#181
第四部 聖霊なる神の時代
第二十章b なぜなら 史観の原理的な方程式つまり《十字架上の死‐復活‐高挙》は 人間キリスト・イエスの時間でもあったから
聖霊の時代というのは 《ピリポよ こんなに長いあいだ一緒にいるのに わたしのことがわかっていないのか》と言われたその人 かれを いまはすでに見ないからである。しかも 永遠なる生命という史観の原理(キリスト)としてだけではなく 《死‐復活‐アマアガリ》という方程式を 人間(キリスト・イエス)として生きた歴史的時間が かれによって キリスト者に与えられている。
その保証金として かれの父およびかれによって 聖霊なる神なる賜物として 与えられているという歴史的時間であった。
この聖霊なる神の時代に われわれは 何を為すことが可能であり またこの可能な出来事をとおして どのように 神の観想にみちびかれているのか これが この第四部で課題としたもであり また その道の段階的な(史観の方程式にのっとった)歩みそれじたいであったもの。
《わたしの名によって願うことは なんでもかなえてあげる。こうして 父は子によって栄光をお受けになる。わたしの名によって何かを願うならば わたしがかなえてあげる》という言葉に こうしてわれわれは属くのである。
ここでは まづ最後の食事の席での《悲しみが喜びに変わる》と要約された一段を読むことにする。
――しばらくすると お前たちはもうわたしを見なくなるが またしばらくすると わたしを見るようになる。
そこで 弟子たちは互いに言った。
――《しばらくすると お前たちはわたしを見なくなるが またしばらくすると わたしを見るようになる》とか 《父のもとに行く》とか言っておられるのは いったい何のことだろうか。
また 言った。
――《しばらくすると》と言っておられるのは いったい 何のことだろうか。何を話しておられるのか さっぱりわからない。
イエスは かれらが尋ねたがっているのを知って言った。
――《しばらくすると お前たちはわたしを見なくなるが またしばらくすると わたしを見るようになる》と わたしが言ったことについて 論じ合っているのか。はっきり言っておきたい。お前たちは泣いて悲嘆にくれるが この世は喜ぶ。お前たちは悲しむが その悲しみは喜びに変わるのだ。女は子供を産むとき 悲しくなるものだ。自分の時が来たからである。しかし 子供が生まれると 一人の人間がこの世に生まれたという喜びのために もはやその苦しみを思い出さない。ところで お前たちも 悲しんでいる。しかし わたしは再びお前たちと会い お前たちは心から喜ぶことになる。その喜びをお前たちから奪い去る者はいない。その日には お前たちはもう 何もわたしに尋ねない。はっきり言っておきたい。お前たちがわたしの名によって何かを父に願うならば 父はお与えになる。今までは お前たちはわたしの名によっては何も願わなかった。願いなさい。そうすればいただいて お前たちの心は喜びで満たされる。
(ヨハネ16:15−24)
史観は この願い(意志・愛)から――つまり必ずしも 経験現実としての土台である経済的な要請から 現在とその将来の時代に向けては 出発するのではなく この大外枠から 言いかえると 方程式の内容の 第一の基軸からではなく第三の基軸から―― 出発して 内外のやしろ形式を展開するという次代。これは 現在の時にかなっている。むろん マルクシスムがこのことを つとに説いた(説こうとした)それである。しかしマルクシスムは 経済現実からの要請を土台とし 言いかえると 経済活動上の罪という第一の死から 出発する。しかし キリストは 神の子として 第一のアダムの時代を揚棄・完成させるべく みづからの死によって あの方程式を完全なものとして示したまうた。これによって 方程式の完結というその後の歴史的時間は そこに第一の死という罪が 原理的に 取り除かれた(《罪を犯すならば 死ぬであろう》というように 死が脅しとなっていたものが 《罪を犯さないために 死ぬべきである》というように 死は誰にとっても悪であるが すでに善い死を死ぬことができるようになった 言いかえると 死は罪の負債を支払う罰でありそのように悪であるが はじめに すでに第二の死を回避するためにというほどに 身体の霊魂からの分離を引き受けた精神(人間)の第一の死ののち キリストによって復活させられてのように もはや罪の負債を支払わない善い死を迎えるということが アマアガリが 時として 実現するようになった。その現実性は 社会思想的にインタスサノヲイスム 社会科学的にインタムライスム=インタキャピタリスム〔またこのS圏連合による S圏主導のS‐A連関制なる社会形態 さらにそのインタナシオナルな形態〕という やしろの形成過程として 提示した。
ただ わたしたちの史観にあっては 史観の方程式におけるアマアガリ いくらか具体的にはインタスサノヲイスム これにすべてが始まっており そこに将来すべき現在の栄光(共同主観) 現在する将来の栄光を見るということであった。少なくとも これを言っていなければ 社会科学的な分析や理論は 富のではなくとも知の 私有財産制というほどに むなしく――むろん研究はゆたかになるであろうが――その史観(生活)は 停滞的にして現在という時間とそんものの再生産にしか過ぎないであろうと見た)。
あたかも 三つの基軸の全体に対して 第三の基軸でもあり聖霊がこれを包み込んで 史観の展開つまり人間の生活を 共同主観(コミュニスム)となさしめた。《もしもらっているなら まだ受け取っていないとなぜ誇るのか》であるから。そうでなければ その家がプロレタリアートではなかったマルクスやエンゲルスが まだ経済的に社会全体として必ずしも豊かでなかった時に いま上に見たマルクシスムを説くことはできなかったであろう。(マルクスは 予言はこれをしなかたっと言われるが コミュニスム社会を・つまり見来社会を まったく規定しなかったのではない。これを 共同主観において為したのである。しかしわれわれは 一見 精神主義と見られようとも この共同主観は 主観というほどに まづ内なるやしろの自己形成において つまり史観の完成過程として すべてがそれに還元されてもよいとさえ言うほどに 存在していると 見たほうがよい。そう表現して主観共同化ないしさまざまな分野での理論作業をおこなっているほうがよいと言ったのである。その主観共同化の第一の理性的な知解 つまい信仰にかんする理論として いまこの方程式の展開を見ようとしている)。このような単純な論証は 論証とはならないかも知れないが 聖霊の時代は このようだと考えたい。
(つづく→2007-11-14 - caguirofie071114)