caguirofie

哲学いろいろ

#194

もくじ→2005-05-13 - caguirofie

第四部 聖霊なる神の時代

第三十章b イエスは義によって死に そこで 悪魔の征服(第二の死の方向転換=アマアガリ――第三の基軸――)を成就させた

だから 史観の方程式は やしろ全体の次元で その歴史的時間〔の一類型〕が 大祭司カヤパの預言とともに――個人的にはあのユダの裏切りのあと―― このカヤパの前へ 逮捕されたイエスが 連行され〔次に見るように 尋問を受け〕るというかたちで 推移する。
ここでは 《わたしはすでにこの世に対して勝っている》と述べたように イエスが この歴史的時間において 個人的(ユダのばあい)にもやしろ全体的(カヤパの場合)にも その領域いっぱいに 対峙してのように 史観の原理であられる。つまり キリストの肢体は このように やしろ内外のわたしたち自身であること(または 《社会的諸関係の総体》を 視点として含む)を 物語っていると解さなければならない。使徒パウロの上に引用した書簡の言葉を引くまでもなく そうであり また これを イエスは たしかにみづからの死という手段によって 行なわれようとした。しかし もしキリストを生きるわたしたちが このキリストの肢体において史観を生きるときは 必ずしも国家というやしろ形態の全領域にまで この史観を 基本(一義)的には 及ぼさなくともよい。つまり スサノヲ圏=市民社会=エクレシア=自治態勢のやしろの次元に 基本的に 引き当てればよい。しかもこのことは キリスト・イエスとは違ってのように 死によってではなく むしろ復活によって つまり 第一の死は確かにこれを引き受けていたのだと復活してのように または逆に しかし同じことで 神に対する生けるいけにえとして この生を生きて これを行ない合うということを 観想しなければならない。
この・こちらのほうの方程式展開つまる 死(殉教)によってではなく 生を生きることによってそれが完成するという展開例は 次の段落とその次の段落に見るように ペテロがイエスを否認するというまでに イエス・キリストすなわち史観の原理への離反によってさえ 成就するという類型によっておしえられる。つまり 神に対して 生けるいけにえとして身をささげる(そのように第一の死から復活する)と言っても それは 身体を離れようとしてではなく ましてや みづから受苦に臨み死をも覚悟しようとしてなどということでもなく 御言葉の内にとどまるということによって 方程式は展開されるものと思われる。殉教という死のかたちは たとえ今それがあってとしても それは あらかじめ持たれるべき方程式展開の手段ではなく また あらかじめペテロのように持たれたとしても それは方程式展開の最終の手段(つまり神の栄光を現わすという)であって しかし この最終の手段はすでに 用いられ終わってのように その目的は成就されたと言うことができる。

  • のちに見るように イエスも 神の貌としては 死をみづから欲しられてであるとしても そのとき 個人としてはユダを用いられ やしろにとってとしては その共同自治の一方式を用いられたとしても なおかつそれらすべての過程にわたって 死をみづから呼び寄せてではない。主体的に生を生きることをとおしてであり そうでなかったなら 史観の原理は 人間キリスト・イエスとしては 成就しなかったであろう。そのあと 神から来て神である聖霊 なる愛が 人間の内に宿ると言われても 信じられなかったであろう。

いま ここで ペテロがイエスを三度 否認する場面を記した箇所を まとめて掲げておくこととする。(それは 否認を言うためではなく 時間的存在として生の側にあって かつこの世に属していない史観の原理に属くという信仰 その方程式展開を 明らかにして 観想することができるようになるためである。

《ペテロ イエスを知らないと言う》

(参照箇所:マタイ26:69−70 マルコ14:66−68 ルカ22:55−57)

さて シモン・ペテロともう一人の弟子は イエスについて行った。この弟子は大祭司の知り合いだったので イエスと一緒に大祭司の屋敷の中庭に入って行ったが ペテロは門の外に立っていた。そこで 大祭司の知り合いのもう一人の弟子が出て来て 門番の女に話して ペテロを中に入れた。この門番の女中がペテロに
  ――あなたも この男の弟子の一人ではないのですか。
と尋ねると ペテロは
  ――違います。
と答えた。召し使いや下役たちは 寒かったので炭火を起こし そこに立って火にあたっていた。ペテロもかれらを一緒に立って火にあたっていた。
ヨハネによる福音18:15−18)

《ペテロ 再びイエスを知らないと言う》

(参照箇所:マタイ26:71−75 マルコ14:69−72 ルカ22:58−62)

さて シモン・ペテロは立って火にあたっていた。そこで 人びとが
  ――お前もあの男のではないのか。
と聞くと ペテロは
  ――違います。
と打ち消した。大祭司の手下の一人で ペテロに片方の耳を切り落とされた人の身内の者が 
  ――園であの男と一緒にいるのを わたしに見られたではないか。
と言った。ペテロは あらためて打ち消した。するとすぐ 鶏が鳴いた。
ヨハネ18:25−27)

ペテロの方程式展開の例が このように ユダもしくは大祭司カヤパ(ないし やしろ全体)のそれぞれの展開と 並行して 推移するものであることは 言うまでもない。問い求めの場所としての大枠の歴史的時間の中の 個々の人びとにとっての具体的な歴史時間の例である。もう一人の弟子(これは ヨハネである)が 大祭司と知り合いであり ペテロが 門番の女中からのほかに 自分が その耳を切り落とした手下の一人とかかわりのある者から 詰問されるという それぞれ史観(個体)の錯綜した状態は 史観〔の方程式〕が生きたものであることを示唆してあまりある。これが 歴史時間において あたりまえであるということのほうに目を向けるのではなく これを鏡として この鏡をとおして 史観の原理を(人間の存在の根拠を)望み見て 各主観(主体)にそれぞれ生きた方程式(ないしその理論)を 捉えるべきである。聖書は それ(原理なるお方)を指し示し 証言としてあたかも 方程式の基本的な類型を描きだして伝えているのであるから。ただし全体として それはそのまま 神の言葉であると考える。
次に 大祭司カヤパによるイエスへの尋問を聞くことにしよう。

  • なお 少し前から 史観の方程式にかんして その《歴史的時間》と《歴史時間》とを使い分けしている。前者は 第二のアダムの時代ないし聖霊なる神の時代というように 総合的な〔やしろの〕鏡を言っている。後者は 各主観に個別的である。ただし 《歴史的時間》に 方程式の展開がないわけではない。観想的な次元のだが 《死‐復活‐死(再生)》の三つの契機がそれである。これが 形而上学的に《罪(記憶)‐正しさ(知解)‐裁き(愛)》 あるいは 《罪(死)》が 知解・経済行為上のそれ 《正しさ(復活)》が記憶・精神の秩序上のそれとも 考えられるということであった。うんぬん。

(つづく→2007-11-27 - caguirofie071127)