caguirofie

哲学いろいろ

#63

もくじ→2005-05-13 - caguirofie050513

第二部 唯物史観への批判

第四章 キリスト史観は われわれ人間がキリストに似るであろう史観である

第一節 栄光から栄光へ

わたしたちは またもや自己推薦をしようとしているのでしょうか。それとも ある人びとのように あなたたちにあてた あるいはあなたたちからの推薦状が わたしたちに必要なのでしょうか。わたしたちの推薦状は あなたたち自身です。それは わたしたちの心に書かれており すべての人びとから知られ 読まれています。あなたたちは キリストがわたしたちを使ってお書きになった手紙として公けにされています。墨ではなく《生ける神》の霊によって 石の板ではなく血の通った心の板に 書き付けられた手紙です。
わたしたちは キリストのおかげでこのような確信を神の前で抱いております。もちろん 独力で何かを行なえるなどと思う資格が 自分にあるということではありません。わたしたちの資格は神から与えられたものです。神はわたしたちに 新しい契約に仕える資格 文字ではなく霊に仕える資格を与えてくださいました。文字は殺しますが 霊は生かします。

  • 律法=共同観念が《文字》であり ここから独立してこれを遵(まも)る・またはこれを遵りながらそこから独立している各自の主観 これが《霊》の場です。共同観念=律法は 旧い契約であり しかもこの契約より以前の恩恵の約束が この共同観念の情況を超えて 《霊》を与えられこれを受けとるようにして 新しい契約として与えられることを意味します。

ところで 石に刻まれた文字に基づいて死に使える務めが栄光を帯びていて モーセの顔に輝いていた一時的な栄光のために イスラエルの人びとがかれの顔を見つめえないほどえあったとすれば 霊に仕える務めは なおさらのこと 栄光を帯びているはずではないでしょうか。人を罪に定める務めが栄光をまとっていたとすれば 人を正しい者とする務めは なおさらのこと 栄光に満ちあふれているのです。そして かつて栄光を与えられたものも このばあい あhるかに優れた栄光のために 栄光がなくなっています。なぜなら 消え去るべきものでさえ栄光を帯びていたのなら 永続するものは なおさらのこと 栄光に包まれているはずだからです。
このような希望を抱いているので わたしたちはモーセと違って確信に満ちあふれています。そして モーセが 消え去って行くものの最後をイスラエルの人びとに見られまいとして 自分の顔に蔽いを掛けたようなことはしません。しかし かれらの顔は硬くなりました。今日に至るまで 古い契約が読まれる際に この蔽いは除かれずに掛かったままなのです。それはキリストにおいて取り除かれるものだからです。このため 今日に至るまでモーセの書が読まれるときは いつでもかれらの心には蔽いが掛かっています。

  • 共同観念=律法の《蔽い》とは その情況つまり社会形態として A‐S連関構造であり 《蔽いが掛かっている》ということは この情況を鏡として これを通して見つつ主観を保持するというのではなく この連関構造という観念の共同性(それへのあたかも信仰)をその主観の大前提とする もしくは その主観そのものにしてしまう すなわち各自の主観・心には 鏡の枠が共同して嵌め込まれるかのごとく この鏡そのものを見つつ生きるという 蔽いが掛かっているということになります。

しかし かれらが主の方に向き直れば その蔽いは取り去られます。ここでいう主とは 聖霊のことですが 主の霊のあるところに自由があります。わたしたちは皆 顔の蔽いを除かれて 鏡のように主の栄光を映し出しながら 主と同じ姿に作り替えられ ますます栄光を帯びたものとなります。これは主の霊の働きによるところです。

  • 《わたしたちは 顔蔽いを取り除かれ 主の栄光を鏡に映し出すとうに見つつ 主と同じ似像において あたかも主の霊によってのように 栄光から栄光へと 変えられるのです》。――《栄光から栄光へ》とは 旧い契約による共同観念(その社会)の栄光から はじめの約束による新しい契約としての主観共同(その社会)の栄光へと ここで把捉されます。

パウロ:コリント人への第二の手紙 3:1−18)

第二節 栄光から栄光へ(2)

それでは どうでしょうか。律法は罪でしょうか。決してそうではありません。しかし 律法によらなければ わたしは罪を知らなかったでしょう。たとえば 律法が《むさぼるな》と言わなかったら わたしはむさぼりを知らなかったでしょう。しかし 罪は掟によって罪の機会を得 あらゆる種類のむさぼりをわたしの内に起こしました。律法がなければ罪は死んでいるのです。わたしは かつては律法とかかわりなく生きていました。しかし 掟が登場したとき 罪が生き返って わたしは死にました。そして 生命をもたらすはずの掟が死に導くものであることが わかりました。罪は掟によって機会を得 わたしを欺き そして 掟によってわたしを殺してしまったのです。いずれにせよ 律法は聖なるものであり 掟も聖であり 正しく そして善いものです。
それでは 善いものがわたしにとって死をもたらすものとなったのでしょうか。決してそうではありません。実は 罪がその正体を現わすために 善いものを通してわたしに死をもたらしたのです。このようにして 罪は限りなく邪悪なものであることが 掟を通して示されたのでした。わたしたちは 律法が霊的なものであるとということを知っています。しかし わたしは生まれながらの本性の弱さをまとった者であり 罪に売り渡されています。わたしは 自分の行なっていることがわかりません。自分がしたいと思うことは実行せず かえって憎んでいることを行なうからです。
パウロ:ローマ人への手紙7:7−15)

目に見えぬ共同観念の 社会一般として優勢な場・情況そして社会では 罪(つまり人間存在のことですが)の反省的な意識・意識的な反省の共同 つまりそのような罪の共同自治 の一面の方式として 文字化されぬ律法・しかもそれはきわめて自然成長的な相互形成によってもたらされる律法が 神の約束のいまだ現われない時期に――さらに言いかえると 罪の増すために・罪の意識(=現実)の増すために・だから人間がますます人間的となるために モーセのもとにもたらされたように―― 敷かれることになり 上のことが起きる。《わたしは 自分の行なっていることがわかりません。自分がしたいと思うことは実行せず かえって憎んでいることを行なうからです》と。
つまり 《〈わたしは 自分の行なっていることがわか〉らず 〈自分がしたいと思うことは実行せず かえって憎んでいることを行なうから〉 〈わたしは生まれながらの本性の弱さをまとった者〉として 〈罪に売り渡されてい〉る》のです。十字架上のキリストとともにかれと一致して 《世の中はわたしにとって わたしは世の中にとって はりつけにされている》人は この罪に対して死んでいる者であり しかも神のために生きておられる・復活して生きられたキリストと結ばれて 新しい生命に生きるのです。
これは 共同観念の時間的有限性を物語り 言いかえると 神の約束が 時の充満とともに わたしたちのために 果たされることと察せられます。この賜物は 人間のためにあり 天使たち(思想や科学)のためにではなく わたしたちが何も支払わずに受け取る聖霊の賜物と拝せられます。恩恵 gratis とは 《ただで・無償で》という意味です。この神の愛――神は愛です――は その地上におけるわたしたちにおいてのその似像が わたしたちの隣人の愛・人間の愛と推し測られて認められるその源なのです。
だから 復活したキリストは 父なる神とともにその父から与えられた力によって  《聖霊を受けよ》と呼びかけられました。誰が厚かましくも この人間存在の奥義を否定しまた拒むでしょうか。また この賜物はたしかに神の佑助を得てわたしたちが 人間の有・人間の力として受け取るものであって それは あの十字架上のキリストを言わばわたしたちが飲み祀ることによって与えられる力であり 信仰によって義とされるとは もとよりこのことであって おこないの正しさやあの律法=共同観念の正しい実行によっては ついに与えられないもの・文字や掟や人間の栄誉を超えたものでないなら 何であるでしょう。律法を守ることによって人間が正しい者とされるとするならば 誰も争って文字を学ぶ気遣いはなく そのような掟のほかに思想・天使など何も必要とは見なされないでしょう。

もし したいと思わないことを行なっているとすれば 律法を善いものとして認めるいることになります。そして そういうことを行なっているのは もはやわたしではなく わたしの中に住んでいる罪です。わたしは 自分の内 つまり わたしの生まれながらの本性には善が住んでいないことを知っています。善いことをしようという意志はありますが それを実行することができないからです。わたしはしたいと思う善いことは行なわず したいと思わない悪いことを行なっているのです。もし わたしがしたいと思わないことを行なっているとすれば それを行なっているのは もはやわたしではなく わたしの中に住んでいる罪なのです。それで 善いことをしようと思う自分には いつも悪が付きまとっているという事実に気づきます。内なる人間としては神の律法(これは 共同主観の原理です)を喜んでいますが わたしの五体にはもう一つの法則があって心の法則と戦い わたしを 五体の内にある罪の法則のとりこにしているのがわかります。

  • これは 共同観念的人間です。つまり旧き人です。だから――

わたしは何と惨めな人間でしょう。

  • パウロは 人間的な言葉で説きます。

死に定められたこの体から 誰がわたしを救ってくれるでしょうか。わたしたちの主イエス・キリストを通して神に感謝いたします。このように わたし自身は心では神の律法に仕えていますが 生まれながらの本性では罪の法則に仕えているのです。


したがって 今や キリスト・イエスと結ばれている者は 罪に定められることはありません。キリスト・イエスとの一致によって生命をもたらす霊の法則が 罪と死との法則からあなたを解放したからです。肉の弱さのために律法がなしえなかったことを 神はしてくださってのです。つまり 罪を取り除くために御子を罪深い《肉》と同じ姿でこの世に送り その肉において罪を罪として定められたのです。それは 肉ではなく霊にしたがって生活するわたしたちの内に 律法の要求するところが満たされるためでした。
パウロローマ人への手紙 承前=7:16−8:4)

 
(つづく→2007-07-18 - caguirofie070718)