caguirofie

哲学いろいろ

#202

もくじ→2005-05-13 - caguirofie

第四部 聖霊なる神の時代

第三十六章a 理論による啓蒙ではなく 愛の火による啓発(感覚的なもの・経験的なものを外に用い尽くすことによってではなく それらを受け取ることによってである)

それで 神は ご自分と共に永遠であり神である独り子が人間に成り 人間の魂と肉を着て 可死的になり死を耐えることを欲したまうという方法以外に 人間をその可死性という悲惨から解放する方法を持たれなかったのであろうか と言う人びとがいる。かれらに対しては 神は神と人間の仲保者・人間キリストをとおして私たちを解放しようと定められたという方法は善であり 神の威厳に相応すると主張して反論するのでは不十分である。
さらになお その権能にすべてのものが等しく服従している神は他の方法を持たれなかったのではなく 私たちの悲惨〔* 可死性=時間的存在=時間知から 嘘が生じ 嘘が虚偽となり 虚偽によって この人間知による虚偽ないし罪の共同自治を行ない この共同自治の人間的な普遍性=アマテラス者主導性にもとづくことから 神の類似への転倒した欲望(神々=A者権能を人間の絶対的な根拠とする)が生じ 虚偽によって この・神のようにいかなるものの下にも立つまいという人間の悲惨――なぜなら 可死的な神々のような存在になろうとする 高慢つまり自己を楽しませようとする者となる―― すなわち身体の死と魂の死。人間は そのようにますます人間的となることによって 虚偽はふくれ上がり 不安にされ空しくなるその悲惨〕を救うためには他のいかなる方法も適しくなく またその必要もなかったのだと示さなければならない。
(三位一体論13・10〔13〕)

わたしたちの悲惨が 身体の死および魂の死という第一の死を免れず またこれに直面し直面せざるを得ないゆえに――それは 第一のあダムの原罪の結果であった―― この悲惨が癒され もともとの神の似像が回復されるためには 神の独り子たるキリストが人間となって その報いを受けるべき何の咎もないにもかかわらず この魂と肉の死をみづから欲したまいて引き受けられ ここからの復活が示されねばならなかった。この復活の保証・弁護者が この独り子と父なる神とがさらに遣わしたまう聖霊なる神であった。また この愛なる聖霊なる神は 人間の悲惨という死から〔再〕生への 創造主による買戻し金でもあった。
このように 実際に取り引きがあったと表現しうるほどに――つまりそこで 神が実体として人間によって 信じられるか否かをたとい別にしても―― 人間はその自己の本質を ここに見出して生きるというほどに 神のみこころが告知されたのである。この神の国の共同相続人には 民族(ユダヤ人かギリシャ人か) 職業(奴隷か自由な身分の人か) また性別(男か女か)の別なく すべての時間的存在たる人間が あてられたと理解すべきである。
ゆえに 史観の方程式は 《第一の死‐復活‐第二の死の方向転換》の三つの基軸から成り 第三の基軸たる《愛なるアマアガリ》が 真のアマアガリの 予感のようなだから時間的にしてなお不安にされる信仰による愛であるゆえ 信仰・希望・愛という別の三つの基軸による史観という生の〔動態的な〕かたちだということである。史観の方程式は キリスト・イエスなる史観の原理の人間的な展開によってもたらされ その保証金として 第三の基軸〔を中心としてその三つの基軸の全体に及ぶ〕聖霊なる神が 人間のあいだに遣わされた。これらすべて 〔父なる〕神の原理的な(はじめの)はかりごとの中に位置する。したがって 子なる神キリストは はかりごとからのはかりごと 知恵からの知恵とよばれ 聖霊なる神は この子の父と父の子との言詮を絶したまじわりであり そこに発出しさらに派遣されると理解される。
しかしこの三位一体なる神は 鏡をとおして謎において わづかにおぼろに観想されても 顔と顔を合わせて見ることはできない。またその実体は 存在したまうとおりには思惟されず 思惟し得てもその思惟するとおりには語られ得ないものであり 各主観の〔動態的な〕信仰 つまりその内なるやしろにおいてのみ 生ける神である。がゆえに 一方で いわゆる宗教とは成り得ず――あの人間の悲惨が これを宗教と為した―― 他方で 人間の理論や科学〔的な真理 またその似像〕には 還元し得ない――人間の悲惨からのためいきが 信仰を宗教と為したことを批判する限りで この理論(唯物史観をはじめとする無神論)は 正しい――。
また この《神に属いて 神と一つなる霊となる》というアマアガリは わづかに この生においては 予感して把握されることはあっても 時間的な不類似の類似のアマアガリにしか過ぎない。そこで 《私の威厳が通り過ぎるやいなか あなたは岩の上に立つであろう》と言われたように キリスト・イエスの過ぎ越しのあと われわれは この史観の原理を見てのように 神の似像たる史観の方程式存在として立たされるのである。そうしてわれわれは 愛の火を贈られてのように 自己および他者の啓発へと促される。

  • 後章で マルクスによって 《コミュニスムの愛はそのまま直ぐに実在的であり ただちに活動しようと緊張している》と述べられたことを見る。もっとも《緊張》する必要はなく 滞留するものだとわれわれは言った。

これは 信仰の宣伝 宗教の強要であるだろうか。理論や科学の排除であるだろうか。むしろ 信仰の不安(義に飢え渇く可死的な存在) 神への畏れ(アマアガリへの快活な恐れ)によって 宗教を 排除しつつ なおそれを信仰へと揚棄し また これを理性的に知解しうる理論形成へとみちびかれつつ ここに立って人間の科学一般をあたらしく起こそうとするささやかなむしろ身体の運動ではないだろうか。人間が清められるというほどに人間(現実)が変わるべく その歴史的時間がただし捉えられるべく 原点としては キリストを宣揚しなければならなかったのではないだろうか。これは 《神は死んだ》という近代市民の共通理解と両立し得ないものではない。
しかし なお信仰にとどまるように――人間の精神は 時間的存在として滞留する・しかもつねに 滞留する―― スサノヲ者のアマアガリの時間 八重垣なる内なるやしろの樹立 これが 原点(原点からの原点)である。インタスサノヲイストの愛 つまり 愛からの愛(聖霊なる愛なる神という賜物からの愛)が 原点である。
したがってなお われわれは 蛇足と思われようとも 《キリスト・イエスの十字架上の死》という方法以外に 人間の解放一般のための方途はないのであろうかと言う人びとに対して アウグスティヌスとともに 次のように宣べなければならない。キリスト・イエスの宣揚は――それが 《人間のうちに起こっていることを知る者は その人のうちにあるその人の霊よりほかにはない》から 信仰の主観共同化ではあっても なお主観のうちにとどまらざるを得ないものであり そこで完結するという表現をも一方では にらんでおり また そうでなかったなら キリストの宣揚にはならないのであり―― その人の持つ人間の理論や科学を 無視させるどろこか これらをむしろ生かすとしか思われないからである。
(つづく→2007-12-05 - caguirofie071205)