caguirofie

哲学いろいろ

#207

もくじ→2005-05-13 - caguirofie

第四部 聖霊なる神の時代

第三十八章a ただいま現在の《エネルギッシュな》史観の方程式展開そのものが コミュニスム(愛の火による共同主観)なのである

前章末尾の言葉にさからって マルクスからもう少し引用することができると思う。
同じく《経済学・哲学草稿》からだが 史観の方程式の最終的な(つまり はじめ=原理の)アマアガリは かれ自身のことばによって 次のように明かされている。〈私有財産とコミュニスム〉の稿の最終の一節で 《しかしコミュニスムは そのようなものとして 人間的発展の到達目標――人間的な社会の形姿――ではない》と締めくくられるパラグラフである。

しかし社会主義的人間(* S者やしろ人)にとって いわゆる世界史の全体は 人間的労働による人間の産出(* 労働は 史観を生きることと読め) 人間のための自然(* 人間――そのスサノヲ者領域――も自然である)の生成以外のなにものでもないのであるから したがってかれは 自己自身による自己の出生について 自己の発生過程について直観的な 反対できない証明を持っているのである。

  • 《自己自身による出生》について。《存在するように自分自身を生む〔者は存在しない》のだからそう〕ではなく もはや断片的に言ってしまえば 血筋によらず 肉の意志によらず また人間の意志にもよらず 神によって生まれたと表現するのが もっともふさわしいような《出生》である。
  • 《自己の発生過程》について。だから史観の方程式の具体的な展開である。
  • 《反対できない証明を持っているのである》と締めくくられる文全体について。言いかえるとすれば 論証的な精神によってではなく 観想的な精神によって認められるものであろう。このとき アマアガリは 《直観的な 反対できない》或る種の予感なのである。

人間および自然が本質をそなえていること( Wesenhaftigkeit )すなわち人間が人間にとって自然の現存として また自然が人間にとって人間の現存として

  • つまり 以上は 環界の自然はこれを捨象して言うとすると《A者は人間にとってS者の現存として》 だから これらの総合的な一体として 人間は 《S‐A連関主体》なる・神の似像であるというその限りでの《本質をそなえている》ことになる。むろんその内容は 三位一体の似像として 個々の《S‐A連関主体》が 三行為能力の一体性を有すること また やしろとしては この諸《三一性》関係の総体であるということだ。それが 《人間の本質》ということだ。このこととして つまりは このような自然の現存として および 人間の現存として

実践的 感性的 直観的となったことによって 疎遠な一本質についての 自然および人間を超越する一本質についての問い――自然と人間との非本質性についての告白をふくんでいる問い――は 実践的に不可能となった。

  • すなわち この《疎遠な一本質〔についての問い〕》とは 第一に S者から離れたA者が 空中に浮かぶようにしてその自己を まづ分離独立させ かつシンキロウのような・人間の手による謎もしくは象徴として 描き出すところの《疎遠な一本質》である。
  • たとえば 《和(または やまとと読め)》を第一義的な律法とする和 つまり そのような《人間の本質》を描き出す和 その永遠なる本質を持ち権威を帯びるかのようなイデア である。これが 《疎遠ではなく身近な かつ正しい一本質》であるとするなら いわゆる国際関係ないし世界史は この諸《和》の関係の総体ということになる。しかし単純に考えても 和は 男の女に対する関係すなわち八重垣にあり やまとは A‐S連関体制の総体つまり国家である前に 一地方共同体つまりS圏の一つのムラである。だから 《やまと=和》なる《人間の本質》を説いてそのように蔽いをかけるような律法ムライスム・ナシオナリスムによって 身近な正しい史観の方程式展開つまり生活が営まれるというものではない。律法ないし理論は 人間の史観の自由のための手段である。
  • スサノヲとクシナダヒメの八重垣=スガの宮なる愛の行為過程が 一つにはそのように理論したのである。これが 九重=A圏によって 社会形態全体の共同自治の方式に利用されたのである。もともと史観の生きた歴史時間から出たものであることにおいて それは身近なそしておそらく愛の正しい展開であるものであった。しかしそれは理論であることにおいて かつこの理論を絶対的な掟とすることにおいて 理論というものはアマテラス語でありその限りでシンキロウであるから 《疎遠な一本質》である。――もし アマアガリがスサノヲ者らによって確立されたなら――それはたしかに各個人の信仰においてその信仰による―― この律法イデアたる《疎遠な一本質》を《問い求めることは 実践的に不可能――不必要と言う前に 不可能――となった》と すでにマルクスは言ってしまった。
  • 第二に 《自然と人間との非本質性についての告白をふくむ》というときには ここでしかし この《非本質性》を 人間がその方(かた)の不類似の類似であるところの神を意味するものと もし考えるならば そして この《神についての告白(――というよりは 神に向かっての告白だが――)》は 《実践的に不可能となった》と言っているのだとも考えられるかも知れない。唯物史観者はそう考えるであろう。第一点と同じように ここでも このような《自然と人間との非本質性としての神についての告白》は 結局 上の第一点と同じように 《実践的 感性的 直観的となった》それ(つまり 信仰の内なるやしろにおける動態的な史観の展開の過程で観想される神 ないし かれへの告白)ではなく やはり《疎遠な一本質》 これにかんする宗教形態としての・時に理論としての観念(共同観念)を言っていると言ってよい。もしそれでも この《自然と人間との非本質性》は おまえの言う《神》のことではないかと考える向きには いくらか茶化して 《人間の本質》は 神の似像であり 偶有的・可変的・時間的な存在でしかないのだから 神はたしかにこの人間から見れば《非本質性》なのだと 詭弁をもって答えよう。
  • しかしわれわれは この神は 《人間の本質》の本質であると聞いた。しかも この本質の本質が 肉となり人間となったと信じ 告白する。この告白は 信仰を理性的に知解するという限りで 一つの理論となるが この理論は 幽霊のように足が生えて いや足(S語)を持たずに空中の蜃気楼のように 純然たるA語宗教とはならないであろう。なれば 自殺行為に等しいのだから。この神の否定しようと思えば 《人間と自然とが本質をそなえていること》じたいを 否定しなければならなくなるのというのが われわれの史観だ。
  • この人間的な本質は その《自己のアマアガリ(コミュニスムでもよい)について直観的な 反対できない証明を持つ》ことによってこそそれが見出されるというのであるから その証明の――見えない現実における・つまり 論証的な精神によってではなく観想的な精神による――根拠ともなる《本質の本質》をそこに見ると言っても一向にかまわない。それを見ない 見ようとしないほうが 人間にとって不思議であり より神秘的だ。
  • そうでなければ 人間は人間として生まれたそのことのみによって――つまり労働ないし史観を生きることを何ら介さずして――すでに その《本質》的な存在であると言ってしまうことになる。それは 人間は他の動物ではなく人間であるから かれは人間として本質的な存在だというに等しい。神から見れば あるいはそうであるかも知れない。しかし 人間がそう言い切ってしまうことは 神秘的でありむしろ神がかりの議論となる。《血筋によらず》つまり 親子・家族の愛情 それは尊いが 人間が罪的・可変的な存在であるからには ほんとうにはここに本質〔の本質〕を置くことはできず 《肉の意志によらず》つまり 夫婦 対関係なる八重垣 これは 本質の本質に支えられて築かれるものであり人間の目標に近いが これそのものが神であることにはならず また《人間の意思にもよらず》つまり 一般の二角関係すなわち友情とか信頼関係であるがこれも 最終的にそれらによって欺かれないとは言い切れない。だから それが何であるかを容易に人間は語れないがその《神によって生まれる》ことが 《血筋や肉や人間の意志》をよく用いるということになる。これをアマアガリもしくは共同主観コミュニスムとした。
  • すなわち 聖霊なる愛なる神 ないしかれを受け取る人間の愛の火であるとした。――マルクスが 《疎遠な一本質についての問い 人間の非本質性についての告白》としたのは それらをしりぞけたのは 《人間は神の被造物であるから神の子・神の似像なる人間である》という或る種の楽観論ないし宗教的なためいき をしりぞけたのである。繰り返すなら 《疎遠は一本質についての問いは 実践的に不可能となった》は A語シンキロウの非現実性という《疎遠な一本質》について言っている。そこには いわゆる唯物史観・マルクシスムを含めてよいだろう。しかし

マルクス:経済学・哲学草稿 3・2)

(つづく→2007-12-10 - caguirofie071210)