caguirofie

哲学いろいろ

#197

もくじ→2005-05-13 - caguirofie

第四部 聖霊なる神の時代

第三十二章a 悪魔はイエスを死に追いやって 勝利したところで イエスの愛(神)を見て 征服された

ユダに悪魔がしのび込んだように この世の支配者であるこの空中の権能は 大祭司カヤパや総督ピラトを縛っている。もちろん 神がその手で蔽いをかけたというほどに ペテロや他の弟子たちにも その権能の支配は及んでいる。(つまり 罪のない人はいない。時間的存在でない人はいない)。そこで イエスは 神の貌として 死という過ぎ越しの手段によって 神のみこころを告知したまうが ユダやカヤパをも用いたまうた。このことは カヤパらが あたかも自由意志のない人形のように動かされたことを意味しない。かれらから かれらへの空中の権能の捕縛を取り除いてやるといったような不遜の考えからでもない。(イエスは 自分自身を空しくされ 謙虚の模範であった)。神がかれらを用いたまうのは かれらがその自由意志によって 語の真なる意味で主体的に振る舞うことをつうじてである。主観(自己)が回復され 復活することへと向けて 歴史〔的〕時間が進むことによってである。ここでは みな 自由に 主体的意志によって振る舞っている。
さて

《死刑の判決を受ける》

(参照箇所:マタイ27:15−31 マルコ15:6−20 ルカ23:13−25)

ピラトは こう言ってからもう一度 ユダヤ人たちの前に出て来て言った。
  ――あの男にはなんの罪も見つからない。ところで 過越祭には誰かひとり釈放してやるのが お前たちへの慣例になっているが 例のユダヤ人の王を釈放してもらいたくないか。
すると かれらは 
  ――その男ではない。バラバを。
と叫び返した。バラバは強盗であった。
そこで ピラトはイエスを捕らえ 鞭で打たせた。兵士たちは茨で冠を編んでイエスの頭に載せ 紫の服をまとわせ イエスのところへやって来ては
  ――ユダヤ人の王 万歳。
と言って 平手打ちを加えた。ピラトはまた出て来て 言った。
  ――さあ あの男をお前たちのところへ引き出そう。そうすれば あの男になんの罪も見つからないという意味がわかるだろう。
エスは茨の冠をかぶり 紫の服を着けて出て来た。ピラトは
  ――ほら この男だ。
と言った。祭司長たちや下役たちは イエスを見ると
  ――十字架につけろ。十字架につけろ。
と叫んだ。ピラトは言った。
  ――自分たちでこの男を引き取って 十字架につけるがよい。この男には罪が見つからないのだ。
ユダヤ人たちは答えた。
  ――我われには律法があります。律法によれば この男は死罪にあたります。《神の子》と自称したからです。
ピラトは この言葉を聞いてますます怖くなった。また総督官邸の中へ入り 
  ――お前はどこから来たのか。
とイエスに尋ねた。しかし イエスは答えようとしなかった。そこで ピラトは言った。
  ――わたしに答えないのか。お前を釈放する権限も 十字架につける権限も このわたしにあることを知らないのか。
エスは答えた。
  ――神から与えられていなければ わたしに対してなんの権限もないはづだ。だから わたしを引き渡した者の罪はもっと重い。
こういうわけで ピラトはイエスを釈放しようと努めた。しかし ユダヤ人たちは叫んだ。
  ――もし この男を釈放するならば あなたはローマ皇帝の友ではありません。王と自称する者はみな 皇帝に逆らっています。
ピラトは これらの言葉を聞くと イエスを外に連れ出し ヘブライ語でガバタ すなわち《敷石》という場所で 裁判の席に着かせた。それは過越祭の《準備の日》で 正午ころのことであった。ピラトがユダヤ人たちに
  ――さあ お前たちの王だ。
と言うと かれらは叫んだ。
  ――殺せ。殺せ。十字架につけろ。
ピラトが 
  ――お前たちの王をわたしが十字架につけるのか。
と言うと 祭司長たちが
  ――わたしたちには ローマ皇帝のほかに王はありません。
と答えた。そこで ピラトは十字架につけるために イエスをかれらに引き渡した。
ヨハネによる福音18:39−19:16)

このあと 十字架につけられ 死を迎え 脇腹を槍で突かれ 墓に葬られるとつづく。
半ばほどの会話の部分には 《〈・・・律法によれば この男は死罪にあたります。《神の子》と自称したからです〉。 / ピラトは この言葉を聞いてますます怖くなった》とある。ローマ人にとっても 神々〔としてのアマテラシテ(つまり ユピテルをはじめとする)〕は存在し 多かれ少なかれ 生活日常的なものであったであろうが ここでは ユダヤ人たちは 《神 あるいは 神の子》と言いつつ 至高のアマテラシテ つまりまさに《この世に属していない》神のことを話していた。しかも この神について 《〈神の子〉と自称すると 死罪にあたる》と ユダヤ人たちは 論議する。このような思惟・内省=生産・行為の形式に ローマ人ピラトは ついて行けず 《ますます怖くなった》のであろう。
また このことは 裏返すように ムライスムの問題でもある。《和》を持ち出し または 踏み絵を差し出すと あたかも 全能の神にしたがうことであるというかのように ムライスム律法ではその人びとの行動にかんして したがわない場合の罪または恥ぢは 自動的に決まると決められているかのようなのである。これは 怖い。西欧人にとっても一つの驚異のほかの何でもない。
エスは この律法の奥に 神を見た。この《神の子であることの自称》にかんしては ヨハネ福音書に 次のような箇所がそれを証しする。(既に一度 触れたことがある)。

ユダヤ人たちは イエスを石打ちにしようとして また石を取り上げた。イエスは言った。
  ――わたしは 父が与えてくださった多くの善いわざ(業)をきみたちに示した。そのどれが悪いからと言って 石を投げようとするのか。
ユダヤ人たちは答えた。
  ――善いわざのことで 石打ちにするのではない。神を冒涜したからだ。お前は 人間のくせに 自分を神としているからだ。
エスは言った。
  ――きみたちの律法に 

わたしは言う。あなたたちは神々である。
詩編82:6)

   と書いてあるではないか。神の言葉を受けた人たちが 《神々》と言われているのだ。そして 聖書が廃れることはありえない。それなら 父から聖なる者とされてこの世に遣わされた者が 《わたしは〈神の子〉だと言ったからといって どうして《お前は神を冒涜している》と責めるのか。もし わたしが父のわざを行なっていないのであれば わたしを信じなくてもよい。しかし 行なっているのであれば わたしを信じなくても そのわざを信じなさい。そうすれば 父がわたしの内におられ わたしが父の内にいることを きみたちは知りもし 悟りもするだろう。
そこで ユダヤ人たちはまたイエスを捕らえようとしたが イエスはかれらの手を逃れた。
ヨハネ10:31−39)

だから いま 歴史的時間は このような構造(ムラ ないし クニなるやしろ)的な特徴をもって イエスがみづからの死に就きつつ 推移しているのだ。

  • エスが みづから死を欲しられたというのは いわゆる自殺ではない。このとき むしろみづからの権能をもって ユダをしりぞけ 祭司長たちユダヤ人を征服したとするなら これがむしろ自殺に近い。むろんこの権能は 神の権能であって 権力によって立つ者は権力によって倒されるというときの 権力ではない〔または それを含むことはありうるかも知れないが〕から この神の権能に対抗する権能は ほんとうには存在しない。(人間的な論法で言って イエスはすでに カリスマ的な権威を帯びていた)。が あたかもその対抗する力であるようにして 堕落した天使のなれの果てとも考えられるあの空中の権能が つまり悪魔が われわれ人間の手によっては 征服されがたい いや征服不可能と考えられた。であろう。そのとき したがって イエスは その神の権能によってではなく 人間としての人間の力において その手段として死というかたちで――これは人間に可能―― 悪魔を征服することを よしとされたのである。
  • しかし義による死・罪のない死 これは 人間に不可能である。これによって そのもとに捕獲されていたわれわれ人間がその悪魔のもとから放免されたのであり 実際 人間はそのように人間の力によって 悪魔の征服は為し得ないであるが しかし人間キリスト・イエスが征服したまうたことによって この外なる人の模範を目標として この目標とわれわれとのあいだに 道が出来た。道というのであれば それはつながったのであり これを目標にして歩いてゆくことができる。もし 自殺に近いというようなその神の権能そのものによる空中の権能の征服という手段をとられていたなら ここに 道は成らなかったであろう。だから 自殺ではない。
  • また このように人間としてもみづから死を欲するというような方程式展開のかたちは 使徒たちの殉教がそれに近いが これも自殺ではないだろう。イエスが 神のみこころを告知し 道となられたのと同じように 使徒たちは この殉教というかたちをとることによって 神の栄光を現わした。すなわち 道となられたイエスを証ししたのであるから。その他もろもろの弾圧・迫害の中での信徒の殉教は これにつらなるものである。またはその時代・やしろの情況の特徴に応じて 各主観の方程式のそのようなかたちにおける完結をこそ まづ捉えるべきである。かれら死者の復活が われわれの方程式の展開なのでもある。つまり 霊〔的なアマアガリ〕と言うからには われわれの共同主観がそこまで及ぶのである。もちろん各自の史観は 各自に完結した展開であるものとして。

(つづく→2007-11-30 - caguirofie071130)