caguirofie

哲学いろいろ

#195

もくじ→2005-05-13 - caguirofie

第四部 聖霊なる神の時代

第三十一章a 悪魔の征服は 悪魔じしんが復活することによってである

さて イエスの死が開始された歴史時間の中に われわれは いま ある。そこで この史観の原理にもとづいてのように そして イエスも一人の人間として そのかれの史観の方程式を生きて展開させるというようにして これとともに 他の人びとのそれらが 展開されつつある。それぞれに 生きた歴史として また そこでいくつかの基本的な類型が 望み見られるというようにして そうしてその全体として 聖書が 神の言葉であると そのほかの全世界ないし歴史の全体がその神の言葉の一つひとつの証言であることを示すために 神によって語られたというように。――たとえば 《すべての知恵と知識の宝は キリストの内に隠れています》(コロサイ書2:3)。
人間の科学として われわれは ここまで言ってもよいと思う。《鏡をとおして あの謎において》われわれは見ているとするならば。しかし 人間にとって この謎を素通りして 見ないほうが もっと不思議である。だからまた キリスト史観は 信仰ではあっても 各主観に内在するそれぞれの また具体的な方程式展開ではあっても だからさらに これを基にして 共同主観ではあっても 宗教とはなりえず 基本的に この《鏡をとおして謎において見る》その場所である内なるやしろにとどまりそこで完結しているものである。さらに言うならば ここで 史観の理論が欺かれるならば 我れ有りであり 史観(生)としては そのように 生きた主観〔の動態〕でしかありえない。これを《あやまつならば 我れ存在す》と言ってもよく ただそのときには 《〔成人したなら〕まちがいは許されない》という一面では真実を語る(つまり 愛の行為主体としての責任を語っているのだがその》共同の観念との兼ね合いで むつかしく そのまま前面に押し出せない点もある。しかし 言えることは 《わたしは〔宗教を・宗教についてこれこれと〕考えるゆえに わたしは存在する》ということにはならないということだ。《宗教》を《理論(つまりは 鏡そのものの把握)》に置き変えても ほぼ同じである。
キリスト史観ないしキリスト信仰が いわゆる〔アマテラス語圏にも立ってのように〕宗教となるのは 一般にそうでもあったのは このA圏のA語による一般に歴史の方程式把握・その理論 に対抗するためか もしくは そのA語理論に組み込まれたか によってである。A圏・A語の宗教への批判なる理論・科学も その点では 同じである。つまり新しい宗教である。(つまり 各主観の信仰は 滞留するし すべきなのだが そのように宗教へと化して 停滞しうる)。唯物史観による信仰の批判は むしろこの宗教批判であって またかれらは ここにおいて その信仰は このわれわれが原理であるというキリスト信仰に求めず その宗教批判の道具たる理論(唯物論)じたいに求める。その批判において正しく その信仰(主観)において――ということは 唯物史観にもとづいて やしろ〔全体〕が あたかもその理論どおりに 共同自治されると見 また これを実行することにおいて――あやまつ。このあやまちは キリスト信仰によるその史観の方程式展開(具体的な行為)が あやまちであること(試行錯誤ないし実験であること)に同じい。したがって 現代では このような構造としての歴史的時間に まづ立つことが先決問題である。(また このことによって キリスト信仰によるキリスト史観とその理論が 理論としての唯物史観と 同じ次元に 人間の科学として ともに位置することを物語るであろう。
むろん 何何史観と銘打たず史観する人びとがそれぞれ この次元に同じく位置し得ていることを排除しない。これを あたかも いま言うならば敵対者への取り入りと見る人は キリスト史観者にしろ唯物史観者にしろ それを宗教として保持するA圏の住民であり 宗教者としてのアマテラス予備軍であると 容赦なく 断言したほうがよい。またむろん キリスト史観と唯物史観とのちがいにかんしては 基本的に述べ終えた。いまは 一般に史観の問い求めの場は 共同主観の中で共有しうべきものとして 見出しえたであろうと言っているのである。この譲歩は 二度は すべからざるものではある)。
いま 議論の推移を もしこのように我田引水ふうに言って いわば今の直面する歴史的時間におおいかぶさる不必要な・または必要以上の雲を取り払ったとするならば やしろ全体の次元の問題として 大祭司つまりA者は 次のように この時間の中で われらが主イエスを尋問する。

《大祭司 イエスを尋問する》

(参照箇所:マタイ26:59−66 マルコ14:55−64 ルカ22:66−71)

大祭司がイエスの弟子のことや教えについて尋ねると イエスは答えた。
  ――わたしは この世に向かって公然と話してきた。わたしはいつも ユダヤ人がみな集まって来る会堂や神殿の境内で教えた。ひそかに話したことは何もない。なぜ わたしを尋問するのか。わたしが何を話したかは それを聞いた人びとに尋ねるがよい。その人びとはわたしの話したことを知っているのだ。
エスがこう言うと そばにいた下役の一人が
  ――大祭司さまに向かって そんな返事のしかたがあるか。
と言って イエスに平手打ちを加えた。イエスは言い返した。
  ――何か悪いことをわたしが言ったのなら その悪いところを証明しなさい。正しいことを言ったのなら なぜわたしを殴るのか。
そこで ハンナスはイエスを縛ったまま 大祭司カヤパのもとに送った。
ヨハネによる福音18:19−24)

大祭司の尋問は イエスの答えによって知りうる。イエスの答えによって知りうることは 本人に聞いても何の意味もない質問 すなわち《イエスが何を話したか》であり また 同じく本人に聞いても何の役にも立たない愚問 すなわち《おまえは悪いことを言ったことはないか》である。いづれも その立証責任は 尋ねる側にある。あたかも イエスじしんの史観は S圏の八重垣として そこで完結して 正しく あるのに対して カヤパ(またはハンナス)の質問は この八重垣の外にある。勝手に九重A圏を造り そこに棲息して人間の言葉(スサノヲ語)を失ってしまった。アマテラス語はなるほど 普遍概念であり これによって理論された言葉である。しかし あたかも空中の権能によって 八重垣の上に一段 多く垣根をめぐらす内裏は このアマテラス語を 建て前として シンキロウ閣となし ちょうど《平手打ち》を 実体的なそのスサノヲ語とする。これが A‐S連関体制としてのやしろ全体における歴史時間の構造である。イエスは このカヤパをも愛した。ないし その史観の原理の歴史的な展開に これを用いたのだ。
市民社会は 歴史のかまどである》は マルクスによる福音の一節である。この福音の一節を 歴史的に(ないし特に経済的に)明らかにするために 目的としてA圏ないし国家形態を打倒しようとする革命は その〔信仰の〕宗教化形態である。そこに 史観の原理は見られなくなり その方程式はそれじたい破壊される。しかしキリスト史観も 唯物史観も やしろ(S圏)主義――ソシアリスム――であり 共同主観(コミュニスム)である。両者の内容は――その方向がこのように同じであってしかも―― あまりにも互いに離れてしまっているので このように通底する基盤は 一度 明かさねばならないであろう。また 両者とも 現代では この基盤の領域で その全体観想的にしろ 経済活動・社会組織・政治行為の各領域においてにしろ もっと滞留してのように 基礎的な議論が築かれてもよいだろう。《何か悪いことをわたしが言ったのなら その悪いことを証明しなさい。正しいことを言ったのなら なぜわたいを殴るのか》という史観(生きた具体的な生)の基礎を確立するという方向で。これが大祭司カヤパの問題であり われわれの史観の問題である。
次にわたしたちは 大祭司カヤパより上の支配者をここであたかも確認してのように そのローマ人総督と話すイエスを 見出す。ローマ人総督ピラトは やしろのどこに位置するのか。またここで イエスは《死》を開始しているのであった。
(つづく→2007-11-28 - caguirofie071128)