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哲学いろいろ

#209

もくじ→2005-05-13 - caguirofie

第四部 聖霊なる神の時代

第三十八章c ただいま現在の《エネルギッシュな》史観の方程式展開そのものが コミュニスム(愛の火による共同主観)なのである

  • マルクスが キャピタリスムのその中から コミュニスム(愛の火による共同主観 生きた史観)が 発展的に 生起すると言ったのではなかったか。しかもたとえば日本人は この愛の火のありか 少なくともその場は 八雲立つ出雲八重垣として すでに知っていた。
  • 整理してみよう。《このコミュニスム共同主観が 現実的にも確立された〔像を仮りに考えてみるならば――ただし この共同主観は 各史観の中ですでに確立されている・したがって この仮りに表象する像は たとえば理想形態としてかかげるという意味ではなく ただいま コミュニスム史観として自己を確立した主観が そのような一つのイデアとしても用いるものである・そうであるのが正解であるが 仮りに表象してみるならば――〕 その社会では 現実的生活が――まだ A圏体制に入らない前の時代のように―― このコミュニスム像によって媒介されない積極的な人間の現実性であるように ソシアリスムとしてのソシアリスム(八重垣主義)は もはや宗教によって媒介されない積極的な人間の自己意識である》と言っていることになる。ここで宗教というのは 九重のシンキロウ権威担ぎ上げによってかもし出される共同自治の方式とそれにまつわる共同の観念(その意識の運河) およびこれへの反措定の理論のことである。これは 人間の真実であり また 歴史を無視していることにもなる。真実はわれわれがこれを受け取らねばならないものであるし 経験的な歴史を無視していることはこれをわれわれが 止揚しなければならない こういうことになる。また ソシアリスムあるいは八重垣主義――主義――というよりも 八重垣そのもの〔における生きた史観じたい〕であってよいのだが ここでかれは その〔史観の・現在地点からの〕方向性を言っていることになる。ただ少なくとも現代では この方向性(愛の火はそのように啓発しないではいられないといった志向性)の意識的な自覚はこれも 必要ないであろう八重垣という内なるやしろが――それは 過程・動態であり 観想と行為との一体とともに やはり信仰であるが―― つねに内的に省みられるなら その方向性の自覚は 付随的にもたらされるから。もしソシアリスムを 外的に 意識的に自覚するなら そしてそれがただ方向性としてではあっても 外的に意識的に自覚するというなら それは 信仰のもう一つの宗教化形態となり そしてこれによるやしろの共同自治の別の一方式〔に利用される〕となる。乱暴に言ってしまうと 外に向かった人間の意識という意識は 神にまかせて うっちゃっておいたほうがよい。
  • むろん 外なる現実 からの意識 これは 内なり史観が これを用いるにせよ遠ざけるにせよ まづ〔感覚的・思惟的に〕受け取るものである。マルクスは これを受け取ったあとの〔自己の史観の現実の〕ことを言っている。《汝の道》を行ったからであり それは 行き過ぎでもあった。(マルクス一人でたくさんだとは このことを言っている)。しかしそれは すでにキリスト・イエスが通過された道であり その意味でマルクスはこれに――たしかに――倣ったとも言えるし またイエスないし福音書を 故意に二重写しにしたとも言える。すなわちマルクスは このキリストへの倣いを――それはキリスト史観であるが―― 二重写しにまですることによって 信仰として保つべきであって 宗教というA語シンキロウによっては為すなかれとただこの一点を たしかに一つの生きた史観として その実体(ないし生のレアリテ)として 宣べたのである。キリスト史観の土壌のないアジア社会では このマルクスが 人間の理論の時代にあっては キリスト・イエスその人に見えたのである。

コミュニスムは否定の否定としての肯定であり それゆえに人間的な解放と回復との つぎの歴史的発展にとって必然的な現実的契機である。

  • 以上の前提に立って 言いかえると 史観の方程式に立って その第二の基軸である《復活》としての《人間的な解放と回復》の コミュニスム共同主観は たしかに 《必然的な現実的契機である》。(正確には 各主観がその内に神を知る・つまり神に知られることを 現実的な契機として コミュニスム共同主観が もたらされる)。それは《この段階で つぎの歴史的な発展にとって》だけではなく また必ずしも《発展》にとってというよりは 抽象的に言って(そう表現すべきだと思うからだが) 人間の各主観の言わば史観としての祖国への巡礼にとって 必然的な現実的契機でもあり より正確には 史観の原理がその根拠である。そうして この方程式 またはその理論的な把握によるその理論は まづそれらじたいを現実的な契機ないし手段として 把握しこれを用いることができると言っていることができる。
  • さて 次が 最終の 二つの文章から成る一節である。

コミュニスムはもっとも近い将来の必然的形態であり エネルギッシュな原理( das
energische Prinzip )である。しかしコミュニスムは そのようなものとして 人間的発展の到達目標――人間的な社会の形姿――ではない。

  • コミュニスムは 史観そのもの また それとして共同主観であり その方程式やその理論を包み含む。また アマアガリとしては アマアガリなる共同主観が 内外のやしろの《形姿》である諸三一性関係の総体を 似像として鏡として 或る仕方で捉えることはありうる。つまり言うまでもなく コミュニスムは 《人間的な社会の形姿》を〔捉えることを〕とおして 観想のうちに保持され 行為に表わされている。ここで《原理》は このコミュニスムを《エネルギッシュな原理》とするというよりも 史観の原理 すなわち 《人間の本質》を本質とする かのお方である。二つの文章は まとめてそのことを物語っている。また物語っていなければならない。
  • したがって いま通俗的になって言うとすれば コミュニスムは 《原理》であるとは 言わなかったほうがよい。逆に アマアガリとしての〔男女両性の関係そしてしたがってやしろとしての関係であるところの〕コミュニスムなる共同主観〔の原理的な存在関係の形態 つまり 神の国〕は 《人間的発展の――つまり直線的なというほどの発展の――》ではないが 人間の《到達目標》ではある。むろん 理想社会という意味での《人間的な社会の形姿ではない》。つまり言いかえると 神の国がこの地上に行なわれることは――それはなお共同主観〔をその場とする〕というほどに 目に見えない現実であるが しかも神はこれを さまざまな被造物のすがた。つまり目に見える現象・社会的行為において 人間をして 予感 理性的に予感せしめたまうであろう〔とわたしは 聞いた〕が―― 《到達目標》ではある。いや むしろ現在する信仰の祈りの動態であるにほかならない。(われわれは これが自己のすがたであり かのお方によって生き動き存在する)。
  • 《もっとも近い将来の必然的形態》という表現は 誤解を招きやすい。それは 将来の或る歴史的時間の一段階をいま先取りして 現在にもっとも近いものとして必然的に到来する形態と言おうとすることであってはならず あくまで各主観のうちに――各史観と言うべきほどの各主観の内に―― 《現在して将来すべき栄光( 栄光=doxa とは 臆測というほどの意味である)》という意味である。《栄光から栄光へ》というときの栄光=共同主観が 臆測であってよいというのは 《かたちあるものは希望ではなく われわれは 希望によってすくわれている》からである。それゆえに ただいま現在の《エネルギッシュな生きた方程式展開》が それである。ここになお蔽いがかけられていると見る人は つまり これを obscurantisme であると見る人は 絶望の淵に生息することが 希望であると倒錯する人である。つまり勇敢にも絶望に耐えている人びとなのである。

マルクス経済学・哲学草稿 (岩波文庫 白 124-2)  3・2)

経済学・哲学草稿 (岩波文庫 白 124-2)

経済学・哲学草稿 (岩波文庫 白 124-2)

(つづく→2007-12-12 - caguirofie071212)