caguirofie

哲学いろいろ

#59

もくじ→2005-05-13 - caguirofie050513

第二部 唯物史観への批判

第三章 唯物質史観に対して キリスト史観は 質料〔を共同主観する〕史観である

第五節b キリスト史観は 質料史観として むしろ身体(つまり質料)史観である

したがって 〔人間の史観にとって土台である〕御子は そこから発耀するそのお方(神なる光輝のみなもと)から派遣されたのである。それは 知恵を愛し切望した人から そのように需められたからである。

  • この御子は アマテラス概念・理念(イデー)などではなく 一人の身体を伴なった主観としての人間であり またそれは 共同客観などでもない。上の文章で始めて 次のように この史観である人間キリストは 捉えられる。

《あなたの聖なる天から知恵を遣わしたまえ。そして私と共にあり 私と労するようにあなたの偉大な御座から遣わしたまえ》(知恵の書9:10)と言われる。これは 私が労苦しないように労苦することを教えたまえ ということである。なぜなら知恵なる御子の労働は力であるから。しかし かれが〔このように旧約において〕人間と共にあるように遣わされることと かれ自身が人間であるように遣わされることは別である。
《かれは聖なる魂の中へ入って それを神の友 預言者となしたまうた》《知恵の書7:27)。これは ちょうど神の知恵が聖なる天使たちを満たし かれらをとおしてこのような奉仕に相応したすべてのことを働くようにである。しかし 御子は時の充満が訪れるとき 遣わされたのである(ガラテア書4:4)。しかしその派遣は天使たちを満たすためではなく また天使であるためでもなく ただ御自身のものでもあった父の御心を告知するためであった。また御子は人間たちと共に・あるいは人間たちの中に在るためではなく――これは先に〔旧約の〕父祖たちや預言者たちにおいて生起したのであるが―― 御言ご自身が肉と成る すなわち 人間と成るために派遣されたのである。

  • さらにつづいて

また それは将来する秘蹟が示されたとき 御子が処女マリアから生まれる以前に 女たちから生まれたあの賢い人びとの救いであり また 為されたことを宣べ伝えられたことにおいて 信ずる人 望む人 愛する人すべての救いとなるためである。このことつまり 《キリストは肉において現わされ 霊において義とされ 御使いたちに現われ 諸々の国人の中に宣べ伝えられ世界の中で信じられ 栄光のうちに高挙されたという敬虔の偉(おお)いなる秘蹟である。

  • と解せられる。

(三位一体論4・20〔27〕)

われわれの史観は 当然のごとく質料史観としても この土台を除いて形成されるとは思ってはならないということには この道は わたしたちにとって はなはだ遠くかけ離れた模範なのであるが そこに筋のつけられた道なのであり かれはしかも 《この土台じしんから派遣された道》なのであり 《しかしその派遣は 天使たちを満たすためではなく また天使であるためでもなく ただご自身のものでもあった父の御心を告知するためであった》と言われ これが われわれにとってその質料史観そのものなのである。マルクスの心は この《御心の告知》にあり その証言にあり これを 商品世界の歴史的な過程の研究において検証したとさえ言うことができる。われわれは 神の存在を証明しようというのではなく このように神という語を用いて表現することが 共同主観(これはしかし神から来る)〔の滞留〕の確認には より一層ふさわしいと考えるのである。
これを身体史観の原理であると考える。もしそうでないときには現実の質料関係を われわれは 絶え間なく あたかも条件反射のようにいじくっていなければならないであろう。または 客観的な精神ないし共同客観に 逃れなければならないであろう。しかし自由はこの両者いづれにもない。
さらにこれらのことは 旧約の時代におけるように――そしてそれはたとえば 《嫉む神》と言われるように 神の家の中の人びとが互いに〔身体の運動(一般に欲望)をつうじて〕嫉み合うことだが―― 《私が労苦しないように労苦することを教えたまえ》というための道ではない。そこでの派遣は かれが人間とともにあるように遣わされたのである。ここでは かれ自身が人間であるように だから人間にとて道であるように 遣わされたのである。

  • 《道》とは 分裂・断絶ではない。一本のつながって道である。また 各自の身体・主観においてそれぞれつながった道であり 共同客観でもなければ 主観が客観そのものになることを要請するものでもない。

すなわち われわれの模範史観は 《御言ご自身が肉と成る すなわち人間と成るために派遣されたのである》。人間が 異和と社会的な矛盾に打ちのめされ――異和を観念和へと変えるべくなだめられそうになるとき―― すなわち 自由への道を阻まれるとき 一方で共同観念的な身体共同和のなれあい自由に逃れたり 他方で客観共同のいわゆる精神的な自由に逃れたりして この真理からもたらされる自由に絶望することのないように 《かれが肉となる すなわち人間となるために派遣されたのである》。そういう質料史観・身体史観なのである。これは 質料史観として正しく人間が その高ぶりの膨張から解放されるための《敬虔の偉いなる秘蹟なのである》。
しかし誰が愚かにも この視像に 滞留するのではなく この視像じたいに いわゆる宗教的に 固着するであろうか。この視像・視観またその知解・思惟は ただ人間の力によって明らかにされた人間の有である。人間の自己認識として 人間という神の似像であることの了解であるかも知れないが われわれは これを似像つまりはなはだしく不類似な類似と捉えるのであって またわれわれは 神すなわちその御子をとおして神ご自身に 固着するのである。神は不可視的であるから また御子キリストはすでに人間としてはこの世に居られずわれわれはもはや かれを見ることはできないから この信仰による固着はそしてまたこの共同主観は いわゆる宗教になりえないのである。またもし 或る人が このように説き明かすことが 宗教ではないかと問い返すとするなら われわれはそのことを否定するというのではなく かれもこの信仰を 共同主観としてのごとく たしかに了解したではないかと答えなければならない。何を説き明かしているか その内容を理解しないで かれも批判することはないであろうから。 
この《父の御心 つまり ご自分のものでもあった神の計画》を告知するために この新約の派遣は為されたのである。この道は われわれ人間も それに固着しつつ 新しく着ることを望んでいる道なのであるからには われわれ人間がこの告知者となる(そのわざを嗣ぐ)かたちが 新しい共同主観者の世界なのである。それはそのまま 質料史観を形成していなければならないし かれが肉と造られたがゆえの人間としての質料史観・身体史観である。《父の御心 神の計画》が 時間的存在である人間にとって そのまま歴史過程的でないとは言えない。だからそのままそれは 史観なのである。この霊的な共同主観は 質料史観の原理なのである。ここから 既存の共同主観形態の再編成も 必要に応じて歴史的に 為されてゆくであろうというふうに考えざるを得ない。
人間キリスト・イエスの派遣は 歴史的な原理であり 同時に事実である。この理性的にして歴史的な或る望楼にわれわれはまづ立たなければいけない。しかも この理性の望楼をとおしてただ展望するというようにではなく――共同客観は これをおこなうが そうではなく―― この望楼をとおして 模範主観に固着しつつ 自己がただいま史観と成ることへの主観形成を果たしていかなければいけない。質料関係の現実から自己が圧迫され 自己の身体の限界を見るときに この身体(質料組織)をかのお方の史観と為すのである。すでにこの模範は 歴史的な原理であり事実であると知ったゆえに。すでにそこに道はつけられていると知ったゆえに。われわれの共同主観は この方向において岩の上に立つごとく堅固にされる。また このようにきわめて安全なかたちで堅固にされるという以外に あの派遣の道は示されなかった。キリスト史観は このような質料史観=身体史観であると考えられた。
(つづく→2007-07-14 - caguirofie070714)