インタスサノヲイスムについて(1)
一般スサノヲ市民から成るヤシロの中で 誰もがみな 一人ひとり 原形的な《アマテラス(A)‐スサノヲ(S)連関》としての主体である。
このことによって われわれは アマテラシテ(光とその境涯)の欠如であるやみ(闇)からの出立というアマテラス(光とその地位)の獲得を その自治共同の過程において問い求めている。
ところがそのとき このアマテラスの地位を社会的に特殊な役割と捉えてしまい この職務を自ら追い求むべからざるを得ないというようにしてこれを追い求め 獲得し これを担うとき 《S−A連関主体》である者が もっぱらのアマテラス者となる。
身体(S)を あたかも空気のようなものと為す。つまり《もっぱらのアマテラス(A)者》となる。つまり 頭で立つことになる。
これは 一般に武力と知恵によって 獲得すると考えられているかも知れないが そのうち武力は 一時的な要因であり 一時的な《もっぱらのアマテラス状態》である。百年・五百年あるいは数千年続こうとも 一時的な要素である。
人間の知恵が またそれによって得られる栄光が まず人間的な社会的な共同自治の持続性だと考えられる。古くは 王化の徳と言った。このアマテラシテの獲得・確立は 《アマアガリ》と言おう。
しかも――結論を急ぐならば―― この知恵によるアマアガリも まだ第一の栄光であって いわば前史の光である。われわれは この栄光からさらに第二の栄光へとその道を問い求め模索していくはづである。
言いかえるならば 後史の栄光を尋究すべきである。人生は 前史から後史へと回転・移行する。逆立ちの栄光を逆立ちさせなければならない。人間の知恵による精神の知恵と徳とは 《もっぱらのアマテラス》を生む片寄った旧い栄光である。
この《もっぱらのアマテラス》主体であることは 一般にあたかも野生としてのスサノヲ主体であることを脱ぎ捨ててのように 精神の徳の衣を着ることによって努力した結果であると考えられる。偉い人は 空気のような身体になるのだ。
ところが人が 徳を積み 人間的になるとき ますます人間的になるとき 究極的にはだれも 人間の能力によって完全な人間になることは出来ないから いよいよ人間的となったその自らの徳のおしえるところによって 自らの不完全な部分・しかもけっこう社会に重大な影響をおよぼすことが多い部分である不徳が 栄光を台無しにすることがあると知ることになる。
(つづく)
インタスサノヲイスムについて(2)
一般スサノヲ市民は こんな話は 百も承知である。
もともと人間の力だけによってアマアガリすることなど できっこないと 議論の余地なくわかりきっている。
だから まわりにこのアマアガリを追い求める人が出ると つまりその人が どうしてももっぱらのアマテラスになりたいというときには かれを敬して遠ざける。
ヤシロの仮象形態(似すがた)にでもと まつり上げる。カミさまにしておいてやろうとする。その意味で ヤシロから追い払おうとする。
第一の栄光としての知恵である。(第二の栄光としてのそれが待たれる。)
(つづく)
インタスサノヲイスムについて(3)
あたかも精神の光に擬されるアマテラシテ能力を持ちこれを発揮し 人びとのために《もっぱらのアマテラス》になろうする人 これらの人びとに対して 一般スサノヲ市民は 自分たちのヤシロの上に もうひとつのヤシロをつくって そこに かれらをまつり上げた。
社会にとって 第二階であり これは スーパーヤシロと言う。また この歴史事態を オホクニヌシの国譲りと言う。(オホクニヌシは スサノヲの裔である)。
こうして 本来のヤシロであるスサノヲ圏に対して スーパーヤシロなる第二階・アマテラス圏が出来た。また 一般に アマテラス種族というべき社会的な集団としての範疇ができた。
むろんここからは このアマテラス族は 黙っていない。
(つづく)