caguirofie

哲学いろいろ

#206

もくじ→2005-05-13 - caguirofie

第四部 聖霊なる神の時代

第三十七章c 愛の火というほどに 神の似像――そこには性は存在しない――としての男の 女に愛する関係が 共同主観の原点(その場かつ動態)である

人間精神の健全な《優柔不断》つまり その滞留は 信仰がこの地上の生に寄留しているかぎり それはつねに起こる。また 《いわゆる世論なるものには 少しも譲歩しない》だけではなくて つまり《汝の道を行き 人びとの語るにまかせる》のではなく 世論を・あるいは時にその《偏見》さえをも われわれは 精神の滞留のある限りで むしろ用いるべきだからである。これ以上用いられないというとき その人間の限界を見極めることによって それがたと《譲歩》と映っても この譲歩(人間の第一の死を引き受けること)は 人間の歴史時間的なものでしかない。だから 最終的に《資本》(その著述)に突き進んだマルクスの・史観の方程式一般の展開の展望は マルクスひとりでたくさんだ。われわれは こう言うことによって かれをけなしたことになるであろうか。
したがって やしろ一般の視点に立ったその展開を展望することは 得策ではなく つまりもう一度なぜなら その限りでのたとえ詳細な展望が得られたとしても それは 鏡から共同主観を見て形成することではなく 客観共同を見る・だから 鏡そのものをなお見ているからだ。
そこで もう一つに〔要点としては〕 史観の原理その人による方程式展開の模範 これを観想することはあっても これをA語で講解してすますべきではなく(たとえば それに対して 講解するアウグスティヌスがS語を排除しておらず むしろこの模範をよりいっそう明らかにしたことは 重ねて銘記すべきべき) 言いかえると それぞれ主観の その現在段階における到達度合いをこそ明らかにしているべきであり
したがって やしろ一般のではなく各個人の方程式の具体的な展開 これは その主観の原理なるお方に或る時には離反するようなかたちででも しかもかれに属いているということによって 展開されることを排除してはならない。(また わざとそうすべきでもない)。
もう一つに これらの点によって 《コミュニスムの人間愛はそのまますぐに実在的であり ただちに活動しようと緊張している》のであるから あくまでやはり 内なるやしろの内的な観想が 第一義的なものであり 行為はこれにつらなって現われるものである。(これは 観想と行為とを 二分しようとするものではなく その史観の内面における・現実に対処する方向性というほどのことを言っている)。
だから ほんとうには この史観なる愛が《そのまますぐに実在的であり ただちに活動しようと緊張している》というように その現われるべきすがたを叙述するのではなく それが何によって現われるか その歴史時間の成り立ちをこそ まづはじめに問い求めるべき。そうでないと このような《コミュニスムの人間愛》を ふたたび――つまり キリスト・イエスに継いで ふたたび―― マルクスその人が神の子として このアマアガリの模範を持ったということになる。マルクス自身は そう表現しうるという・そして表現したかれの個人的な史観じたいは 実体なのだと言おうとしたにすぎないからである。
しかしまたそれでも かれに或る種の仕方で 神格が与えられたとするなら この行きすぎはかれ自身のものである。かれ自身のその意図に反してではあっても かれは確かに 福音書の第二版を書いてしまった。それが 有効性を持ったのは 事を経済学上の知解行為にしぼったという理由による。逆に言いかえると マルクスは 一般に宗教化形態に対する共同主観なる信仰を擁護して そのような神の言葉を自身が語るという表現形式を採ったと言いうる。(しかも ヨーロッパ社会ではこのとき 信仰のシの字も 積極的に表明することは出来なかった)。いづれにしても このような側面(それは 基本的な史観のかたち)のマルクスは 止揚しなければならない。またはマルクスは それを承知で 政治経済学《批判》として 自らの信仰(史観)を 表明していったのかも知れない。
しかし 《そのまますぐに実在的であり ただちに活動しようと緊張して 生きている》のは われわれ人間〔の信仰による愛をとおして〕であるが――たしかにそうなのだが―― それは同時に 聖霊なる神の愛でしかない。それを言わないことは そのように書いた案ルクス自身が 《聖霊》であったことになる。われわれ人間は この《実在 この緊張》から離反してのように 身体の死また魂の死(疎外ないし 私有財産制〔における搾取〕)を経験するものである。この死からの復活とアマアガリを成すのは われわれ人間の力によってではなく われらが長子であるイエス・キリストが その父なる神とともに 遣わしてくれる聖霊なる神によるのであるから。(だから これゆえに 疎外の止揚 ないし 私有財産制の止揚を欲し それへと走らなければならない。この原点の構造 構造的な原点は 変わらないであろう)。

  • しかし そうでなければ イエスの出現は 歴史的に必要でなかったし またマルクスの史観も生まれてくる必要はなかった。つまりキリストをたとえ措くとしても マルクスの理論体系は そうでなければ まったくどうでもよいものだということになる。《コミュニスムの人間愛は うんぬん》と言っても言わなくとも どちらでもよいことになる。逆に言いかえると そのように表明して そのような史観(愛)を 新しい神の言葉としたことになる。そうではあるまい。さらに言いかえると ここでマルクスを取りあげるのは それによって 人間の理論・思想のすべてを言っているのであり 人間が自己〔の史観〕をその起源としてはならないということである。

単純なことだが マルクスは結局 この史観の方程式の原理を かれ自身たしかに 暗々裏に 問い求め見出し これを経済学批判のかたちで表現しようとしたということだ。方法論的には これを明らかにしておく必要はあると見た。
これ以上 論証しようとは思わないが これは 観想的な精神によって得られる生きたし観なのであるというのも それをマルクスの文章(あるいは文体)じたいが明らかに語っているとしかわれわれには考えられなかったのである。
(つづく→2007-12-09 - caguirofie071209)