caguirofie

哲学いろいろ

#151

もくじ→2005-05-13 - caguirofie

第三部 キリスト史観

第七章 《妻籠みに八重垣作る その八重垣を》

第五節b アマアガリの時間からもたらされる快活な恐れ

  • 《結婚》というA者概念および現代ではその法律となったA語が 九番目の垣根となってのように 顔蔽いとなっており これ(その一種の保証能力)によって 人は高慢となってはならず つまり自分を楽しませてはならず むしろ神に向かうことによって従順となるべきであるというように 心の内なるスガの宮としての八重垣が確かに見られるべきであり――九重ではなく 八重垣のほうが見られるべきであり―― しかもこのとき このアマアガリに阻害を与えるものは 《男(あるいは女)が 神の命令(つまりそれは 八重垣)よりも 妻(あるいは夫)の願いを大切にし たとえ罪の仲間になろうとも人生の伴侶を捨てるのは 戒めに違反する許されない行為であると考える》ことである。
  • これが だから 離婚を勧めるということにはならない。《自分を楽しませる者と呼ばれる》高ぶりに陥ることなく その八重垣の動態的な過程を 《妻あるいは夫と共に》作り見守らねばならない。これは 《謙虚でなければ》すなわち スサノヲがタカマノハラA圏を追い出されてのように あの第一の死を死ななければできないことである。光源氏はかれ自身 好色(情念のあふれる者)であろうと これを行なったと考えられる。もちろん だからと言って 《自分を楽しませる》のではなく《人を楽しませる》べきということにもならない。《妻と共に》情念の船を浮かべるべきである。

したがって 或る種の謙虚さはふしぎにも心を高め 或る種の思い上がりは心を卑しくする。思いあがりが心を卑しくし 謙虚が心を高くするとは 矛盾しているように見える。しかし敬虔を伴なう謙虚は わたしたちをいっそう高いものに服従させる。神以上に高いものはなく それゆえ わたしたちを神に服従させる謙虚は わたしたちを高くするのである。ところが 悪徳をもって高くなるならば 当然のことながら服従を軽蔑し すべてにまさって高いかたから落ちて低くなり これによって 《あなたは高くされたかれらを投げ捨てる》と書かれた言葉が成就する。これはまづかれらが高くされ 次に投げ捨てられるという意味で 《高くされたのちに》というのではなく 高くされると同時に投げ捨てられたというのである。すなわち 高くされること自体 低くされることなのである。
神の国について 14・13)

これをわたしたちは 倫理・道徳でないとは言わない。たしかに 罪を自覚させるだけの律法でしかないかも知れない。いや 神の律法だなどと言うまい。ただ 国家の〔死すなわち生への〕介入によって――そしてそれは 大和政権によって 伊勢神宮伊勢神宮として作られたときから つまり国家成立時から 介入していた その介入によって―― 罪あるいは倫理が やしろ全体の構造的なものとして 現われるようになった。また もし それでは日本に限っていう場合 千数百年もの期間を必要としたのかと言うなら そうだ つまり A者=公民 だからS者=市民といった概念もしくは存在が そのものとして認識されるために その期間を必要としたのだと言おう。そのように 罪・倫理が やしろ全体の構造的(その共犯性)となったとき このように 倫理的な表現でも いま問い求めるアマアガリの時間を思惟することは 必要であると考えられたからにすぎない。
だからもし この史観が正しいものとし ただしく史観して保たれるならば この史観を愛し 《神から人間の中へ到来し 人間に近づく》とするならば かれは この単独アマテラス者の欠陥を憎まなければならない。人間のゆえにその欠陥を愛すべきではなく 人間を愛すべく 徹底的にこの欠陥を憎まねばならない。

  • しかもわたしたちは この欠陥は 誰もが持つ罪に由来するというように 社会構造的であると言った。だから 八重垣なるやしろは――このアウグスティヌスの時代とは 本質的には 同じかたちのものとして推移し―― たとえばヘーゲルの時代には 《家族 市民社会 国家》という構図に置いて捉えられ 少なくともこのように《やしろ》が あたかも有機的であるように 拡大されて認識されるようになった。むろん このように拡大された《やしろ》が 実は現実ではない現実 つまり外なる幻想の共同性であると言ったのは マルクスその人であり またかれは その政治経済学的な論証を為した。さらにそればかりではなく この幻想共同の消滅とその一つの方途を論じた。われわれは少なくとも その同じ方向性において そうして これらの理論を内的に受け取り 内なる人および外なる人において あの欠陥を徹底的に憎んでいくべきである。まづ内的に捨ててゆくべきである。
  • それは したがって 肯定的には 《妻と共に八重垣作る》ということに 帰着してさえのように 史観を過程させるということが その船は浮かんでのごとく《情念》的にも 愛(実践)されねばならない。現代では このことが 神に向かわず 精神の外に出かけることにはならないのではないか。これらのキリスト史観の解釈を 討議すべきであると思われるのである。

唯物史観の説くように もはや 《アマテラス者は 高くされたのちに そして革命ののちに 投げ捨てられる》と外的に言おうとするのではなく 内的に革命されてのように 《高くされると同時に投げ捨てられた》という史観が 愛され いまの八重垣が 神の国を待望して忍耐強く 堅固にされるがごとく つまり言いかえると 忍耐強くあったからすでに堅固にされたゆえに あの《アマアガリなる快活な恐れ》によって 妻と共に作られることでなければならない。《高くされること自体 低くされることである》と言うからには いま 徹底的に この虚偽を憎まなければならない。《九重》の幻想が 破壊されることでなければならない。インタスサノヲイストたち 団結せよとは それがもはや外に出かけることのように見えようとも つまりこれ外に出かけてしまうことと捉えられるほど 外的な顔蔽いが――いわゆるマルクシスムの挫折ののちに――内面に滲透しているとするならば 正当にも言われるべきである。これが 人間の自分自身に向かうことによって 別種のかたちで 高慢となってしまうことであるとするならば もはや神の裁きはないと言い切っても よいと考えられるのである。こう言わないことによって 神の恵みを受けながら その自己を 個人的に 誇ることは 自分自身に向かう高慢であるといわたしたちは考えた。このような綜合(時の充満)は 現在 起こっていると言いうるのではないだろうか。

  • この原稿を書いている当時 どのようなことがあったかは知らないが 当時として こう捉えたようである。(20071013記)

(つづく→2007-10-14 - caguirofie071014)