caguirofie

哲学いろいろ

#184

もくじ→2005-05-13 - caguirofie

第四部 聖霊なる神の時代

第二十二章b だからペテロの信仰

《第一の死(罪)》は まづ 人間においてはじめに 在る。(《わたし(キリスト)に付いている枝》であるということ)。あるいは そのように 《第一の死(罪)》の中にあって 《キリストというぶどうの木についている枝》であるということじたい 第二の基軸である《復活(正しさ)》が すでに与えられている。そこで 第三の基軸は ペテロとユダのそれぞれの類型のように 二通りに分かれる。《実を結ばないものはみな 父によって取り除かれて キリストにつながっていない人がいれが 幹につながっていない枝のように 外に投げ捨てられて枯れる。そして 集められて火に投げ入れられ 焼かれてしまう》 これは ユダの例に見るごとく 《第二の死〔という裁き〕》である。

  • 実際に どのように第二の死が現象するかは わかりません。人情にかかわるかぎりで わたしたちは 裏切り者が 罰を受けるという絵を描きたいものです。第二の死のあと さらに その魂が どういうふうに 救済されるか これも わたしには 分かりません。同じく人情にかんするかぎり 救いはその人にないというほど憎む場合があると考えます。そのあとです 問題は。復讐も何もかも 神に任せてしまったことは はっきりした実際です。(20071116)

《お前たちがわたしにつながっており わたしの言葉がお前たちの内にいつもあるならば 欲しいものはなんでも願いなさい。そのとおりになる》 これは ペテロの例に見るとおり 《第二の死の方向転換》 すなわち上に述べた第(1)項の人間に与えられた約束である。
(4) そうすると キリストの死と復活ののちの 歴史的時間というのは このように キリストの生きておられて このように語られていた歴史的時間そのものであるということにもなる。《お前たちが豊かに実を結び わたしの弟子となるなら それによって わたしの父は栄光をお受けになる。父がわたしを愛されたように わたしもお前たちを愛してきた。わたしの愛に生きなさい》と。十字架上の死と復活のわざを介してということだが そのようになる。
(5) 《このように話したのは わたしの喜びがお前たちの内にあり お前たちの喜びが満たされるためである。わたしがお前たちを愛したように お前たちも愛しあうこと これがわたしの掟である。友のために自分の命を捨てること これ以上に大きな愛はない。わたしの命じることを実行するならば お前たちはわたしの友である。もう わたしは お前たちをしもべとは呼ばない。しもべは 主人が何をしているかわからないからである。その代わり お前たちを友と呼ぶ。父から聞いたことをすっかりお前たちに知らせたからである》。――わたしたちは いま 自分たちが かれというぶどうの木に付いている枝であることを知った。実を結ばないなら そして かれにつながっていないなら(偽りの接吻によって付いている枝なら) 取り除かれ 幹につながっていない枝のように 外に投げ捨てられて枯れる。また 実を結ぶなら 手入れをされる ということを 神はしておられることを知った。《第一の死》というのであれば 《友のために自分の命を捨てること これ以上に大きな愛はない》と その復活への指針として 命じられていたと知るのである。
(6) したがって 《お前たちがわたしを選んだのではなく わたしがお前たちを選んだのである》と。《お前たちが出かけて行って その実が残るようにと また わたしの名によって父に願うものはなんでも与えられるようにと わたしがお前たちを任命したのである》と。ペテロの方程式展開の具体例は このように問い求められる。
(7) さらに ペテロの具体例では ぶどうの木につながっていず そこから離反するという場面をも通過したことを わたしたちは知る。なぜでしょうか。《キリストは 神の身分でありながら 神と等しい者であることに固執しようとは思わず かえって自分自身を無にして しもべの身分になり 人間と同じ者になられました。人間の一人として人びとの目に映り へりくだって 死に至るまで それも十字架の死に至るまで従順でした。このため 神はキリストを高く上げ あらゆる名にまさる名をお与えになりました》(ピリピ書2:6−8)という御子の方程式の模範によって――そのように 言詮を絶して(つまりこのことが ある人びとには神秘的に聞こえようとも) 神にそれへとみちびかれて――でないなら なぜでしょうか。《神はキリストを高く上げ あらゆる名にまさる名をお与えになった》のは やしろ人が 人間としてそうしたのでないなら つまり 後世のやしろ人がそうするように神がなさったのでないなら なぜでしょうか。
それは はじめに あたかも神(父)に離反するかのように 《キリストは人間の一人として人びとの目に映っていた》からこそ 方程式のまったき告知が 実現したのでないなら なぜでしょうか。《かえって自分自身を無にして しもべの身分になり――〈しもべは 主人が何をしているか分からない〉―― 人間と同じ者になられた》その愛によってでないなら なぜでしょうか。《わたしの喜びがお前たちの内にあり お前たちの喜びが満たされるため》とは このことでないなら なぜでしょうか。
このことを 一種の敗北主義と呼ぶ人は 次の言葉を聞くべきである。《あなたたちは キリストとともに死んで この世を支配する霊とはなんの関係もないのなら なぜ まだこの世に属しているかのように生き 〈手をつけるな。味わうな。触れるな〉などという戒律に縛られるのですか。この世のものはみな 使えばなくなってしまうものであり それについての規則や教えは人間の造ったものにすぎません。これらは ひとりよがりの礼拝 偽りの謙遜・体の苦行を伴っていて 知恵の働きのように見えますが 実は何の価値もなく 人間的な欲望を満足させるだけ》の《自身自身を無にしない そして 生命の危険を恐れての離反を 人間的な知恵と知識によって 切り抜け あのぶどうの木につながっている》勝利が むしろ固有な意味で敗北主義とよばれるべきではないでしょうか。なぜなら 離反したペテロは かれがキリストを選んだのではなく キリストがかれを選び出したその人なのですから。
ペテロは 史観の方程式の原理につながり この方程式の具体的な推移はむしろ 方程式の形相を三位一体の似像として すなわち三一性としての人間の有とし これを展開させたのです。ペテロは あのキリストを否認する――しかも三度 否認する――という離反も 当然のごとく 人間として主体的に行ないました。しかもこの行動・この言葉〔《あなたもこの男の弟子の一人ではないのですか》と尋ねられると ペテロは 《違います》と答えた》(ヨハネ18:17)〕は 人間の真実の言葉であって 人間はこれを表明することによって生きるとしても これにしたがって生きるのではなく これを人間の有として用いて生きる理性的動物である。永遠の生命にしたがって生きるがゆえに 人間の生あるいは死はこれを 人間的な尺度で二者択一するというのではなく 聖霊なる愛が その岐路にあたって――復活の分岐点にあたって―― 真実の言葉を語らせるのです。
だからと言って いつも否認し離反することが つねにその正解であるということにはなりません。《しもべであり友である》ということの(友情といった)或る種の形相的な美(または天使)に仕えるのではなく かのお方に自由に隷属するのです。史観の原理が 史観の方程式を生かすのです。ペテロはこれを行ない ユダはこれに付かなかった。または 人間的な知恵と知識(アマテラス語)によってこれに属いた。神が それぞれの試練を与え しかもその愛として それぞれ第二の基軸である復活をなさしめたまう。第三の裁きは それぞれに応じて この復活ののち 与えたまう。暗闇の中で この光を見ない人は 《ヨブ記》を読むべきである。たとえヨブが 神の友とされなかったとしても――この一解釈は なされている―― ヨブの友だちのすがたとその語る言葉を 聞き分けるべきである。
このようなへりくだりの言葉が 高慢と見られる世の中であるゆえに いまは このような直接的なキリスト史観が問い求められるとしか わたしには思われない。しかも この高慢は キリストへの離反としての人間の真実の言葉である。この人間の真実の言葉も 移ろい行くものであったことは すでに見たとおりである。これを敗北主義と呼ぶ人は 復活をのびのびにさせることなく 復活を願い そうして去勢されるべきである。その言葉 《敗北主義》という人間的な裁きの言葉によって みづからが裁かれ 神の国の支配のもとに アマアガリの時間を持たないとしても 人間の歴史に参加することになる。神がこれを用いたまうのである。
イエス・キリストは まことのぶどうの木 生命の木と知るゆえ。しかし このキリストのからだは すでに 時(人間の歴史)の経過とともに やしろ(エクレシア・S圏自治態勢)という教会となった。(宗教から自由となった)。
(つづく→2007-11-17 - caguirofie071117)