caguirofie

哲学いろいろ

#60

もくじ→2005-05-13 - caguirofie050513

第二部 唯物史観への批判

第三章 唯物質史観に対して キリスト史観は 質料〔を共同主観する〕史観である

第六節 身体史観にとって 人間キリストという《道》が示される

ものごとの第一原理をなす神は ペルソナとしてはその御子が人間と造られるために派遣されるという・身体史観とも言うべき《道》が示されたが これは歴史的な一過程でもある。
これは 歴年で数えられる歴史でもあった。この《道》が――唯物史観の側からはまったく認められないものだとしても たといそうだとしても それが――唯物史観との根本的な違いなのである。根本質料に物質を認めたとしても われわれの史観では 道なる模範主観が人間キリストとして 第一原因をなす(ものごとの だからわれわれの 主である)神とわれわれとの仲保者であるということが すべての土台である。第一原因の問い求めは 物質を超えてここまで到達しなければならないし 物質の手前でここに史観(視点)としての土台を見なければならない。そうでなければ 何度も言うように 史観が共同主観(常識または その原理)とならず 共同客観へと上昇していくか あるいは 共同観念へとなだめられていくであろう。
共同観念は われわれがそこに寄留する一つの地上の国での土壌であった。またはわれわれが最初に巻かれたその姿であった。共同客観は これを思想・科学として 人間の用いる道具であると言いつつ 唯物史観者にとって実際には それを用いつつ 同時に それにくるまって生きるといったようなアマテラス概念の世界=中間状態なのであった。
たとえば 《神が いま存在し始めるこの樹やこの穀物の主でありたまうことは時間においても生起するのである。質料そのものはすでに存在していたとしても 質料の主であることと いま作られた本性の主であることとは 別であるから》。このように われわれガ第一原因のあり方を主張するとき 物質は これに付随するひとつの原因であるとしか思えない。なぜなら 人間は 身体・ことに脳裡において 質料(質料関係)ないし物質(その動き)を翻訳して認識すると唯物史観が主張するとき 第一原因の探求は この物質ということがらに留めるのではなく このように時間的に生起するものの主であること・今つくられたものの本性の主であることを考えたなら 物質をもそのように動かす第一原因にまで進むべきではないだろうか。人間も 樹や穀物とは別に そしてそれらに優る本性ではある。
言いかえると 物質が物質じたいとして 質料の――第一?の――原因であることと この樹や穀物の原因であることとは 別であると考えられねばならず 物質より手前に 人間ないし生物の自己自身の存在の根拠 また自然的な形態での質料資源といったものの存在の根拠を 問い求める余地は残されると考える。このような存在の根拠は 物質それじたいではなく またたとえば人間の――時間的な存在である人間の――自己自身でもあるまい。ここで 不可視的な存在 不在なものの現在としての神を想定せねばならないとは言わずとも 神と表現すべき存在を想定することは――そのような視観・視像が 人間に ふつうに与えられると考えるが―― 唯物視観の物質の想定と いま譲歩して言うならば 同様である。

  • 第一原因の問い求めに進まないばあい 言いかえると 経験的な概念である物体や心に第一原因を想定するばあいの史観について その誤謬は――第一のおよび第二の誤謬である―― すでに触れた。

したがってわれわれは 次のように主張しうる。

見よ 神は永遠に主であるのではない。そうでなければ 私たちは永遠の被造物を認めなければならないであろう。なぜなら もし被造物が永遠に奴隷として仕えるのでないなら 神は永遠に主ではないことになるであろうから。主人を持たない奴隷がありえないように 奴隷を持たない主人もありえない。そし たしかに神だけが永遠であり 時間は無常性と可変性のために永遠ではなく しかも時間は視観において存在し始めなかったと言う人があるなら

  • 時間は時間が始まる前には存在せず 神は時間において存在し始めなかった時間の主であったゆえに かれが主であることは時間において生起するのではない。

その人は 時間において創造された人間については(――そして神はたしかにその主である人間が存在する前にはかれの主でなかった――) 何と答えるであろうか。
たしかに神にとって 人間の主であることは時間から生起したのである。そしてすべての異議が取り除かれると思われるため 神が いま存在し始めた私たちの すなわち あなたqの 主 または私の 主であることは 神にとって時間から生起したのである。
〔あるいは もしこのことが魂の問題の不明瞭さのために 不確定に見えたなら 神がイスラエルの民の主であることは何であろうか。なぜなら その民が持っていた魂の本性はすでにあったとしても――このことについては今は問わない――しかも その民はまだ存在していなかったが いつ存在し始めたか 明らかであるから。〕
終わりに 神が いま存在し始めるこの樹や穀物の主でありたまうことは時間において生起するのである。質料そのものはすでに存在していたとしても 質料の主であることと いま作られた本性の主であることとは別であるから。人間も或るときには木材の主人であり 在るときには同じ木材そのものから加工されたその箱の主人である。かれが木材の主人であったときにはまだこの箱の主人ではなかった。
(三位一体論5・16〔17〕)

それとも唯物史観は 人間が自己をまだ対象化せず その自覚なしに 物質の一組織集合体として生活していた時期と これを対象化して そのように認識する時期とを分けると言うであろうか。そして人間は 自己を物質の集合から成る一個の組織体として認識し また社会的には 階級社会が揚棄されるなら 自己の主となり自由となると説くであろうか。

《神は永遠に主であるのではない》。しかも神は 神だけが 永遠であるが その御子が人間と造られたのは 歴史的な過程においてである。

とわれわれが言うのと 上の唯物史観とは どちらが先かは別として 《栄光から栄光へ》または《前史から本史へ》といったその過程的な展開として 互いによく符合するようにも思われる。しかし 人間が神を知ることおよびその御子が人間に造られたと信じることが(これらは 時間的に生起するが)――たしかに新しいかたちの栄光は 将来の栄光であtって いまはそのまま見ているわけではないが―― この今 予感するようにして可感的にも受け取られないということがあるであろうか。言いかえると そのような共同主観(その生起)は 階級社会の揚棄を俟って自由となるというそのような言わば客観挙動といった社会的諸関係の総体(そういう視点)へ 還元されて(あるいは拡大されて)いなければ 現実でないと言うであろうか。
いま仮りに 物質が 第一原因であって それは永遠であるとせよ。この物質の運動によって やがていづれはコミュニスム社会が実現されるのだとせよ。もしこのコミュニスム社会が 唯物史観者の目的であるとするなら このコミュニスム社会の像は どこから採って来たのか。時間的にして有限なる存在の人間と作る質料に その永遠性が反映し その中に目的たるコミュニスム社会の像が映ったというのであろうか。だから 仮りにそうであるとすらなら それは ほかならなぬただ今の各自の主観そしてその共同化ではなかったのか。しかし コミュニスム社会は 目的であるとか理想であるとかではないとマルクスは言う。誰が 唯物史観を語って 上のように 史観を間延びさせたのか。あるいは単に精神的な客観共同(主観ないし身体の放棄としての客観共同)へとみちびくのか。
もしマルクスにも非があるとするなら それはかれが 主観がただ今 原主観にとどまることによるかたちでの自由――単純に 存在することが生きることという原主観にとどまることによるだけの自由――そのような精神の滞留における場合にもあると捉える自由 この自由を 必ずしも明らかにし得なかった その配慮が足りなかったと言うべきではないか。
だから 《栄光から栄光へ》わたしたちが変えられることは このひとつの生涯の期間内に しかもおのおのの主観の内において だから身体としても 予感しつつ可感的にも受けとられるようにして 生起すると考えられたのである。
(つづく→2007-07-15 - caguirofie070715)