#165
第四部 聖霊なる神の時代
第十章 人間の三行為能力の一体は 鏡であり この鏡をとおして見るのでなければならない
〔第二十四章 44つづき〕
だから 見られ得るだけ自分の精神を見 また その精神において私に出来る限り 多くの仕方で論じたあの三一性を見るが しかも その三一性が神の似像であると信ぜず また知解しない人びとは なるほど鏡を見ている。
- 鏡そのものが 観想され知解されて表現されたものが あの人間の理論である。また この鏡をとおして見るための道具としての人間の理論である。しかし この人間の理論も 初発には 西欧近代市民らの科学において 神学に立っていなかったとは言えない。言わば それ以後の歴史において この神学〔の領域〕が切り離されたのである。(また 人間の精神・だから身体の復興を主張しかのような所謂るルネサンスの運動も 神学を切り離すためというよりは 神学を人間が このからだで受け取るためのそれであったとも言い得る。しかしその後 神学は切り離されていった)。
- ところが いまや この鏡を知解する理論の精緻化・再生産は その最高のそして或る意味で最終の段階に達したとわれわれは見たし 一般にもこのことは叫ばれ出した。したがって 時に 神学の見直しをも含めてとも言い得る。しかし こう言うのも 決して 神学の復興のためではなかった。
しかし今 鏡をとおして見られるべきであるお方を鏡をとおして見ていないのである。かれらが見ているその鏡は鏡 言いかえると似像であることを知らないのである。
- したがって 何度も言うように キリスト史観は 信仰であり神学であり史観ではあっても いわゆる宗教ではない。この《信仰》とは 《鏡は鏡 言いかえると 似像であることを》告白する信仰である。だから この信仰が 客観化されてそのアマテラス語のみが仮りに流通したとせよ したとしてもその時にも しかし 《鏡は似像である。鏡をとおして見なければならない》というA語が仮りに観念共同されたとしても このA語は 実際の行為(少なくとも思惟的な観想行為)と一体でないならば 何の意味もないというほどに むしろ滑稽と映り 宗教とはなりえないであろう。それとも 人は 国家権力によって このA語を 強制的に奉じさせられ観念共同するであろうか。
- 反面で 人間の理論というものに対して それ(理論)は道具であると言われることは正しい。ただ 同じく現代では その道具である理論の源が たとえばシントイスムの神々であるとか あるいは唯物論であるとかというふうに ばくぜんと あるいはなもさらに 理論的というほどに幾何学ないし物理学的な知解によって 捉えられ考えられそして信じられているとも見られる。これは 主観〔の領域〕の問題である。そしてここに われわれは キリスト史観として その史観の原理が 神々としてではなく人を神々ともさせたまう一つなる真実の神であり 根源的な物質といった実体なのではなく具体的な質料をも造られた真実なる一つの神であると宣べている。質料の根源としての物質と 質料ないし被造物全体の創造者としての神との違いは 後者が 真理なる神の言葉・神の知恵・力として しかも人間キリスト・イエスとなって派遣されたということにある。
- 真理なるお方は 死を超えて復活したまうた生命の制作者であると告白するところにある。唯物論は たしかに神学であり 鏡を超えて 一見 この生命の制作者に似た根源的な実体をとらえるようであるが それ(物質)は この生命の制作者の言うなれば物質的な力であり あるいは生命というものの物質的な力である。だから これに対して 《神は愛である》また《神は霊である》と説き明かされる。しかしわれわれは この唯物史観は キリスト史観を あたかも用意したと 第二部で言ったのである。また 《神は愛である》と言われるときの 固有の意味で愛なる神とよばれる聖霊について 何とか理性的に知解しようと問い求めたのである。
もしそのこと(鏡は鏡であること 言いかえると似像であること)を知っていたなら おそらくかれらは 精神がその鏡であるお方を 今は鏡をとおして見るが 顔と顔を合わせて見得るように 鏡をとおして問い求め 鏡をとおして 暫くの間 いくらかでも見なければならないと 偽りのない信仰と清らかな心によって(テモテ前書1:5)悟るであろう。
- だから唯物史観は この《偽りのない信仰と清らかな心》を あの人間の理論の時代の終焉を告げるべく 実際にはマルクスという人によって 用意したのである。(日本語の文章として主語の使い方がおかしいけれど)。
もし心を清める信仰を軽侮するなら 自分たちの知解力の証言によっても罰せられる(=第二の死へと至らしめられる)以外 人間の精神の本性について極めて鋭く論じられることを知解することによって何を為し得るであろうか。
- 罪(時間知)が人間の原罪(オリジナルな死のとげ)であって つまり第一の死であるなら この身体の死・霊魂の死は すでに あの第二の死へと罰せられている。(誰も死なない人はいない)。しかしわれわれは この第二の死を 原罪以前の生命(そして人間)の制作者であるキリストに属くなら その向きを変えさせることができると 史観するのである。ただ 第一の身体の死・霊魂の死をも 現実に社会に生きる上で引き受けざるを得なかった過去の自分があるとするなら それは すでにその時点で――キリストを意識したかしなかたかを問うことなく―― やがてその死の全部が生じるとき もはや死そのものが死なないという第二の死へみちびかれることを回避したがゆえのものであったと知るべきである。
- この心の回転は キリストによってもたらされるのである。つまり かれとともに 十字架上に その旧い自己が死んだと知解するのであり それでも神は見棄てたまわなかったと キリストの復活を見る(信じる)とともに 自己の復活の与えられたことを知るのである。これは 史観である。人は すべての人が納得できるように つまりすべての反駁がことごとく斥けられるように この史観を論証せよと 欲してはならない。それは 宗教であるから。自己の内なるやしろにおいて 自己の史観(現実)を問うべきである。
かれらは罰のため暗闇に巻き込まれ 魂を抑圧する腐敗しやすい身体(知恵の書9:15)の重荷を担うのでなければ たしかに知解において労苦しないであろうし またほとんど或る確実なものに到達しないであろう。しかも罪の負債でないなら いかなる負債によってこの悪を負わされるのであろうか。したがって かれらはこのような大きい悪によって促されて 世の罪を除きたまう羔(こひつじ)(ヨハネ1:29)に服従しなければならないのである。
〔第二十五章〕
この羔に属している人びとは たとい素質の点で 遥かに鋭くあっても この生の終わりに身体から解放されるとき 嫉み深い権能もかれらを拘留すべき権利を持たない(=生の終わりが そのように いま 観想されて そのいま 史観が形成されるのである)。罪の負債なくして あの嫉み深い権能によって殺されたこの羔は血の義によってかれらを征服したまう前に権能の力によって征服したまわなかったのである。そこで羔に従う人びとは悪魔の権力から解放されて 聖なる天使たちに受け納れられ 神と人間の仲保者 人間イエス・キリスト(テモテ前書2:5)によって すべての悪から解放される。なぜなら 旧約と新約の聖書全体は 前者はキリストを預言し 後者はキリストを告知するからであるが 共に 《人間を救い得る御名は キリストの御名を他にして天の下 誰にも与えられていない》(使徒行伝4:12)という点で一致している。しかし すべての腐敗の感染から清められた人びとは平和の座に据えられ 遂には再びその身体を受け取るようになる。しかしその身体はかれらをもはや重荷で煩わすものではなく かれらを飾る非物体的なものである。人間の霊が敬虔にも神に服従し 祝福において服従された身体を持ち その祝福が終わりなく持続するようになることは至善 至賢なる創造主の喜びたまうことである。
〔45〕
そこでは 私たちは真理をいかなる困難もなく見るであろう。また この上なく明白に確実に享受するであろう。私たちは論証的な精神( mens ratiocinans )によってではなく 観想的な精神( mens contemplans )によって 聖霊が御父から発出するとき なぜ 聖霊は御子ではないのか を見るであろう。
- 人間の主観において 愛・インタスサノヲイスムが 記憶・デモクラシから発出するとき なぜ 愛は 知解・キャピタリスム原則ではないのか は少なくとも今でも 捉えるであろう。マルクスの キャピタリスム政治経済学批判の膨大な体系は この一点を明かすことにあったと言っても かれを貶めることにはならないであろうし また反面 キャピタリスム生産行為の原理を 排除してしまうことにはならないであろう。原理として知解されたキャピタリスムは 人間の有であり われわれはこれを用いて生産行為を営むのであり そのときには キャピタリスムすなわち生産行為関係という人間関係つまりやしろが そのまま愛であると知られていることであろう。なぜなら マルクスも この愛・インタスサノヲイスムも キャピタリスムそのものの中から発展して生起するであろうと言ったのである。それが スサノヲ者らのヤシロイスムなる社会主義である。それに向けていま行為することじたいが コミュニスムつまり共同主観であるにほかならない。
この光にはいかなる問題の雲も存在しないであろう。しかしそのことはこの生においては 自らの経験そのものによって 非常に困難であるように私には見えたのである。
- なぜなら 経験的な行為としてのコミュニスム・共同主観は 三位一体の似像であり 三位一体そのもの・つまり真理そのものではないのだから。誰も インタスサノヲイスムの愛を 唯一絶対の正義だと言うことはできない。やしろの自然史〔的な弁証法〕過程に属くというように 全体としては神がこれを為したまうのであり それにはわれわれは 相対的にこれを欲し走らなければならない。
――それは 疑いなく 私が書いたものを注意深く知解的に読む人びとにとっても同様であろう――。したがって この書物の第二巻〔第三章〕で いつかそれについて語るであろうと約束したが 私たち自身を含めて あの被造物においてこの秘義に似た或るものをいくたびか示そうとしたが 私の表現は私の貧弱な読み取り(知解)に十分に随いて行かなかった。勿論 私はその知解においてすら成功した と思うよりは むしろそのことを努めた と思っている。たしかに 私は人間という一つの人格の中にあの至高なる三位一体の似像を見出した。また より容易に知解され得るように 特に第九巻では 可変的なものの中にある三つのものを それらは時の間隔によって別々になっているが 示そうとした。しかし 一つの人格のこの三つの能力は 人間の志向が要求するようには あの神の三位一体の三つのペルソナに適応することは出来ない。それは 私たちがこの第十五巻で証明したとおりである。
(三位一体論15・25)
(つづく→2007-10-29 - caguirofie071029)