caguirofie

哲学いろいろ

#125

もくじ→2005-05-13 - caguirofie

第三部 キリスト史観

第四章 神の似像の以後

第六節b キリストの再臨

それにしても主よ。御目の前においては 人間の意識の深淵も赤裸々にあらわれています。たとえ告白しようと思わなくとも あなたにとって何か隠れたものが私のうちにありうるでしょうか。私はあなたを自分に隠すことはできましょう。しかしあなたに自分を隠すことはできません。
(告白10・2)

と知られるゆえ この主の観想は おのおのの主観に現在していると言わなければならない。なら この主観の主張は 神の似像の人間の言葉にほかならない。
問題は この《主観》というとき それはまづ〔プレ・〕スサノヲ語の未熟な主観ではなく また このスサノヲ語の経験事象の中から普遍的な本性を取り出してこれをアマテラス概念とし しかしただこれをアマテラス語においてのみ述べることでもなく それは スサノヲ語を基体としつつアマテラス概念を用いて――しかも現行アマテラス語をも時に応じて用いて―― 《スサノヲ者‐アマテラス者》連関主体として・またあの三一性主体の全体として 行為するということ。《主観》は 人間的な次元で言って このような構造的かつ過程的な運動そのものでなければならない。それはもちろん 客観(アマテラス者単独存在)とはなりえず また為すべきではなく しかも 相手すなわち 客体という他者の主体をも 〔人間的に見れば〕自由〔の王国〕の中に引きこんでおり(愛の火を燃やし及ぼす用意があり) 〔あの望楼に立って全体として見れば〕かれとともに愛なる自由〔という常に過程〕にあると言いうる。
この愛そのもの・すなわちその究極存在としての神は 人間に不可視であり その直視は――この生において 腐敗する身体と魂の重圧に抑えられて――かなわないながら たしかに この愛なる自由の過程は これを神がなしたまう。すなわち 主の霊のあるところに自由があると 正当にも 言いうる。
だから主よ 《敵を愛し 自分を迫害する者のために祈りなさい》と語られた。しかしその内実は 《わたしが来たのは・・・平和ではなく 争いをもたらすために来たのだ》ということを 人間の過程的に含んでいる。《お前の敵が飢えていたら 食べさせ 渇いていたら 飲ませよ。そうすれば 燃える炭火を敵の頭に積むことになる》は ここで聞かれるべきである。また そのため 独力(主観)で為し得ないなら 共同主観(常識)の成立が俟たれる。愛の火による三一性主体の三位一体への融解を われわれは祈るのである。神がこれを為したまう。
真理は永遠なものの観想の中にあるが しかもこれを 或る種 可感的に人間は了解しうるという反面で その直視はいまだ適わないのであるが 信仰は時間的なものの内に〔関係して〕ある。信仰は 時間的なものと相即的であり 〔日から日へ変えられつつなる〕並行的でもある。病いの状態に応じて治療されるのでなければ 健康は獲得されない。しかし主は われわれ時間的存在の信仰が たしかにいつか成るであろう全き健康としてあられたのではなく つねに健康としてありたまうお方である。だから 《私の言葉にとどまる者は真実に私の弟子である》と聞かれる。この主観は 信仰つまり生活の内にあって しかも信仰とは一見はなれたかたちの生活日常の中に 〔信仰の言葉とは関係せずとも〕主張されるべきであり またそう為されていると言いうる。
そこで同じく次の言葉が聞かれるべきである。

神から賜った恵みによって あなたたち一人ひとりに言います。実際の価値以上に自分を過大評価してはなりません。

  • それは 実際の価値以上のお方に固着すべきだから。

むしろ 神が各自に分け与えてくださった信仰の度合いに応じて慎重に評価すべきです。というのは わたしたちの一つの体は多くの部分から成り立っていても すべての部分が同じ働きをしていないように わたしたちも数は多いが キリストに結ばれて一つの体を形造っており 各自は互いに部分なのです。
(ローマ書 12:3−5)

しかしこのことは 当然のごとく しんきろう現象のように 空中の権能によって差し出された館の中での 役割分担といった現実――それは 或る人は単独知解的にアマテラス者となり 或る人はこれに従いつつスサノヲ者であるそのような役割分担―― その経験的なことがらとして あてはめて見られるようであってはならない。現象としては同じようでありつつ その役割分担という前史から 本史としての役割分担として すなわち神の家(キュリアコン)の中で 栄光から栄光へ変えられてのように このやしろというキリストの一つの体に互いが結ばれていることでなければならない。ここに 神の国が 栄光の座として不動のごとく立っていると見られるように 人間の歴史は そのようにして過程的でなければならない。現象が過程的であるほどに むしろ主観が過程的でなければならない。そうでなければ 神の国は空しく 神の似像はわれわれの内にとどまらないでしょう。そうでなければ 別種のアマテラス語宗教となってしまうでしょう。
すなわちここでは この不可視的ないのちとして見られなければならない。しかしこの内なる人のこころの回転は すでに起こっている そしてこの回心の転換が起こっているがゆえに それ以後・すなわちあたかも神の似像以後の世界が 生きられることでなければならない。しかし使徒はここでも 《人は皆 上に立つ権威(権威であるなら)に従うべきです》 あるいは 《兄弟たち おのおの召されたときの身分のまま 神の前にとどまっていなさい》(コリント前書7:24)と説きます。おのおの分担する役割じたいにわづらわされるべきではなく 内なる人において栄光から栄光へ召されて 生きるべきです。
役割分担の全体についてはまた 

神はまた すべてのものをキリストの足もとに従わせ(キリストは全世界に広まった) すべてのものの上に立つキリストを 教会(キュリアコン)の頭とされました。教会(いまでは キュリアコンというやしろ全体 もしくは その基礎としては それとしてもS圏・エクレシアというヤシロ)は キリストの体であり すべてにおいてすべてを満たしている方の満ちておられる場です。
(エペソ書1:22−23)

さらに――もっとも 上の観想は キリスト教の問題ではない。わたしの・きみの主観の中のキリストの問題である―― 神の似像は 《A‐S》連関主体の全体であって プレ・スサノヲ者でもなく 単独分立アマテラス者でもないことは 次のごとくです。

《自然の人》(プレ・スサノヲ者)は神の霊に属する事柄を受け入れません。その人にとっては ばかげているからです。また 理解することもできません。そのようなものは 霊(律法・アマテラス概念も 一種の霊であった)によってはじめて判断できるからです。《霊の人》(しかし 単独A者ではなく 《A‐S》連関主体)はいっさいのことを判断しますが その人自身はだれからも判断されることはありません。
(コリント前書2:14−15)

このように言うのも つまりいまでは誰もがすでに納得しているようなことを言うのも 使徒パウロは 

わたしはあなたたちには 《霊の人》に対するように語ることができず 《肉の人》つまりキリストとの関係では乳飲み子である人びとに対するように語りました。わたしはあなたたちに乳を飲ませて固い食物は与えませんでした。まだ固い食物を口にすることだできないからです。いや 今でもできません。あい変わらず《肉の人》だからです。
(コリント前書3:1−3)

というように述べますが 現代では この同じかたちの同じ人間の言葉が しかしその座標を変えるように 新しい栄光の場にあって 語られるべきだと思うからです。つまり 神の似像以後ということです。実際には 以前と以後とに分かれるわけではないのですが ここで重要なことは 《霊の人》が 愛の人であって 知解者・理論の人ではないということ すなわち〔知解する〕精神=アマテラス者もなお そのまま人間であり つまり三一性主体その人であり なら 同じく《肉の人》であるということ。もう一度いいかえると 《A者‐S者》連関主体という人間は 神の似像であって 《霊の人》は この《A者‐S者連関者》という人間の全体に対して その霊の人として生きるのであるからです。

  • アマテラス語の止揚ということ 倫理規範・律法を超えるということ キリストはこの世に属しておられないがこの世に人間として造られたということ。

しかし このような《古き人を脱ぎ 新しき人を着よ》という内なる人の衣替えは すでに時が充満している。あるいはそのように神の国が わたしたちの間に到来しているとこそ把捉されるからです。キリストがふたたび 降臨されると見まつるからです。
この言葉を空しいと見る人びとには 神の祝福がありますように――とここで わたしたちも この第四章の終わりにあたって 旧い表現形式を採るとしますと つまりそのように いささか遊ぶとしますと―― そして これを正しいと見る人びとには なお一層の祝福がありますようにと 付け加えて祈るのが この共同主観を語る かく語るわたしたちが たといその当の義しい人ではないとしても。

  • ここで かなり旧い考え方をしている。《キリストの再臨》じたいが 旧いかも知れない。(20070917)

(つづく→caguirofie070918)