caguirofie

哲学いろいろ

#185

もくじ→2005-05-13 - caguirofie

第四部 聖霊なる神の時代

第二十三章 《わたしはすでにこの世に対して勝利している》が 史観の方程式の主観(主体的な観想と行為)である。

最後の食事の席上でのイエスの発言の最後は 《この世に対するイエスの勝利》と題された一節です。

 ――わたしはこれらのことを たとえを用いて話してきた。もうたとえによらないで はっきりと父について知らせる時が来る。その日には お前たちはわたしの名によって願うことになる。それは わたしがお前たちのために父に願ってあげる という意味ではない。父ご自身が お前たちを愛しておられるのである。お前たちが わたしを愛し わたしが神のもとから出て来たことを信じたからである。わたしは父のもとから出て この世に来たが 今 この世を去って 父のもとに行く。
弟子たちは言った。
 ――ああ 今は はっきりとお話しになり 少しもたとえをお使いになりません。あなたがなんでも知っておられ 人びとから問いかけられる必要のないことが 今 わかりました。これによって あなたが神のもとから来られたことを信じます。
エスは答えた。
 ――やっと今 信じるようになったのか。だが お前たちが散らされて自分の家に帰ってしまい わたしをひとりきりにする時が来る。いや すでに来ている。しかし わたしはひとりではない。父が わたしといっしょにいてくださるからだ。このことを話したのは お前たちは この世では困難に遭う。しかし 勇気を出しなさい。わたしはすでにこの世に勝利している。
ヨハネによる福音16:25−33)

《わたしはすでにこの世に勝利している》といまこの席で言われるからには すでに《復活》が約束されているのでないなら 何と言うべきか。この復活が 聖霊の派遣という約束でないなら 何と言うべきであろうか。しかもこれは 思議しがたい神の国にのみ属することである。われわれは わづかにこれを 三つの基軸の史観の方程式と捉えて――その問い求めの場を見出して―― 観想によってこれを思惟し 或る種の仕方で その思惟された人間の三一性を この三位一体の原理に関係させ得るのである。だから 《神の見えない手にみちびかれて》 史観の方程式が人間のあいだにも 時として 成就するのです。
これは 人間の経済行為領域に 独占的・排他的なかたちで 実現するという意味ではない。しかも この経済活動は 人間の生活の土台であるというほどに その一領域において この三一性の思惟の似像は見られうるとまづ言える。また これが 似像であって なおも人間の三つの行為能力のうちの知解行為を中心としたその〔社会関係〕行為の過程であり結果であると 捉えている分には 何の危険もない。
アダム・スミスは このように言う。

ところが すべてどの社会も 年々の収入は その社会の勤労活動の年々の全生産物の交換価値と つねに正確に等しい。いやむしろ この交換価値とまさに同一物なのである。それゆえ 各個人は かれの資本を自国内の勤労活動の維持に用い かつその勤労活動をば 生産物が最大の勝ちをもつような方向にもってゆこうとできるだけ努力するから だれもが必然的に 社会の年々の収入をできるだけ大きくしようと骨を折ることになるわけなのである。
もちろん かれは 普通 社会公共の利益を増進しようなどと意図しているわけでもないし また 自分が社会の利益をどれだけ増進しているのかも知っているわけではない。外国の産業よりも国内の産業を維持するのは ただ自分自身の安全を思ってのことである。そして 生産物が最大の価値をもつように産業を運営するのは 自分自身の利益のためなのである。
だが こうすることによって かれは 他の多くの場合と同じく この場合にも 見えざる手に導かれて 自分では意図してもいなかった一目的を促進することになる。かれがこの目的をまったく意図していなかったということは その社会にとって かれがこれを意図していた場合に比べて かならずしも悪いことではない。社会の利益を増進しようと思い込んでいる場合よりも 自分自身の利益を追求するほうが はるかに有効に社会の利益を増進することがしばしばある。社会のためにやるのだと称して商売をしている徒輩が 社会の福祉を真に増進したというような話は いまだかつて聞いたことがない。もっとも こうしたもったいぶった態度は 商人のあいだでは通例あまり見られないから かれらを説得して それをやめさせるのは べつに骨の折れることではない。
国富論 第四篇第二章)

スミスはここで あのペテロの方程式展開の類型とユダの類型とを 描き出している。しかも 経済行為理論の上から それを見つめている。それらをとおして 見ようとしている。もしこの構造を――つまり ペテロとユダの両類型の〔経済行為上の〕展開を おおきく一個人ないし一社会の歴史的時間として見るならば この歴史的時間としての構造を―― 《記憶(社会組織)‐知解(経済活動)‐愛(自治・経営・政治)》といった人間(やしろ)の全体においてその三一性過程として見るならば ここに やしろ全体として神の見えざる手にみちびかれて 推移するという史観が捉えられる。あるいはその逆から スミスはあたかも類推してのように これを経済(知解)行為を中心として 理論づけたと言える。
いまわれわれは おおきく 《死‐復活‐死(または生)》という史観を問い求めているのである。きざな言い方をすれば 経済的なゆたかさに限らず これを容れてのように 人間のゆたかさの方程式を問い求めている。
このとき それは 《わたしはすでにこの世に対して勝利している》という史観の原理(すなわち 万人の平等〔としての各主観〕)に立ってでなければ 推移しえないし また その推移を捉えることもできないではないなら 何と言うべきか。しかもこのことは ペテロの類型に見るように そして経済理論としては スミスによってあたかも古典近代市民の行為形式として描き出されたように 或る種の場面で 神の言葉(そのしもべの貌)に離反するようなかたち〔または 公共の利益に直接かかわりのないようなそれ〕 しかも神の手によってのように 主観の或る部分は蔽われ 全体としての史観の方程式が遮られてのように(――ユダは むしろこれが遮られなかった――) なおかつおおきくはこの神の手にみちびかれて 《もうたとえによらないで はっきりと父について知らせる時が来る》ことを信仰しつつ 予感によってではあれ 見ることができ 永遠の生命に向けてこの生を送るということでないなら われわれは何と言おうか。
これは 史観の方程式であり 経済活動を土台としていると言われるほどに 経験的な人間の史観なのである。だから 《お前たちは この世では困難に遭う。しかし 勇気を出しなさい。 / このことを話したのは お前たちがわたしによって平安を得るためである》でないなら 人間の科学は 何を科学しようとしていると言うべきであろうか。《困難に遭う》ことが それを捉えることが 科学でないなら 何を理論しようというのか。
神〔の御子〕に 人間の科学は 必要でなかったかも知れない。なぜなら かれは 一切の罪(ここから人間の科学は生じる)から無縁であったから。しかしかれは 《自分を空しくされて 人間となられたのである》。しもべの貌として涙しながら 最後まで従順に 神のみこころを告知すべく 死に就かれたのである。これを人間は 第一のアダムの時代からの同じ人間の科学を用いて しかしその知のパラダイムを変換してのように 新しい人間の科学として 理論するのである。なぜなら 観想によって 或る種のかたちで 神の言葉そのものに触れることはできても かれを顔と顔を合わせて見ることは出来ないから。〔史観の原理そのものを表現しうるというのではなく 史観ないしその理論をつうじて これを行なう〕。信仰が いわゆる人間の科学とは別様に――むろん別様にではないであろうが 或る種 別様に――行なわれ 受け継がれてきたことに対して それがいま 愛の実践を伴った信仰であると言われるなら それは この人間の科学としても 理性的に知解されうるように 表現する要がある。人間の理論の時代 あるいは共同観念(ナシオナリスム ムライスム)のそのあらゆる形態的な展開 あるいは共同主観(キャピタリスム / ソシアリスム)の あのスミスの時代からの継承として その最高の段階の形態 がそれぞれ終えられようとしているとするなら そのもののための・つまり その宣揚のための宣揚ではなく 新しい出発のための原点を 問い求めることは 必要にして不可欠のことと思われるからである。しかもこれを キリスト者として〔その一面であるところ〕の経済学者等々としてではなく キリスト者その人という科学者として 参加する一段階であると考えるゆえに。
これは すでに無知な人びとにあまねく 信じる者には助け(聖霊)として 信じない者には証言として 与えられ持たれているそのことを 共同主観ともしようとすることである。そうでなければ アダム・スミスがキャピタリスム市民社会を作ったのではないのに 造ったかのごとく見られかねないというように(――かれは キャピタリスムをともあれ 経済行為上の共同主観として理論づけた――) 人間が自分の手によって新しい人間を生み出すかのごとく 捉えられてしまう。しかし 存在するように自分自身を生む存在はありえない(第一部 §17)。われわれは 史観の原理に属き 史観の方程式をとおして わづかに ただいまの到達地点を 捉え描き出そうとするのみである。このような科学が――科学理論としてはあたかも生み出されるというように―― 生起してきてもよいと思うのである。それらが 新しい時代を作る と言っても 人間の不遜ではないだろう。なぜなら それらの素材としては すでに存在しており 《わたしはすでにこの世に対して勝利している》〔だから 万人の平等である》という原理は むしろ公理でもなければならず むしろすでに 人間の理論の時代をつうじても 公理である。
原理が 人間〔の理論》を生み 人間〔の理論〕がこの原理を 一般に公理(または人間の想像)が 原理(神)を生み出したのではない。しかし 人間キリスト・イエスをつうじて 人間は この原理(真理)をも人間が分有しうると語られたのである。人はこのキリスト者の告白は聞くべきである。

  • なお 《わたしはすでにこの世に対して勝利している》という自称(一人称)による主観が 共同主観であり それは 一方で キリストなる神格のみの宣揚になって宗教へと渡されるべきではなく 他方で 《万人の平等》というように客観語共同へのみ移されていくことを引き止めるための 論理(理論)ではなく愛(史観)を 表現している。このような科学が 生起してくるであろうと言っている。

(つづく→2007-11-18 - caguirofie071118)