caguirofie

哲学いろいろ

#203

もくじ→2005-05-13 - caguirofie

第四部 聖霊なる神の時代

第三十六章b 理論による啓蒙ではなく 愛の火による啓発(感覚的なもの・経験的なものを外に用い尽くすことによってではなく それらを受け取ることによってである)

次の文章。

私たちの希望を振るい興し 可死性そのものの状態によって意気阻喪している死ぬべき者の精神を不可死性についての絶望から解放するために 神(*もしくは 私たちの自己と考えよ)がいかばかり私たちのことを考え いかばかり私たちを愛してくださるか ということが示されるにまさって必要なものがあろうか。また次のようなことよりも明らかに 明解にこの事実の重要な証明に資するものは何であろうか。つまり 変わらざる善にいます神の御子は かつて在られたもの(神性)をご自身のうちに保ちつつ かつては在られなかったもの(人間性)を私たちから 私たちのために受け取られ ご自分の本性を損なうことなく私たちの交わりの中に入られることを嘉(よ)しとしたまい その当然の悪なくして 先づ私たちの悪を担ってくださったのである。このようにして 神の私たちをいかばかり愛したまうか ということをすでに信じている私たちに また私たちが絶望していたものをすでに望んでいる私たちに われらのいかなる善き功績なくして いな われらの先行する悪しき罰にも拘らず 神の賜物を価いなき仁愛によって与えてくださったのである。
なぜなら 私たちの功績といわれるものも実は神の賜物であるから。信仰が愛をとおして働く(ガラテア書5:6)ために 《神の愛は私たちに与えられている聖霊によって私たちの心に注がれた》(ローマ書5:5)のである。
(三位一体論13・10〔13−14〕)

しかしわたしたちは これを 現実の一つの鏡としながらも この鏡そのものを見つめてはならない。というように読まなければならない。この鏡をとおして なお謎において 見るのである。キリスト・イエスとは いかなる人であったのかを。そこに問い求めたイエス・キリストをわれわれは飲みまつる。そこに見出した或る視像としての形相を そのものによって 愛する。なぜなら この形相としての人間像は 人間キリスト・イエスであったというほどに つまりかれが たしかに《死んだ》というようにわれわれと同じ可死的な存在であったというほどに 身体の質料(なんなら物質)によって構成されていた。これは 現実である。しかし 形相を愛し 質料(身体)を持った形相(像)を愛し これを史観の原理として信じることはあっても 形相そのものを信じる〔のみ〕・または ましてや質料(身体)のみを愛すないし信じることは 愚かなこととなるというほどに 物質〔に還元されたもの〕として 信じることはできないであろう。それでも そうなったとしても 人間の―― 一個の人間の――意志(愛)を放棄することはないと仮りにしても そうなれば あたかも 結局は〔少なくともまだ〕得体の知れない物質の〔自己運動するという〕意志 これに人間の意志を還元してしまうか または それを信じるというかに等しい。

  • ここでは 物質は 形相を持たぬ質料 つまり質料ではあるが 目に見えないものでもあるので これを起源とするということは かならずしも ただもの(唯物)論となるわけではない。

これは そういう信仰形態がないということではなく または そこで一つの共同主観がまったく形成されないということでもなく しかも同じく ただこの現実の鏡そのものを なおどこからか 見ている そうして鏡の中に棲息しているという結果にも等しい。《世界を解釈すること(これも重要だ)ではなく 世界を変革する(自己の生きた時間を過程させる)ことが重要》ではなかったか。それは 鏡そのものを見ることによっては 成し得ない。そこでの時間的存在の生という過程は ほんとうには 時間が動いていない。

  • 単純な事実としては 鏡をとおして見た 鏡の世界を超えた物質を 存在の根拠とし 第一原因とするという観想は 史観(生)を形成することができないということであろう。それこそ むしろ よそよそしいものとして 疎外=表現されたものだ。

《わたしは 物質の〔世界史的な〕意志にもとづいて動いているのだから そこに新しい時間は存在する》と言っても その意志(愛)が はたして自己の・人間の意志であることを どうして知るのであろうか。あるいは その意志の目的とするところのもの・かれらの主張は わざわざ唯物論にもとづくと言わなくとも・そう見なくとも そのまま自己のあるいは人間の意志ではないのか。しかし 鏡が 物質の反映であるとするなら 物質の意志とは 畢竟 あたかも鏡そのものの意志にほかならないものではないのか。なぜなら 鏡たる現実の根源を 物質と見たのだから。だからかれらは 鏡そのものを見ている。
そこでは――しかし上に 反面の現実として見たように 人間の自己の意志もあるのであるから―― そこでは 時間がたしかに停滞するその鏡のなかで 鏡に映った像を 唯物論にもとづこうがもとづくまいが うまく化粧させるというように そしてそれをこれが物質の意志であり世界史の実像だなどと考え 動いていることにほかならないのではないか。よく化粧し またよく整形させようというその批判は しかし 人間の真実の言葉である。しかし 真理なるキリストが人間として肉を受け取ったのは この鏡のでこぼこへの感覚的な〔批判の〕心情や経験的なその再形成への熱意を そのまま〔人間の真実の言葉としてさえも〕外に出して用い尽くすことによってではなく この感覚的なもの・経験的なものを 自己のなかに受け取ることによってである。このことによって 言葉が 人間の言葉として発出され 一般に行為として その時間が動くことになるのである。
これは たしかに鏡をとおして あの謎において 真理なるお方を 観想することによって すなわちこの信仰によって 人間もあるいは人間が 歴史時間に入り 歴史的時間(聖霊の時代)を生きることになる。のではないか。
(つづく→2007-12-06 - caguirofie071206)