caguirofie

哲学いろいろ

#186

もくじ→2005-05-13 - caguirofie

第四部 聖霊なる神の時代

第二十四章 《共同主観》とは

エスはこのように話してから 天を仰いで言った――と 同じ最後の食事の席のつづきとして しかしもはや イエスひとりの祈りとして ヨハネはさらに記して伝えている――。
 ――父よ 時が来ました。子があなたの栄光を現わすようになるために あなたの子に栄光を与えてください。あなたは子にすべての人を支配する権能をお与えになりました。そのために 子はあなたからゆだねられた人すべてに 永遠の生命を与えることができるのです。永遠の生命とは 唯一のまことの神であられるあなたと あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです。わたしは 行なうようにとお与えになったわざを成し遂げて 地上であなたの栄光を現わしました。父よ 世界が造られる前に わたしがあなたのもとで持っていたあの栄光によって 今 あなたの前でわたしに栄光を与えてください。
   この世から選び出してわたしにくださった人びとに わたしはあなたの名を現わしました。かれらはあなたのものでしたが あなたはわたしにくださいました。かれらは あなたの言葉を守りました。わたしにお与えになったものはみな あなたからのものであることを 今 かれらは知っています。なぜなら わたしはあなたから受けた言葉をかれらに伝え かれらはそれを受け入れて わたしがあなたのもとから出て来たことをほんとうに知り あなたがわたしをお遣わしになったことを信じたからです。かれらのためにお願いします。この世のためではなく わたしにくださった人びとのものだからです。わたしのものはすべてあなたのもの あなたのものはわたしのものです。わたしはかれらによって栄光を受けました。わたしは もうこの世にいなくなります。かれらはこの世に残り わたしはあなたのもとに行きます。聖なる父よ わたしにくださったあなたの名によってかれらを守ってください。わたしたちのように かれらも一つとなるためです。わたしはかれらと一緒にいるあいだ お与えになったあなたの名によってかれらを守りました。わたしが保護したので 滅びるように定められていた者以外は 誰も滅びませんでした。こうして 聖書の言葉を実現しました。しかし 今 わたしはあなたのもとに行きます。この世にいるあいだに これらのことを語るのは かれらがわたしの喜びを完全に抱くようになるためです。わたしは かれらにあなたのことばを伝えましたが この世はかれらを憎みました。わたしがこの世に属していないように かれらもこの世に属していないからです。わたしがお願いするのは かれらをこの世から取り去ることではなく 悪魔から守ってくださることです。わたしがこの世に属していないように かれらもこの世に属していないのです。真理によって かれらを聖なる者としてください。あなたの言葉は真理です。わたしをこの世にお遣わしになったように わたしもかれらをこの世に遣わしました。かれらのために わたしは自分自身を聖なる者とします。かれらも 真理によって聖なる者となるためです。
   また かれらのためだけでなく かれらの言葉によってわたしを信じる人びとのためにも お願いします。父よ あなたがわたしの内におられ わたしがあなたの内にいるように すべての人びとを一つにしてください。かれらもわたしたちの内にいるようにしてください。そうすれば この世は あなたがわたしをお遣わしになったことを 信じるようになります。あなたがくださった栄光を わたしはかれらに与えました。わたしたちが一つであるように かれらも一つになるためです。わたしがかれらの内におり あなたがわたしの内におられるのは かれらが完全に一つになるためです。こうして あなたがわたしをお遣わしになったこと また わたしを愛しておられたように かれらをも愛しておられたことを この世が知るようになります。父よ わたしにくださった人びとが わたしのいる所に 一緒にいるようにしていただきたいのです。それは 天地創造の前からわたしを愛して お与えになった栄光を かれらに見せるためです。正しい父よ この世はあなたを知りませんが わたしはあなたを知っており かれらは あなたがわたしをお遣わしになったことを知っています。わたしは あなたの名をかれらに知らせました。また これからも知らせます。わたしに対するあなたの愛がかれらの内にあり わたしもかれらの内にいるためです。
ヨハネ17:1−26)

このあと ユダに裏切られ 敵対する祭司長らの手によって イエスは逮捕される。ヨハネはそう記します。他の三つの福音書では たとえばマタイによれば 

〔食事のあと〕 ゲトセマネという所に来ると 悲しみと悩みに襲われた。・・・
   ――わたしは死ぬほど悲しい。・・・
・・・
   ――父よ できることなら この杯を過ぎ去らせてください。でも わたしの望みどおりではなく お望みどおりになさいますように。・・・
(マタイ26:36−39)

と祈ったという。ヨハネは 上のように記す。また 使徒パウロは たとえば次のように。

キリストは この世におられたとき 激しい叫び声をあげ 涙を流しながら ご自分を死から救う力のあるかたに対して 祈りと願いとをささげられましたが そのおそれ敬う態度のために 神に聞き入れられました。キリストは御子であるにもかかわらず 多くの苦しみによって従順を学ばれました。そして 完全な者となられたので ご自分に従順であるすべての人びとに対して 永遠の救いの源となり 神からマルキセデクの系統の大祭司と呼ばれたのです。
(ヘブル書5:7−10)

前章までの史観の方程式 その歴史的時間について これらの言葉によって さらに綜合すべきです。
《できることなら この杯を過ぎ去らせてください》と 《激しい叫び声をあげ 涙を流しながら ご自分を死から救う力のあるかたに対して 祈りと願いとをささげられた》このしもべの貌としてのキリスト・イエス そうして 十字架上で 《わが神 わが神 なにゆえ われを捨てたまいしや》(マルコ15:34)と叫ばれた。これが 方程式の第一の基軸である《第一の死(罪〔の贖い〕)》であり また 《復活と高挙》というその後の第二・第三の基軸によって それが 《〔第一のアダムの徒の〕罪の贖い》〔という神の計画〕であることが 方程式の模範として 実現した。この神の顔としてのキリスト・イエスの実体は はじめに引用したヨハネの記す長いかれの祈りが 明かす。
ここから見通されるものは 史観の原理(真理・神の言葉)そのものであり かつ人間キリスト・イエスとして行なわれたことにより 人間にとっての史観の方程式なのです。その保証金にとっての史観の方程式なのです。その保証金にとって かれは父とともに 聖霊なる神を派遣したまうた。
史観の方程式が 人間にとっての歴史的時間であることは 《わたしたちのように かれらも一つとなるため》 《父よ あなたがわたしの内におられ わたしがあなたの内にいるように すべての人びとを 一つにしてください。かれらもわたしたちの内にいるようにしてください》 《わたしに対するあなたの愛がかれらの内にあり わたしもかれらの内にいるため》の言葉によって われわれはこれを知る。

  • 人間は その本性によって・その三一性主体であることによって・あるいは 類としての存在であることによって 互いに一つのものである。しかし この本性・本質によってだけではなく 霊的な愛の日の融合によっても 一つのものとなるようにという掟・共同主観である。しかし これは 経験的に(愛情・友情・義理として)ではなく 経験的なものをとおして理性的に知解してでないなら 観念的な共同による宗教によってとなるか あるいはこの宗教を批判する客観語の視点の共同によってとなるかのどちらかでしかない。
  • 後者の姿勢も もはや無意味となっている。共同主観の現実的な問い求めが 課題である。われわれはその原点を キリスト・イエスに見る。

また ペテロの展開例が かれを その上に教会の建てられる《ペテロすなわち岩》とされたのであったことにより この教会・エクレシアを わたしたちは やしろの歴史的時間として S圏・自治態勢にあると考えた。あたかも 内村鑑三の無教会〔主義〕を さらに拡げてのように。(まったくそれを解散・開放してしまってのように)。
それは パウロの言うように 《わたしたちの戦いは 弱い人間を相手にするものではなく 支配と権威の霊 暗闇の世界の支配者 天にいる悪の霊を相手にするものなのです》《エペソ書6:12)ということからであり また 内村の 根拠としても挙げるように やはりパウロが 《わたし自身 兄弟たち つまり血縁上の同胞のためならば キリストから離され 神から見捨てられた者となってもよいとさえ思っています》(ローマ書9:3)という言葉からです。
したがって 外的なやしろの歴史的時間の形態ないし方向性としては 一つに 開かれたムライスム すなわち〔インタナシオナルな〕インタムライスム(自治態勢連関) 一つに A‐S連関体制という・つまり国家という社会形態なるやしろではなく――この全体的なやしろも キュリアコンつまり神の家とよぶわけですが また それは次の原理によってそう呼ぶのですが―― やしろの第一次形態つまり ヤシロ=S圏( Susanowoschaft )が その第二次形態つまりスーパーヤシロ=A圏( Amaterasutum )を 主導するかたち S圏主義的《S‐A》連関制すなわちデモクラシのもとでのインタムライスムとし これらによって その各ムラをエクレシアとするということ。また 内なるやしろの時間(社会関係)としては インタスサノヲイスム これであると。
この歴史的時間としての共同主観(常識)は しかし 前章で見たアダム・スミス市民社会( Susanowoschaft )の経済行為上の思惟・内省=生産・行為形式(――《利己心》と《同感》――)を そのまま全面的なものとしないということによって 言いかえると かならずしもこのような人間の知解行為能力によってのみは この共同主観が成立するというのではなく あたかもやしろの歴史的時間に そのムライスムなる共同の水路をとおって(ムライスム律法和をではなく その水路を生かして) イエスが父によって与えられる聖霊(愛)が 人間のあいだに受け取られるというほどに 史観の方程式の全体として もしくは 《社会組織‐経済行為‐政治》の三一性(そしてこれらを S圏を第一の基盤とする)の全体として これを全面的なものとするということによって さらにしかも この三一性ないし史観の方程式〔の形相によって捉えられたもの〕はこれを ただ精神において保持するのではなく それを似像をする・つまり鏡として見ることによって 鏡をとおして見る・つまりこの似像は 人間のものとして所有し用いる(だから 《利己心》の前にだけではなく 《利己心》と《同感》の前に これらを人間の有として用いる意志(愛)が同じく実体として存在する) しかもこれを それがその似像である三位一体なる神に 方程式の展開過程において 関係させ得るという全体的な行為〔関係〕の中に 推移させる。また推移させるように実現することを見る。このような共同主観であり これを インタスサノヲイスムと名づけた。

  • 利己心・情念の船が 浮き上がる。すなわち 利己心を同感によって抑制するのではなく 利己心だけではなく同感の原理をも それを人間の力にしたがう行為として捉えるなら さらにその前に 真理(自由)にしたがう人間の意志を置く。このことによって 利己心〔および同感〕の船が 浮かび上がる。同感の原理によって行為するときは 同感の原理が実現されるかどうか(――されない場合が 多い――)に対する恐れがある。そしてこれは人間がその精神にしたがって行為(思惟)している場合であるが 同感の原理をも一つの人間の三一性の似像と見るとするなら かれは この似像なる存在に到達できるかどうか そのように自己そのものを保つときの恐れがある。この恐れは 愛・意志の恐れであり 快活な恐れである。同感の恐れは 情念の恐れ・あるいは 精神の――それもなお可変的である・つまり 悲惨から浄福へあるいはその逆へ 移り行く――恐れであり 哲学者たちの恐れである。

この恐れを なおアマテラス者となって克服する つまりいわゆる出世(出世間)することによって 経験的にアマガケリゆくことにおいて 克服し自由となるのではなく 主観が底でアマアガリする このことによって これらの情念の恐れを 克服するというよりは なおも残像として残しつつ その船を浮かび上がらせるのである。これは 史観であり 前者は 理論である。この史観 この共同主観は もはや何を為すべきか 何を愛すべきかを知らないとは 言い得ないのである。
これを キリスト史観としたいと考える。
また その核は 《永遠の生命(自由)とは 唯一のまことの神であられるあなたと あなたのお遣わしになったイエス・キリストとを知ることです》――ただいまの人間にとって このようにしか表現できないであろう――という目標を 史観〔の方程式〕の道とすることにある。こう考えたいと思う。
(つづく→2007-11-19 - caguirofie071119)