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哲学いろいろ

#196

もくじ→2005-05-13 - caguirofie

第四部 聖霊なる神の時代

第三十一章b 悪魔の征服は 悪魔じしんが復活することによってである

次にわたしたちは 大祭司カヤパより上の支配者をここであたかも確認してのように そのローマ人総督と話すイエスを 見出す。ローマ人総督ピラトは やしろのどこに位置するのか。またここで イエスは《死》を開始しているのであった。

《ピラトから尋問される》

(参照箇所:マタイ27:1−2 マルコ15:1−6 ルカ23:1−5)

さてかれらは イエスをカヤパのところから総督官邸に連れて行った。明け方であった。しかし かれらは自分では官邸に入らなかった。汚れないで過越しの食事をするためである。そこで ピラトがかれらのところへ出て来て
  ――どういう罪状で この男を訴えるのか。
と尋ねた。かれらは
  ――もしも この男が悪いことをしていなかったら あなたに引き渡しはしません。
と答えた。ピラトが 
  ――自分たちでこの男を引き取って お前たちの律法に従って裁け。
と言うと ユダヤ人たちは
  ――わたしたちには 人を死刑にする権限がありません。
と答えた。こうして 自分がどのような死に方で死のうとしているかを示そうとして イエスの言った言葉が実現することになった。
そこで ピラトはもう一度 官邸に入り イエスを呼び出して
  ――お前がユダヤ人の王なのか。
と尋ねた。イエスは答えた。
  ――あなたは自分自身の考えで そう言うのか。それとも ほかの者がわたしについて あなたにそう言ったのか。
ピラトは言い返した。
  ――わたしをユダヤ人とでも思っているのか。お前の同胞や祭司長たちが お前をわたしに引き渡したのだ。いったい何をしたのか。
エスは答えた。
  ――わたしの国は この世に属していない。もし わたしの国がこの世に属していれば わたしがユダヤ人に引き渡されないようにと 部下が戦ったことだろう。しかし 実際 わたしの国はこの世に属してはいない。
そこで ピラトが
  ――それでは やはり王なのか。
と聞くと イエスは答えた。
  ――わたしが王だとは あなたが言っていることです。わたしは真理について証しをするために この世に生まれ そのためにこの世に来たのだ。真理に属する人はみな わたしの声を聞く。
ピラトは言った。
  ――真理とは何か。
ヨハネによる福音18:28−38)

ここまでの 総督ピラトとの問答では アマテラス者というよりは 《王=アマテラシテ》が 問題となっている。歴史的時間としてのやしろのそういう次元の問題である。

  • アマテラシテ amatétrasité  Amaterasität  Amaterasity =アマテラス amaterasu の抽象名詞化。

ローマ帝国皇帝は これら諸王(諸民族)を統治する《アマテラスのミコト(命= Imperator)でありかつアマテラシテ》である。また もちろん《王》も アマテラシテ(象徴)
としてだけではなく 実質的な社会科学主体・アマテラス者である。
アマテラシテとは アマテラス語・概念じたいがそれであり S者・A者ともにとって 謎・象徴 similitudo また 光の天使でもあり さらに A者・A圏の象徴ということで A‐S連関形態の全体の象徴でもあると考えられたものである。
総督ピラトにとって アマテラシテとは 最高のアマテラス者でもあるローマ皇帝である。しかしユダヤ人にとって――むろん 王もこのときいたが―― アマテラシテ(もしくは アマテラシテにおいて見られる至高のそれ)は イエスの敵対者も含めて むろん 神その方であった。
ピラトの《お前がユダヤ人の王なのか》との問いに イエスが ウィともノンとも答えなかったのは 当然である。また 《真理》という言葉で それを分からせようとする。しかし キリスト・イエスは 王のなかの王である。《わたしの国は この世に属していない。もし わたしの国がこの世に属していれば わたしがユダヤ人に引き渡されないようにと 部下が戦ったことだろう。しかし 実際 わたしの国はこの世に属していない》。
いま かれは 《死》の過程のなかにある。(また むろん 生きようとしてでもある)。それだから 上のように言ったのではないことは明瞭だが この《死》の基軸をつうじて イエスの史観の方程式 つまり 人間となった史観の原理が 告知されるべく 成就されようとする。または これを成就しつつ 告知したまう。
エスは 実際 《部下が戦ったかどうか》を別にしても その権能によって 大祭司や総督の手から逃れ得た。いや この《死》そのもの・つまり死の制作者であるあの空中の権能そのものを 征服し得たであろう。また あの死んだラザロを生き返らせたあと イスラエルの王として エルサレム入城といったかたちの儀式的なこの世のアマアガリを果たしている。

その翌日 祭りに来ていた大群衆は イエスエルサレムに来ると聞き しゅろの枝を持って 迎えに出て行った。そして 叫びつづけた。

  ――万歳。
    主の名によって来られるかた
    イスラエルの王に祝福があるように。
    (詩編118:25−26)

さて イエスはろばの子を見つけて それに乗った。次のように聖書に書いてあるとおりである。

シオンの都よ 恐れるな。
お前の王がおいでになる。
ろばの子に乗って。
(ゼカリア書9:9)

そのときは 弟子たちがこのことがわからなかったが イエスが栄光を受けたときはじめて これらの言葉がイエスについて書かれたものであり 人びとがそのとおりにイエスにしたということを思い出した。
ヨハネによる福音12:12−16.cf.マタイ21:1−11 マルコ11:1−11 ルカ19:28−40)

このようである。しかし イエスは 《神に等しくあることを強奪物のごとく思わないで この人の子の貌を受け取るために 自分自身を空しくした》(ピリピ書2:6−7)のである。この《人の子の貌であり 受け取られた貌である〔。〕この貌は 審きの時に正しい人びとだけではなく 不敬虔な人びとにも現われるであろう》(三位一体論1・13〔31〕)とき 《死〔の制作者・すなわち悪魔〕》の征服にあたっては みづからが死に値する何の罪のないのに 死に就く〔という神のみこころに従順となられた〕ことにまさって この上なる史観の方程式展開は 考えられない。これが 真実の一つなる神 至高のアマテラシテの原理である。
しかし この史観の原理なる神は 《生ける者の神》(マタイ22:32)であり 《わたしの国はこの世には属していない》と言うほどに 神の国は その死から復活して アマアガリへとみちびかれるその方程式の展開において 人間に与えられたものである。また 人間〔の意志〕にしたがってこの国に生まれるのではないというほどに たとえ個々の場面・情況ではかれに離反する方程式展開をたどろうとも 神の恩恵によって生まれた者は この方程式の原理なるお方にしたがって 生き 《真理に属する人はみな わたしの声を聞く》と語られた。また 律法が破棄され アマテラス語が不必要となるというほどに アマテラス語を自由に用い 律法を完成させる(《汝 姦淫するなかれ》) 史観におけるアマアガリが実現するとわれわれは 知っている。
神に栄光あれと言いつつ 死からの復活を欲し アマアガリを願いつつ 走るのでなければ 精神がその悲惨から浄福へ変えられることを 誰が保証するであろうか。《〈欲する者にもよらず 走る者にもよらず あわれみたまう神による〉(ローマ書9:16)のは わたしたちが欲するものを獲得し 欲する所に到達するためである》(アウグスティヌス:シンプリキアヌスへ 第二問)ゆえ――《なぜなら 次の言葉は無意味ではないからである。〈また地には 善い意志の人びとに平和があるように〉(ルカ11:14) また 〈だから あなたがたも 賞を得るように走りなさい〉(コリント前書9:24)》(シンプリキアヌスへ)――。
さて こうして 次にイエスへの死刑の判決が 次章に見るように 展開する。
(つづく→2007-11-29 - caguirofie071129)