caguirofie

哲学いろいろ

#204

もくじ→2005-05-13 - caguirofie

第四部 聖霊なる神の時代

第三十七章a 愛の火というほどに 神の似像――そこには性は存在しない――としての男の 女に愛する関係が 共同主観の原点(その場かつ動態)である

このことは 人間が高められるのではなく 《誇る者は主において誇れ》といわれることが成就するためである。《なぜなら 私たちの功績といわれるものも主の賜物であるから。信仰は愛をとおして働くために 〈神の愛は私たちに与えられていた聖霊によって私たちに注がれた〉のである》このことを われわれが飲みまつることによってである。
したがって つづけて

聖霊はイエスが復活されて栄光を受けられたあの時 与えられたのである。その時 イエス聖霊を遣わすであろうと約束し そして遣わされた(ヨハネ15:26 / 20:22)。かれについて記され 予言されたように 

かれは高きところに上り 捕虜(悪魔のこと)を捕らえ 人びとに賜物を与えられた。
(エペソ書4:8 詩編67:19)

のである。この賜物が私たちの受くべきものであり 私たちはそれによって不可死の浄福という至高なる善に到達し得るのである。使徒は言う。

私たちがまだ罪人であったとき キリストは私たちのために死にたまうたので 神は私たちに対する愛を示されたのである。私たちはキリストの血において今は義とされているから 尚更 かれによって神の怒りから救われるであろう。
(ローマ書5:8−9)

さらにかれはつづいて言う。

もし私たちが敵であった時に御子の死によって神に和解せしめられたなら 尚更 和解せしめられるであろう。
(同上5:10)

使徒はここではじめに罪人について語り 後に神の敵について語っている。はじめに イエス・キリストの血によって義とされた者たちと後に神の死によって和解せしめられた者と語る。また はじめにキリストご自身によって怒りから救われた者と語り 後にキリストの生命において救われた者と語る。だから 私たちはあの恩恵の前には何らかの罪人であるのではなく 神の敵であるような罪の中にあったのである。ところが同じ使徒はさきに私たちを二つの名称で罪人かつ神の敵と称んだ。その名称の一方は明らかに極めて厳しい。そして 

私たちがまだ弱かったとき キリストは定められた時 不信心な者のために死なれたのであるなら
(ローマ書5:6)

と言う。使徒は先に弱い者と称んだものを同じく不信心な者とよぶ。弱くあることは一見 或る軽いもののように見える。しかし それは時には不信心と名づけられるようなものである。しかも 弱さがなかったなら ヘブライ語でイエス ギリシャ語でσωτηρ(ソーテール) ラテン語でサルヴァトルといわれる医者は不必要である。ラテン語は以前には この言葉を持っていなかったが 欲した時 可能であったように持ち得たのである。ところが 使徒は 《私たちが弱かったとき キリストは定められた時に 不信心な者のために死なれたのである》と語ったところで この先行せる文章は次の二つの文章に連らなる。その一つで 使徒は罪人について 他で神の敵について語った。それはちょうど それぞれにそれぞれを つまり 弱き者たちに罪人たちを 不信心な者たちに神の敵たちを関係づけたようにである。
(三位一体論13・10〔14〕)

ところがわたしには この文章を読んで 高慢にも 自己の・人間の力にしたがって この視点を排斥するようにして 強く生きることが 人間の死であり この高慢が死ぬとき 復活へとみちびかれると考えられたのである。なぜなら 高慢とは 自分を楽しませる以外のものではないのだから。この強き高慢が 弱き者たちすなわち罪人たちであると言われ また さらになおかたくななより強き高慢は 不信心な者たちすなわち神の敵たちと言われたのであると。
しかし この或る種の反省的な精神は何も語らないと言ったほうがよい。それは 《私たちが弱かったとき キリストは定められた時に 不信心な者のために死なれた》のは それに対してわれわれが 同情する強き者たちの弱さを癒す医者とかれはなられたのだから。わたしは 以前 救い主もしくは医者という言葉を持っていなかったが 欲した時 可能であったように 持ち得たのである。
このことは 人間が高められるのではなく 《誇る者は主において誇れ》といわれることが 成就するためである。しかも 人間も あるいは人間が 歴史的時間のなかで 生きた歴史時間を生きるのである。史観の原理を観想しつつ その史観の方程式を 自由〔なるお方〕からの自由を得てのように あたかもすでにその方程式にのっとってのように 生きる。ないしこの方程式を用いて生きる。コミュニスムないし共同主観とは この自由な独立主観においてこそ 時として実現するというほどに 実現すると考えられるのである。そのほかのコミュニスムとは この史観の方法・手段ではあっても 史観の一部分ないし部分的な史観を生きることにしかならないと知ったのである。
二十世紀の人間の問題はセックスにあると言われたとか言われなかったとかいうことに関して言うなら それは このような独立主観による共同主観としての したがって すでに触れた霊的な婦人の(なんなら 男性の)共有にこそある。そうでなければ 人間の解放そのものではなく 鏡の再編成による人間の部分的な解放 だんだんと真理に近づくという非解放(解放の唱導)にしかすぎないと知ったゆえに。
そのためには 人間〔の自己の高慢〕が死ななければならない。これは 欲した時 人は可能であったように その癒す人の名を持ち得たのである。わたしには このようにしか考えられない。キリスト史観の方法(福音)は これ以外にないとしか考えられないのである。


マルクス自身も 《人間の人間にたいする直接的な 自然的な 必然的な関係は 男性の女性にたいする関係である》とまづ 捉え 

男性の女性にたいする関係は 人間の人間にたいするもっとも自然的な関係である。だから どの程度まで人間の自然的態度(* スサノヲ者領域)が人間的(* S‐A連関主体的)となったか あるいはどの程度まで人間的本質が人間にとって自然的本質となったか

  • つまり スサノヲ者性を アマテラス者性へと高めてのように自己を変身させ ますます人間的となるというのではなく また そうなった者が その反面での虚偽の死を死なせてのように スサノヲ者が アマテラス語の訓練を積み これを用いつつ 自己のスサノヲ語に〔還りこれに〕よって 生きるか・つまり男は 女に対処するか

どの程度まで人間の人間的自然が人間にとって自然となったか(*上の註に含まれる)は 男性の女性にたいする関係のなかに示されている。
マルクス:経済学・哲学草稿  第三草稿〔二〕私有財産とコミュニスム)

  • マルクスの文章は 一般に 史観の方程式を マルクスその人という一個の個人・主観として とらえ表現するというよりは この方程式そのものにのっとって(また その原理であるキリストに人間が寄り縋るというのではなく かれ自身がキリストそのものになってのように) 思惟しこれを表現していると見られ その膨大な言語体系に 安易に深入りしたりそれに引きずられたりしては 元も子もなくなると思われる。それゆえ その文章の直接的な引用と論議は これを控えてきたのであるが いまここに引用した箇所について論議するとするならば――

まづはじめの前提にかんして 《人間の人間にたいする〈直接的な〉関係》とは 構造的・類型的に捉えられたおおきく歴史的時間を言うのではなく 各主観のそこに生きる個人的・具体的な関係過程を言っている。つまり《歴史時間》を言っている。《自然的な》とは もっぱらのアマテラス者・しかもそのシンキロウ言語によるのではなく スサノヲ者性に立った・身体を離れないということを意味表示している。三つ目の《必然的な》とは この世の偶有的・経験的な関係の中にも 上の二つの契機つまり《直接的な および 自然的な》関係(その出会い)が いったん何らかのかたちで築かれたなら それは 精神がこれを卑劣なかたちで避けることは出来ず その精神的・人間的なという意味で 史観の方程式展開は 或る種〔偶有的ななかにも〕必然的な過程をとるというほどの意味である。これらは 《男性の女性にたいする関係》のなかに もっともふさわしく 他にまさってすぐれたかたちで 現われるとし またそれは 〔人間の〕本質的な史観の展開に属するとまづ おさえることになる。
この前提からの帰結を示す文章は すでに引用文のなかに註解したとおりであり また ここではそれ以上のことを語ってもいない。これを裏付ける意味で またその内容をもう少しふくらませる意味で 関連の箇所をいま少し引用して そのあとに論議を行なうことにしょう。
(つづく→2007-12-07 - caguirofie071207)