caguirofie

哲学いろいろ

#32

もくじ→2008-04-22 - caguirofie080422

付録の一b 《純粋概念による考察》ということの性格について

つまり 《歴史的な概念および現実であるスサノヲ者市民の個別具体的なかつその主観共同的な 私的かつ公的にわたる愛の 一編のかたち》と言う。それは 《社会全体としての一編のかたち》でもあるだろう。
このように主張するがごとく われわれは 形相と真理に対して その具体的な形態である自由や平等ないし愛の概念を 次のように考えまた位置づける。
ここでは 《愛》が問題である。《スサノヲの一編の愛》であり また 《自由と平等との保証金  arrabon / arrhes / earnest としての愛》であり それは 一言でいって 《スサノヲのスサノヲその人への愛》を言うのであり そこでは《愛情と憎悪とを含む愛》なのであり 《自己であり他者(の自己)でもあるスサノヲその人への 具体個別的にして 個体としての人間の人間に対する愛》を言うのであり 《人間の精神ないし 自由平等といった形相や 真理という観念内容への愛》ではなく 《自由への人間の実践 平等への人間の社会的な活動 その行為自体に対する愛》でもない。
われわれは この議論にかんして アウグスティヌスを引くことが出来る。
アウグスティヌスは 《キリストは 天使にまさる》(ヘブル書)と言い 純粋思想派ないしこの意味でのキリスト教を排するがごとく また 《神のものは神へ カエサル(皇帝)のものはカエサルへ》と言って 反純粋思想派ないしこの意味でのマルクシスムを内に含むとするがごとく 《形相と真理》にかんして 《自由と平等を求めて 真理が 愛するのではなく 人間が愛するのであり 人間が愛するのは 真理またはその形相(精神と言ったり理念と言ったり)を愛するのではなく 人間を愛するのである》と説こうとしている。次に原典を引用しようと思うが あらかじめ述べるなら これに対して その見解が 世俗的・此岸的と言って批判する人は 純粋思想を愛するがゆえにであり また同じく 別の意味で形而上学的・非実践的・非現実的であると言って批判する人は 自由をではなく 実践を つまり実践そのものを愛するがゆえである。
純粋思想は 神ではない。実践は 有限で偶有的な行為である。自由は その理念として純粋思想として 神ではないが 無限性を表わしうる。非現実的な現実である。非在の現在である。無限性は 神に固有の概念であるなら この神を愛するとき 人は 自由となる。このように反批判しておく。それでは 長い引用になるが アウグスティヌスの文章である。
まづかれは 自己と他者との関係におけるその時間にかんして どこまでどのように知解がおよぶか どこからは及ばないか したがって言いかえれば どこからは幻想的にその時間を持つか――たとえば 自己と他者とのあいだに 神という純粋概念を アプリオリに立てることは 幻想的・幻想共同的な時間(つまり 非時間)である そのような意味で《幻想》の問題が 現実において 現われるが そのあり方が どこまで現実的であるか―― これを 一つの前提として明らかにする。

 私たち以外の他の人が生きていることを私たちに知らしめる身体の運動を私たちは自分たちとの類似に基づいて知るのである。そのわけは 私たちはあの身体が動かされていることを注目するように 私たち自身 自分たちの身体を生かしつつ動かすからである。つまり 生きている身体が動かされるとき 私たちの眼に 眼で見られ得ないもの 言い換えると心を見るための或る道があらわれるのではなく むしろ私たちが自分の身体という集塊を動かし得るために 私たちのうちにと同じような或るものが あの身体の集塊に内在していることを認めるのである。それが生命であり魂である。

  • 脳裡という質料が あるいは 質料じたいが 身体の全体として生命を持つことは言うまでもなく 魂と呼びうるものをも持たないとは言えない。ただし魂は 魂をアプリオリに前提して これを時間の本質と言うとき その言葉ないしその言葉を発する人間が 非自由ないし反自由な幻想的時間へと退行する。したがって

 それは人間の思慮や理性に特有なもののようなものではない。獣もたしかに自分たちだけではなく 他の獣たちも相互に生きており 私たちも生きていることを意識している。彼らは私たちの魂(* 《言葉》と言いかえてもよい)を見ないが 身体の運動から 直ちにいともたやすく本性の或る運動から 私たち人間が生きていることを意識するのである。したがって 私たちは私たち自身の心に基づいて他人の心を知り

  • つまり 身体の運動に対する知解により 時間をこのようにたとえば《心》という語によっても認識し表現するのであり

私たちが知らないものを私たちの心に基づいて信ずるのである。

  • あるいは 信じないのであると言ってもよい。かくて

私たちは心の存在を意識するのみではなく 自分自身を考察することによって 〔この〕心とは何かを知り得るのである。それは 私たちが〔身体の運動によって形成され またなかんづく この運動に際して意志を持っていることにもとづく〕心を持っているからである。

そこでこの前提に立ってアウグスティヌスは 《形相と真理へのわれわれの関わり方》 言いかえれば 《形相と真理は われわれの愛の中にどのように位置するか》に説き進む。かれは 《形相〔と真理〕》の一例に 《義人》の概念ないし存在を取り上げる。これは われわれの言葉で 《自由ないし自由人》のことである。

 しかし義人とは何かについて 私たちはどこから知るのであろうか。

  • 身体の運動をそれによって形成される心をとおして いかに 義人ないし自由人であることを つまりその時間を 知解してくるのか。(義人ないし自由人という概念について 唯物論者も排除していない)。したがって 逆に 《義ないし自由》を立てるのではなく はじめに《義人》を立てることによって 《自由》といった純粋思想そのものを愛するのではなく またその《自由人》の一時代制約的な・だから現実的でもあるのだがその不自由から自由への実践活動じたいを 必ずしも 愛するのではないということを あらかじめ前提してもいる。しかしこの仮説的前提は 全体の議論への障害ではない。

 ・・・〔したがって次に〕もし私たちが義人(* 自由人)でないなら 義人とは何か ということをどこから知るであろうか。

  • したがって この第二の論の立て方は やはり反純粋思想派の実践論を 内に含むべく批判しているというように 全面的な不自由から自由への 社会階級闘争といった実践活動を愛するというのではなく むしろ初めに自由があって(身体の運動としての自由でもよい その人間的自由があって)――つまりそれは 当然のことのようだが 十分に確認するに足るはづだ そのあと―― 社会の経済政治的な・だから有限で偶有的な或る不自由に対してこれを自由へともたらしうるということ しかもそのことを愛すると言うのだと 言わねばならない。したがって

義人でなければ義人とは何であるかということを 誰も知らないなら 義人でなければ義人を愛さないことになる。

  • たとえば カール・マルクスその人が 義人であるかどうかということを もし 誰も知り得ないなら 仮りにカールが義人であるとして 人が義人でなければ かれは カールを愛さないことになる。現実はそうではないが もしそのことがそのまま そのとおりであるとするなら 人はマルクスを愛するのではなく マルクシスムといういわゆる実践を愛していることになる。しかも じつは しばしば 実践という純粋思想をではないであろうか。
  • このとき マルクスを愛する愛さないは 問題ではないが マルクシスムを愛することにおいて あるいは マルクスシムを実践することを愛することにおいて かれは 自己を愛していないことになる。自由を求める・自由人であろうとすると言いながら 自分もそしてマルクシスムを説いたとされるマルクスその人も いづれも自由人であるかどうかを知らない。自由と平等を保証する愛(何ならその闘争)のゆくえを 何ら知らないことになるからである。知っているとすれば それは 形相(たとえば コミュニスム社会)への愛である。わたしたちは 人としての自分自身ないし自分自身も自由人であること これを愛していると言うのだが いま いづれにしても その身体の運動ないしその心を知らずしては 自由も平等も愛もないからである。

 もし義人とは何かということを知らないなら まさに その人(* たとえばマルクス)が義人であると信じるからこそ義人であると信じている人(* マルクス)を愛し得ない。

  • つまり この意味でのいわゆるマルクシストは マルクスを義人であると《信じる》とき 幻想的な時間(ないし非時間)の中にいることになる。

〔先に私たちが示したように〕もし類的(* 歴史普遍的な《自由人》の類的 および)・種的(* 歴史現代的な《自由ないし不自由》の種的)な知識の或る規則に基づくのでないなら(――つまり 《〈自由〉という形相》をでもなく 《自由への実践そのもの》をでもなく 人間が人間(自由人)を愛するという仮説的結論にもとづくのでないなら――) 信じるが見ていない誰をも愛し得ない。

  • 一般的に過去もしくは故人を 人はまったく愛し得ず(また 憎み得ず) 過ぎ去った世代は 全くの無か単なる幻想ということにもなる。歴史という概念じたいも こうなるとなくなり あの反純粋思想派の 歴史的条件に対する歴史的考察ということも 現実のものでなくなる。《自由とかそれへの実践とか》それらすべて 現実には崩壊することになる。要するにここでは 人はみな 《自由人とは何であるか》をほんとうには知っているということになるであり しかもかれは自分が 自由人でありそのことをも知っているという前提が初めに立っていることになる。そういう議論が展開されていく。このことの帰結には 自己が自由人であり他者が自由人であり この前提に立ってこそ 国家論も階級闘争論も説かれ得るのであり このことは 《スサノヲの一編の愛のかたち》というときその愛は 心をとおして見られる・身体の運動が象徴するその形相ないし真理(その言葉)に対するものでもなく 心を持つ人・身体の運動をするその人に対するものでしかない。と帰結されるはづである。
  • つまりこうである。国家論つまり国家絶対論が 衰退しつつあるとし 階級闘争論が現に行なわれつつあるとすると このいま生きている階級闘争論は 《スサノヲイストの愛のかたち》のその中の《プロレタリアートの闘争また愛の実践》というかたちへと変わる。すなわち 以前の目的が新しい大前提となり 以前の実践活動はこの大前提から派生する一過程とみなされる。このちがいは 大きい。また言うまでもなく 国家主義とか階級闘争論にまでは到らないその他のスサノヲの あいまいな愛のかたちは 同じくこの分水嶺を一度 超えて新たな流れをかたちづくるものである。

したがって 義人でなければ 義人を愛さないのであるなら どうして まだ義人でない者が義人であることを欲するのであろうか。なぜなら誰も 愛さないものになろうとは思わないからである。

  • 身体の運動は 一般にこのように行なわれると 心をとおして認識される。

しかし まだ義人ではない人が義人となり得るように義人であろうと欲するのである。

  • という命題も ひるがって 現実である。

つまり それを欲するために義人を愛するのである。だから まだ 義人ではない人も義人を愛するのである。さて 義人とは何か ということを知らない人は義人を愛し得ない。それゆえ まだ義人ではない人も 義人とは何か ということを知っているのだ。
・・・ところが 私たちがまだ義人でないときも 義人とは何かということを・・・

(つづく→2008-05-24 - caguirofie080524)