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哲学いろいろ

#187

もくじ→2005-05-13 - caguirofie

第四部 聖霊なる神の時代

第二十五章a イエスは《死んだ》のである――史観の原理的な方程式の第一の基軸――

最後の食事の席で――すなわち まもなく捕らえられて死につかせられるというその前に―― 弟子たちに語ったキリストの言葉を ヨハネ福音によって これまで読んできました。われわれは ここに 史観の原理は当然のごとく見出し そして史観の方程式といったものをも見出し これを尋究してまいりました。

  • 《死‐復活‐死(再生)》といった三つの基軸の過程的な構造 ないし構造的な過程が 数学の用語としての連立であるとか何次であるとかの《方程式》であるとするのは まちがいであるかも知れない。しかしただ そこには 座標の上にさまざまな直線・曲線を描きうる・そして それは人生つまり巡礼の道程でもある或る種の数式があり またそこに 或る種の解が問い求められるやしろの内外の連鎖式形態であります。また 断定的に言ってしまうなら その或る種の解とは 方程式じたいの経験的なその領域において 史観が出立する=アマアガリするということが 目標であり道であると 重ねて確認しあいます。


さて 第三の基軸である《第二の死の方向転換(アマアガリ)》が 聖霊の時代ともよぶべき第二のアダムの時代であると考えられ これは 第二のアダムすなわちキリスト・イエスが 死ののち 復活して はじめにこの地上で 弟子たちに現われ 《聖霊を受けよ》と言われ((ヨハネ20:22) 次に 高挙ののち 天上から弟子たちに 聖霊を遣わされた(使徒行伝2:3−4)ことによって 実現した。いま このように実現した史観の方程式の歴史的時間を前提して イエスの復活にかんする記述を読んでみたい。イエスにおける方程式の第一の基軸 すなわち 裏切られ逮捕され はりつけにされて死ぬところは これを
飛ばすようにして 第二の基軸である復活について ここでは同じくヨハネの記すところによって見 史観の方程式を論議したい。ヨハネによる福音の最終の二章 すなわち 第二十・第二十一の両章について。

〔イエスが墓に葬られたのち〕 週の初めの日の朝早く まだ暗いうちに マグダラのマリアは墓に行った。そして 墓から石が取りのけてあるのを見た。そこで シモン・ペテロのところと イエスが愛していたもう一人の弟子(ヨハネ)のところへ走って行き 告げた。
  ――主が墓から取り去られました。どこに置かれているのか わたしたちにはわかりません。
ペテロともう一人の弟子は 家を出て墓へ行った。二人はいっしょに走って行ったが もう一人の弟子のほうが ペテロより速く走って 先に墓に着いた。身をかがめて中をのぞくと 亜麻布が置いてあった。しかし 中には入らなかった。つづいて シモン・ペテロもやって来た。かれは墓に入り 亜麻布が置いてあるのを見た。イエスの頭を包んでいた覆いは 亜麻布といっしょには置いてなく 別の離れた所にまるめられていた。すると 先に墓に着いたもう一人の弟子も入って来て 見て 信じた。イエスは必ず死者の中から復活することになっているという聖書の言葉を この二人はまだ理解していなかったのである。それから この弟子たちは それぞれの家に帰って行った。
ヨハネによる福音20:1−10)

ここでのおおきな謎は 墓があばかれ屍体がなくなっていた〔そしてかれは 復活したということを信じることの困難さ〕にあるのではなく むろんイエスの死の時の報告をも参照しなければならないとしての話だが(われわれは いま これを省略している) イエスが死んだということの事実〔そしてこれを信じること・または 実際おそらく誰もがこれは信じている〕にあるのだ。なぜならば 誰も死ななければ 復活はありえないからだ。
しかしこれを言うのも わたしはむしろ 日本人にとっての〔・言葉による表現としては或る種 異なっての〕キリスト史観を問い求めようとするためにある。
《なぜなら 主の肉が 受苦の十字架において死んだということは かれの敵さえも信じるが 主が復活したまうたことは敵は信じない》(三位一体論2・17〔29〕)と かの地では言われる。ところが この日本の地では 《十字架上で死んだのは 実はイエスにそっくりなかれの弟であって イエスは生き延びた〔そして この日本の地にまで逃げてやって来た〕》といったふの解釈が行なわれている。つまり《イエスは 十字架上で死んでいない》といった説が 少数派であれ また 隠然とであれ 出され しかしこれが案外 おおきな共同主観または共同観念となっていると見るからだ。
エスは 死んだのである。しもべの貌としては 叫び声をあげ 涙しながら 死地についた。しかも 神の貌としては これをみづからが欲しられて(――《わたしの国は この世には属していない。もし わたしの国がこの世に属していれば わたしがユダヤ人に引き渡されないようにと 部下が戦ったことだろう。しかし 実際 わたしの国はこの世には属していない》(ヨハネ18:36)――) あたかもこれを一手段とするごとく それによって 神のみこころを 最終的に 告知されたのである。第二のアダムは あたかも死ななければ 第一のアダム〔の罪(そのような時間的存在=古き人)〕〔の時代〕が死ななかったのである。史観の原理は この手段のかたちで 〔人間にとっての〕史観の方程式を指し示したのである。だから キリスト・イエスは 死んだのである。また 第二のアダム(インタスサノヲイストの原理たる人間スサノヲ)は 第一のアダム(生きてスガの宮を樹立する第一のスサノヲ)と同じように 死ぬことはなかったと言い兼ねない第一の死の中にあるその死が 死ななければならなかったのである。

  • 実際 死んだ人(たとえば聖徳太子菅原道真や・・・)は ある種の考え方で 怨霊となって 生きていると見なされ 死ななかった人(たとえば柿本人麻呂)は 死んだと伝承される。――これについては 《柿本人麻呂の方法への序説》を参照。

しかし 生きてスガの宮・八雲立つ出雲八重垣を樹立するスサノヲの史観の方程式は 死に至るまで従順であられた唯一の神の言葉・その史観の原理によってこそ 生かされる。経験的な史観の方程式から この史観の原理を望み見ようとすることは 可能であるが 前者から たとえば人間の想像力によって 後者を――望み見るのではなく――人為的に打ち建て これをいわゆる宗教とすることは できない。信仰が――神から与えられる―― はじめにあって 史観の方程式が 史観の原理への観想をとおして 捉えられ これを行為する・あるいは理論として表現するのである。
だから イエスは死んだのである。墓があばかれ 屍体はそこになかった〔ことを弟子たちが発見した〕という指摘にまさって――そのとき もしかれの復活したということが 信じられるのに 困難であるとしても―― イエスは 人間として生き その肉は受苦の十字架に死んだということを示すそれ以上の証言があるだろうか。だから イエスは死んだのである。死ななければ 史観の原理たる神のみこころが告知されきらなかった。また これによって確かなものとされる人間の史観の方程式が――それはたしかに 人間の科学としても あるいは捉えられるであろうが―― 生きた人間の――理論としては あるいは把握されるであろうが―― 愛とは 信じられなかったであろう。言いかえると 出雲八重垣のスサノヲは むしろかれに敵対するアマテラス者の側から そのアマテラス語(科学・理論)によって 捉えられ表現され これを共同観念としても掲げられ そのA圏主導のA‐S連関体制というやしろの統治形態(国家のことである)の共同自治の方式として 或る種の常識(共同主観)とも見なされつつ 人びとに共有されることは 可能であった。(事実そうであった。つまり はじめには S圏の神話としてあったものが A圏の次元へあげられたのである)。このようであろうが このスサノヲのミコトは 史観の原理に裏打ちされ そこに永遠の生命(生きたスサノヲ者の生)が 聖霊〔宮とは み(霊)や(屋)〕を与えられてのように ムライスムの共同の水路においても 注がれ流れるという愛として 信じられず また 暗闇(スサノヲは 黄泉の国の王とされた)の中に葬られたままであったろう。

  • つまり もともとS圏の神話であったということが 永遠に忘れ去られてしまっていたであろう。またそのことが 理論的に後世に 明かされたとしても これを生きた愛としてよみがえらせることは 困難となったかも知れない。しかしまた マルクスは この困難を克服しようとした。ただそれは やはり人間の理論として〔残る結果となった〕であり もしそうでなければ かれマルクス自身が あたかも第二の《第二のアダムつまり救世主》と自他ともに称するという結果が見られるとも言わなければならない。

ここに スサノヲ語が――その真正のアマアガリを果たしてのように―― 樹立されなければならない。だから 真理たる・神の言葉・ちから・知恵であるイエス・キリストは 死ななければならなかったのであり 事実 死んだのである。スサノヲ者を愛してであることはもとより アマテラス者のために かれらも復活して 人間として《しようと思うことをすることが出来る》ために 第一のアダムの時代を死なせることによって それを成就させるために 徹底的に愛し 従順(アマアガリ)の模範となるべく それを選んでのように 死を死んだのである。
《主が墓から取り去られた》との・いわゆる学問的な点検・解釈 これはどうであるか わたしは知らない。
(つづく→2007-11-20 - caguirofie071120)