはあえて言いますが 女性(男性においても その女性的な部分)にとっては この理論は必要不可欠なものではないと思います。しかも 男性(女性にとっても その男性的な部分)にとっては われわれのキリスト者としての地上における神の国の栄光が そうでない人びとにとっても見られうるためには その限りで必要なものと考えたいと思うからです。

  • この当時 このように考えていました。経験事象にそこまで影響されたのだと思います。この部分は 不必要だといまは考えます。削除しないでそのままとします。次の部分も同様です。(20070719)

このわれわれの不遜は あえて要請されているものだと思います。この罪の人たる不遜は われわれ人間が キリストを長子として生きるときに われわれに要請されているものと考えます。もしそうでなければ 人間の地上における〔神の国への帰郷の旅路においての〕罪の共同自治の新たな一形成は 造られ得ないと考えるからです。神がこれを(時代の歴史的な移行を)なしたまうということは これをわれわれ人間に託されていると考える以外に(――そこにわれわれの考えるところに従って 到達できるかどうかは われわれにほんとうには分からないとこそ言うべきであると考えますが――) 生きた史観は空しいものとなると一歩 踏みこんで考えるからです。この勇み足は われわれにむしろ要請されたものだと考えます。
(つづく→2007-07-20 - caguirofie070720)