#205
第四部 聖霊なる神の時代
第三十七章b 愛の火というほどに 神の似像――そこには性は存在しない――としての男の 女に愛する関係が 共同主観の原点(その場かつ動態)である
宗教的疎外(*これについては すでにわれわれは語った)それ自体は ただ人間の内面の意識の領域でだけ生ずるが しかし経済的疎外は
- これは あの鏡という現実(罪の共同自治)の中での束縛(つまり観念的に言っても あの悪魔による人間の拘束)すなわち むしろ その〔束縛ということにおいては・ともあれ関係性であり 関係性という〕意味では非疎外でもある。この経済的疎外は
現実的疎外である。
- したがって この罪の共同自治の中での経済的な現実的生活の疎外・そのよそよそしさは 上の宗教的疎外と実は等しいか またはそれを共同自治の一方式として この経済生活上のよそよそしさが出現するものだとも言える。そうでなければ 人間は 経済的な豊かさを持てば――それは総体的にであるかも知れないが―― すべてのよそよそしさから解放されるという一元的な見方に立ってしまう。
――だから その止揚は〔意識と現実という〕両側面をふくんでいる。
- 上の註解とともに そのとおりであろう。
この〔止揚への〕運動が さまざまな民族(*共同観念)において どのような最初の出発をするからは その民族の一般に認められている本来の生活が意識内と外的世界とのどちらでより多くおこなわれているか
- A‐S連関体制という国家による《共同の観念の運河》が S圏主義というデモクラシなるやしろ(ヤシロ)の《共同水路》に対してどれだけ 一種 本質的に強固であるか
その生活がより多く観念的であるか実在的であるか にしたがってきまることは おこづから明らかである。コミュニスムは無神論とともにただちに(オーウェン)はじまるが あの無神論がむしろまだ一つの抽象であるように
- 無神論に立ったコミュニスム共同主観は まだ 現行のA‐S連関体制ないしその経済上の制度とその段階に対して 批判的にして実践的な一つの真実であるが この批判の根拠(無神論)の根拠をまだ持ち得ず S者実践的ではなく 抽象的である。現実に一部おこなわれていようとも 実践を根拠を 先延ばしにして 捉えている。つまり 捉えようとしているが 捉えていないゆえ 抽象的である。
無神論は最初のうちまだコミュニスムであることから遠くはなれている。
無神論の人間愛( Philanthropie )は だから最初はただ哲学的な抽象的人間愛にすぎないが
- 現行の共同自治のなかのA語による虚偽を伴ないつつも いよいよますます人間的となる人間愛 に対抗すべく打ち出された別種のまだA語による人間愛にすぎないが
コミュニスムの人間愛はそのまますぐに実在的であり ただちに活動しようと緊張している。
- 後者は 愛の火による啓発 前者は 理論による啓蒙とも それぞれ 言いうる。ここで前者の一例としての R.オーウェンによるニュー・ラナーク工場における労働者の生活改善などへの実験が――それがわるいと言うのではないが―― 実践的にしてなお 基本的には 理論による啓蒙だとわたしたちも考える。共同主観は やしろ構造的でもあって たとえば《大祭司カヤパ》と 基本的なかたちで 対峙していなければならないからである。これは 理論である以前に 愛の火の問題であるから。
(マルクス:経済学・哲学草稿 3・2)
《コミュニスムの人間愛はそのまますぐに実在的(つまり S語を排除していない)であり ただちに活動しようと緊張している》というこの指摘を われわれのすでに見た《霊的な 男の女に対する関係――なぜなら 霊とは 霊になることではなく それは そのまま からだ〔の運動〕であるしかない――》と同じものであると見るのであるが ここで マルクスは このような《コミュニスム》と規定する史観その原理を つまり言いかえると 《コミュニスムをあたかも先駆的に始めようとした無神論(ここでは オーウェンが挙げられている)のその根拠》を 明かすべくであった。〔政治〕経済学〔批判〕的なその裏付けを 詳細に行なったとは言え それは この根拠そのものではなく むしろこの何ものかである根拠にみちびかれてのように推移する歴史〔的〕時間を 経済〔学〕的な推移の過程・その方向性として そしてかれ自身は 必ずしも世界を変革しようというのではなく(つねに そうすべきだと言おうとするのでもないが) これを解釈ないし展望するというように 史観の方程式そのものの(つまり必ずしも個人的な・また各主観におけるではなく 方程式一般としての)具体的な展開を あらかじめ 明らかにして こうしてむしろ暗々裏に実は史観の原理(つまり いまここで言う根拠)の正しさ・その真理性を 実際に根拠付けようと試みたかのようである。
これを詳しく論議し証明しようとすると 時間がいくらあっても足りないであろうし ということは それによってむしろ つねに経験的な現実の推移とともに この推移の研究によって あたかも《コミュニスム》という実体を 鼻の先にぶらさげてのように われわれは 生きなければならなくなるので それは すべきではないであろう。ここでその欠陥は マルクスにある。
このようにして マルクスが やはり実は 史観の原理を 言外にかれ自身は見ていた・ないし問い求めていたといったことは いま たとい別にしても 要はここで コミュニスムなる共同主観を かれが 男女両性の関係に 基本的に 捉えていたそのことは重要である言うべきであろう。また それは正しいとわれわれは 考える。すなわち その解は 霊的なアマアガリによるコミュニスムであると。
このように あたかも経済上の(たとえば 私有財産を止揚するという)実践の以前の視点として もしくは 《経済‐政治‐社会組織》の全体(すなわち A‐S連関体制の全体としてのやしろをにらみつつも 基本的には S圏としてのやしろエクレシアの全体)の視点として だから 史観の方程式そのものの視点に立ったその歴史全体的な展開の把握・展望でもなく 史観の方程式を 各個人・各主観が 自己のものとして捉え 見つめ直しこれを用いうるものとして 以上そのようなものとしての ただいまの原点 これを問い求めるということである。問い求め 自己のもとに 実体とするかのように 史観を生きるのだと考える。したがってまた それは あたかも史観〔相互〕の《直接的 自然的 必然的な関係》が 男女両性の関係に見出されると正当にも言えるというようにして ここに霊的なアマアガリによるコミュニスムを そう結論せざるを得ないというかのごとく 捉えてきたのであった。
また 要点をあらために挙げておくとすると 一つに われわれは 史観の原理そのものにはなることはできない。(むろん これは 道であり これをとおして かれに似る者とされるのであるが)。一つに 史観の方程式そのものになることも出来ず またそうすべきではなく(その必要もない。つまり 結果的に与えられ現われるもの これを捉え用いるでよい) やしろ一般の視点に立ったその展開を展望することも かなわないし また 可能であったとしても それは 得策ではない。
- つぎの文章。
科学の入り口には 地獄の入り口と同じように つぎの要求がかかげられなければならない。
ここでいっさいの優柔不断をすてなければならぬ。
臆病根性はいっさいここでいれかえなければならぬ。
(ダンテ)(マルクス:政治経済学批判 序言)
- あるいは
私は科学的な批判ならどんな批評でも歓迎する。いわゆる世論なるものには少しも譲歩しなかったのであるが その偏見にたいしては 依然として偉大なるフィレンツェ人(=ダンテ)の格言が私のそれである。
Segui il tuo corso,e lascia dir le genti !
(汝の道を行け そして人びとの語るにまかせよ!)
- と言って このように言って 人は済ませるわけには行かないからである。人間精神の健全な《優柔不断》つまり その滞留は 信仰がこの地上の生に寄留しているかぎり それはつねに起こる。また 《いわゆる世論なるものには 少しも譲歩しない》だけではなくて つまり《汝の道を行き 人びとの語るにまかせる》のではなく 世論を・あるいは時にその《偏見》さえをも われわれは 精神の滞留のある限りで むしろ用いるべきだ。
(つづく→2007-12-08 - caguirofie071208)