caguirofie

哲学いろいろ

#144

もくじ→2005-05-13 - caguirofie

第三部 キリスト史観

第六章 八雲立つ出雲八重垣

第七節 《第三のスサノヲ》のくに

八雲立つ出雲八重垣》の章の最終節は 以上に述べた点を概観しつつ 次の問題点をも取り上げるということになります。

キリストは死者の中から復活した と宣べ伝えられているのに あなたたちの中のある者が 死者の復活などない と言っているのはどういうわけですか。死者の復活がなければ キリストも復活しなかったはづです。・・・
しかし 死者はどんなふうに復活するのか どんな体で来るのか と聞く者がいるかも知れません。愚かな人だ。あなたが蒔く種は 死ななければ生きたものにならないではありませんか。あなたが蒔く種は あとでできる体ではなく 麦であれ他の穀物であれ ただの種粒です。

  • これは 第一のスサノヲの魂 だから身体 すなわち生命。

神は お望みのままに それに体を与え 一つひとつの種にそれぞれ体をお与えになります。どの肉も同じ肉だというのではなく 人間の肉 獣の肉 鳥の肉 魚の肉 とそれぞれ違ったものです。また 天上の体(第三のスサノヲ)と地上の体(第一のスサノヲ)があり 天上の輝き(アマアガリ)と地上の輝き(律法によるアマアガリ)とは異なっています。
死者の復活もこれと同じことです。まかれるとき(第一のスサノヲ)は朽ちるものでも 朽ちないものに復活し まかれるときは卑しいものでも 輝かしいものに復活し まかれるときには弱いものでも 力強いものに復活するのです。つまり 自然の命の体(魂的な身体)がまかれて 霊の体(霊の身体)が復活するのです。自然の命の体があるのですから 霊の体もあるわけです。《最初の人アダムは 命のある生き物となった》と聖書に書いてありますが 《最後の(第三の)アダム》は生かす霊となったのです。最初に霊の体があったのではありません。自然の命の体があり 次いで霊の体があるのです。最初の人は土でできた地の者であり 第二の人は天の者です。土からできた者たちはすべて この土からできた最初の人に等しく 天に属する者たちはすべて この天に属する第二の人に等しいのです。わたしたちは 土からできた最初の人の似姿となっているように 天の者である第二の人の似姿にもなるのです。
パウロ:コリント前書 15:12−13 / 15:35−49)

使徒(この上の書簡の著者であるパウロ)は このことが 再生のサクラメント秘蹟)によって今わたしたちの中に起こるかのように考えている。すなわち 《あなたたちはキリストにあって洗礼を受けるとき キリストを着るのである》(ガラテア書3:27)と他の箇所で述べているとおりである。むろんこのことは わたしたちの誕生において魂的であったものが 復活において霊的なものとなる時に 真に実現するであろう。というのも 使徒の言葉をもう一度引用するならば 《希望によってわたしたちは救われている》(ローマ書3:21)からである。わたしたちは今 誕生の時にわたしたちの中に入ってきた不従順の罪と死の伝播とによって地的人間の像を着ているが やがては赦免と永遠の生命の恵みを受けて天的な人間の像を着るであろう。
これは神と人間との仲保である人間キリスト・イエスによってのみ到来する新生の恵みである。使徒が天的人間(《天の者である第二の人》)という語によって指し示そうとしたのは この方である。なぜなら この方は天から来て 地的な可死性の中にある身体をまとったが やがて天的な不死性によってそれを掩うに至るからである。使徒がキリスト以外の者をも天的人間(アマアガリ者)と呼んだのは かれらが恩恵によってキリストの肢体となり ちょうど かしらと肢体のように ひとりなるキリストがかれらと共にいるようになるからである。使徒はこれを同じ手紙の中で 一層はっきりと表現している。

ひとりの人によって死が またひとりの人によって死人の甦り(死者の復活)があった。すなわち アダムにおいてすべての人が死んだように キリストにおいてすべての人が生きるのである。
パウロ:コリント前書15:20−21)

この《生きる》とは たしかに生命を与える霊において生ずる霊的な身体(現実の現実)の中に生きるということである。しかしこれは アダムにおいて死んだ〔第一の死者の〕すべての者がキリストの肢体となるというのではない(なぜなら その中のより多くの者が永遠に第二の死の罰を受けるからである)。《すべての人》という語が二度用いられているのは アダムにおいて死んだ人はみな魂的な身体において死んだのであるが キリストにおいて生きる人はみな霊的な身体において生きるという意味である。
神の国について 13・23〔3〕)

全能の神は ご自身の息を自己の本性や 下に置かれた被造物から出すのではなく それを無から出すことさえできたのであり その息を人間の身体に入れるゆえに《息を注いだ》あるいは適確には《息を吹きかけた》と言われる。これは非物体的な方が非物体的な息を吹いたのではなく むしろ創造されたのではない方が創造された息を吹いたのであり それゆえ不変的な方が可変的な息を吹いたのである。以上のとおりだとすれば 聖書の用語を知らないで聖書を語ろうとする連中は 神の口から出たものが神の本性と等しい同じものでないことを知るだけでなく(――第一のアダムが 第二のアダムと等しい同じものでないこと また同じく 第一のアダムは 第三のアダムへとそのまま変えられるのではないように かれと等しく同じものではないこと を知るだけではなく――) さらにまた 《あなたたちは熱くもなく冷たくもなく 生ぬるいゆえに わたしはあなたたちをわたしの口から吐き出すであろう》(ヨハネへの黙示3:16)と書かれた神の言葉を聞くか読むかすべきである。
神の国について 13・24〔5〕)

こうして 《第十三巻》は終えられることになります。新しい問題点とは アウグスティヌスが この巻末に次のように言って つづく第十四巻で考察しようとする事柄です。

しかしここに一つの疑問が残されている。それを追究し解決するには 真神の神なる主(キリスト)の助けがなければならない。《もし不従順の罪の結果 神の恩恵が見放した最初の人間たちの中に不従順の肢体の肉欲が入ったとすれば〔どうであろうか〕。かれらの目は開かれて裸に気づき いっそう大きな好奇心をもってそれを眺めた。かれらは恥知らずの情動が意志の決定に逆らうのを感じてその恥部を掩った。しかし もしかれらが造られたままに罪を犯すことなくありつづけたとすれば かれらはどのようにして子孫を持つことができたのだろうか。
神の国について 13・24〔7〕)

第二の死から解放されるべく復活するわれら第三のスサノヲ者のアマアガリは 最終的にこのように死が滅ぼされるというように聞かれるとき この死のとげ すなわち罪 このばあい情欲〔という時間知〕がなかったなら 人間はどのようにして子孫を持つことができただろうか。言いかえると 霊的な身体なるアマアガリ者は そのときなおどのようにして 時間的存在(それは世代という時間を持つごとく 生殖によって 子孫という時間的存在を持つ)であることになるのであろうか。さらに言いかえると すでに最終的に死〔の制作者〕が滅ぼされているとするとき それは それ以前に その死のとげである罪(時間知)が 霊的な身体〔の史観〕の中に蔽われてのように また 《罪を犯さないために 死ぬべきである》が実践されたあとというようにであるにもかかわらず 《最終的な死の破壊》のあとに それでは ことに情欲といった時間的存在の〔人間的な〕原因である罪が どのようにアマアガリするスサノヲ者の中に 征服されつつも 働くのであろうか これである。
ここで ふたたびあたかも 《八雲立つ出雲八重垣 妻籠みに(妻を籠もらせるために。一説に 妻とともに)八重作る その八重垣を》のうたが 第三のスサノヲ者にとってのように 聞かれ その内実が問い求められねばならないのである。しかしこの主題は わたしはすでに 《市民社会学原論――源氏物語に寄せて――》において十分に考察したと思う。そこで この章と前章とを合わせての 《神の国について》第十三巻に即した死の問題――第一の死および第二の死の問題――の省察については ひとまづ終えることにしたいと思う。
(つづく→2007-10-07 - caguirofie071007)