caguirofie

哲学いろいろ

#58

もくじ→2005-05-13 - caguirofie050513

第二部 唯物史観への批判

第三章 唯物質史観に対して キリスト史観は 質料〔を共同主観する〕史観である

第五節a キリスト史観は 質料史観として むしろ身体(つまり質料)史観である

質料を 質料としての商品と解するならば この商品の生産され流通する社会的な動態ないし機構を 史観として共同主観しなければならない。それは そもそも 原形的に ある一定の二角協働の関係において 商品を生産するにせよ それを販売するにせよ その他の職務に従事するにせよ 一般に給与といった報酬をも介した質料関係への共同主観の一定の形態のことである。現に これにかんしてキャピタリスム共同主観が存在し またソシアリスムのそれが他方で試みられており あるいは いづれにしても さらに新しいかたちの共同主観が考え出され それへと移ってゆくかも知れない。対関係(家庭)が この中で生活していないとも言えないものであるし 質料史観は当然のごとく このような社会経済的な質料関係への共同主観(その認識と実践)を要請するであろう。
しかし今 わたしたちは この作業にとりかかろうとは思わない。それは 一言でいえば 国家形態の歴史的な移行が 共同主観にとって第二次・第三次の施策としての過程であったように 史観は 質料史観としても 上のことを第一次的に要請していないと――そのような基本的な観点についても 繰り返し滞留しつつ――言わなければならないからである。基本的に言って 市場に出回るものは いちいち良心に問わなくとも 食べればよいのであって(――罪の共同自治は 共同観念統治の中にあっても その限りで倫理的に 為されているというまづその土壌にかんする認識に立つことも必要なのであって――) 質料史観の第一義は この商品体系の知解と愛の行為の中にはないと考えたほうがよいからである。

  • 商品体系の知解・その歴史的で原理的に近い知解に 質料史観の愛(実践)を問い求めていったと思われるマルクスの代表作《資本》は このような知解作業とその成果への愛(施策化)が 回りまわって 第一義となるのであると言ったとしても このかれの業績を貶めたことにはならないであろう。この施策化を次のようなところにまづ われわれは問い求めた。実際に言って 《資本 Das Kapital 》という著作はその全体の精神から見て この商品関係の世界の中で 個々の人間があの異和を孕んだ原主観の正しい問い求めを為すための前提的な思索と研究を 提出している。それは 第一義に 神との和解なのであって これをはづしては 唯物史観は成り立たないと言っても 言い過ぎではないであろう。商品体系という共同観念世界なる鏡をとおして 神すなわち不可視的なその第一原因を観想するための思索の書なのであると。

シアリスムもしくはキャピタリスムの共同主観が もし新しい何らかの第三の形態へ移り変わるものとするとしても 共同主観の系譜から言っても このような原理的な質料史観においてなおはじめに捉えることは 無益でも不適当でもないとわれわれは 知ったからである。
主観の自己形成は ただいまの質料関係が 旧い既存の共同主観形態として かれの共同主観の生きようとする道を圧迫するものであったとしても そこで それじたいが・つまり主観形成が 行なわれ得ないというものではないと考えねばならない。むしろそのようなj第に 共同主観は ただしく質料史観として 現実に 自己形成の道を歩むというほうが 道理にかなっている。初発のキャピタリストや初発のソシアリストらもかれら自身 そのようにむしろS圏にとどまりS圏にとどまった者として あたらしい共同主観者の道を用意したと言うほうがただしいと思われる。しかもおそらくは 来たるべき・もしくは将来すべき共同主観形態があるとするなら その来たるべきものの新しいかたちは はじめに現実の質料関係を 制度的に 共同主観するという形式においてではなく この社会経済制度的な共同主観形態を 史観としては しかも質料史観としても 第二次的な自己形成の過程とする・かつその第一次的な自己形成を社会的なかたちにおいて形成するものとなるであろうと捉えられるゆえにである。
むろん これがもし 心の場における自己形成に満足するというかたちでないとすると なおこの形式を たしかに唯物史観も保ちその過程を歩んでいるとさえ思われるとも言わなければならない。たとえばマルクスじしん そういう人であったと考えられる。すでに述べたように その膨大な政治経済学の批判体系も このような共同主観の形成過程の顕揚にこそあったと考えられる。
われわれはなお この原理的な道行きを問い求めてゆこうとする。マルクスの・先に言った顕揚するところのものを なおそのものにおいて――なぜなら精神は滞留するからであるが――明らかにしてゆきたいと考える。また かれを継承すると主張する(あるいは そうでなくとも いろんな形での)唯物史観に対して 批判もしなければならないと考えるからである。マルクスは その初期には この共同主観じたいの考察行なっているが それが正しく滞留して前進するという主観の――主観の――自己形成としては いまだ明確にされていないと考えるからである。(この点については 第四部のあとの補論を参照されよ)。
言いかえると 史観は 質料史観としても 主観の自己形成の過程を離れてはなく むしろ主観の自己形成が 史観そのものとなると主張するがゆえに それが自己の内なる質料史観として形成されなければならない。そうでなければ 精神において形相をとおして 質料関係の第一原因を観想し これに固着しようとする意味がない。また 意味ということじたいの意味がない。そして この第一原因・模範主観に固着するとき たといその結果が 現実の質料関係(二角協働の支配関係)に何の働きかけも成し得ないといった一つの局面での判断に導かれようとも つまりそのように身体の運動の限界という結論に導かれようとも これがむしろ 真正な質料史観の一つのかたちであるとスサノヲイストとして共同主観するまでに 自己が史観となることは 有益であると考えなければならない。通俗的に言って ここまで降りてゆくことは 必要であると考える。そのような――あるいはそうではなく むしろ現実への働きかけがその結論である場合にも同じく そのような――むしろ霊的な(ただいま自由な)共同主観が まづ事の現実であると考えるところまで 新しい時代を形成するにあたっては 行きつくことが必要なことであると考えるのである。
もし唯ぶち史観がこのことを捉えず(つまり むしろ第二次的なものとして 各自の判断・過程に任せ あるいは任せることは事の本質であろうので 働きかけとそうでない自由とを分離させ) 現実の質料関係過程への働きかけを 第一義的な主観形成そのものと見なすならば それは 主観の外的な形成 そしてむしろ主観の放棄であると考えたのである。
そこで 主観の自己形成は 土台を捉えることと 土台はわれわれと如何なる関係にあるかを捉えること これがなお 必須の課題である。それは ほかならぬこの土台が 肉と造られたということ すなわち身体を持った人間としての史観の模範であるということは それが 取りも直さず 質料史観の原点であることを物語っているからである。もし 唯物史観の主観が いわゆる商品世界の認識という客観を求め この客観(それは アマテラス語によるアマテラス概念である)そのものを主観行為とするとすれば たといこの客観が 外なる質料関係と内なる身体という質料組織から成る主観(また主観関係)の忠実な反映であるとしても この客観を実践するところに 自由はないであろう。なぜなら それは アマテラス概念という精神の・しかも一個の個体の主観の精神のみの 客観的自由を 知解することはできても このただいまの主観の身体 これを――または この身体の運動の自由を―― 置き去りにして忘れてしまっているか または そのように分離してしまっているからである。つまり 忠実な反映は 実は 反映そのもの・すなわちアマテラス概念としてのみ捉えられ そう思いなすことになる。
わたしたちは 人間の尺度で考えられた客観的な精神に身体が いともたやすく 属いてゆき 自由になるとは思っていない。また そうでないからこそ かれらは この客観的な精神を問い求めたのである。しかし霊的な共同主観は――マルクス自身もこれを見ようとしていたと思われるが これは――客観的な精神・アマテラス概念(思想・科学)をもその身体の運動とともに それぞれ用いるのである。むろん 唯物史観者の或る人びとは 思想・科学は道具であって 人間の主観が この思想や科学という客観になることではないと 同じように言うであろう。しかしながら――または そうであるからこそ―― わたしたちは 各自の身体の運動とともなる共同主観を形成してゆくと言うのであるが この過程的な共同主観形成(それは 滞留もする)の実態を明らかにする(人間の有とする)ことも いまここに求められると考えるのである。
それは 土台・第一原因の問い求め かれとわれわれとの関係の問い求めに あることでなければならない。このことは 一方で 信教の自由というとき このわたしたちの言う共同主観は 漠然とした・たしかに各自の判断に任せるべき性質のものであるし またそうあるべきだと考えられ 同じく他方で 信教の自由のもとにおいてであるからこそ――あの第三の共同主観を問い求めようとする場合には―― それを 生きたものとして史観し主観共同化することも 同等に必要と見なされる性質のものであると考えた。なぜなら わたしたちの問い求めるものは 共同客観ではなく 共同主観だからである。ここで 質料史観は――商品体系史観にゆく前に―― むしろ身体史観として 考察されるべきと考えられるのである。もっと言うならば 共同主観にとって 商品世界の認識といった理論体系はどうでもよいものであり(だから それを用いるべきものとして 必要であり) 身体史観の確立とともに 尋究されて用いられると考えられる。ここでは 身体史観がすでに確立されたかどうかが 問題である。
(つづく→2007-07-13 - caguirofie070713)