caguirofie

哲学いろいろ

#57

もくじ→2005-05-13 - caguirofie050513

第二部 唯物史観への批判

第三章 唯物質史観に対して キリスト史観は 質料〔を共同主観する〕史観である

第四節 キリスト史観は 人間がその告知者(史観)である

しかし・・・同じ物体的質料から成るのであるが 私たちの感覚に或る神的なことを告知するためにもたらされる他の種類の現象がある。それらは固有な意味で不思議な業 徴(しる)しと言われる。しかし主なる神によって私たちに告知される このすべての現象においても神ご自身の名が知られるのではない。神ご自身の名が知られるとき それは或るときには御使い(アマテラス概念)において示され 或るときには御使いによって備えられ奉仕されるが御使いではない姿において示されるのである。また御使いではない姿において神ご自身の御名が知らされるときも その姿は或るときには すでに物体として存在していて このことを示すために或る変化が与えられて用いられ 或るときには この必要なことのために出現し そのことが成し遂げられるやいなや再び取り去られる。
(三位一体論 3・10〔19〕)

というように。
これは《不思議な業・徴し》についてであるが あたかもこれを 大きなきっかけとするようにして いま質料史観は われわれの内において形成されてゆくのである。まさか 仕事をしている最中に 御使いの姿によってにしろ そうでない姿においてにしろ この質料史観が告知されるものではないかも知れない。そうであるかも知れない。またそれは一般に 独りいるとき 共同主観夢において現われる。しかも 現実の家庭(対関係)においてにしろ仕事(協働二角関係)においてにしろ 概念をとおしてであれ・あるいは〔概念に奉仕されたかたちの〕むしろ物体の姿をとおしてであれ この質料史観が いやもっと正確には かのお方の名が われわれ〔の主観〕に 告知されるのである。(その前には たしかに歴史的に 宣教の時代があった)。
この告知を錯覚と錯覚してはならない。これがなければ キリスト史観はすべてむなしいのである。また 質料に対する史観もすべてただ人間的な尺度で測られた経験法則のみが支配することになってしまう。人は 経験法則ですくわれるのではなく 経験法則はただこれを用いて質料を加工したり管理したりするにすぎない。ただいまの暗闇に惑わされて この光の告知を錯覚してはならない。試練の火をくぐり抜けて 史観の告知を受けとるのであり――悪魔の変身した光の天使にも遭遇しうるから《試練》であり―― この史観は いまここでは つねに〔こころの場をとおすも〕質料に対する共同主観なのであると悟らなければならない。自己は あるいは他者は そのように 現実において 身体として 物理的に だから ものを介してその質料の経営行為として 互いの主観共同化を行なうという世界にある。

  • 唯物史観は 大筋において このことを証言した。ただ これのみだと言い切るときには それは 霊的な共同主観化(神の国)を 否認しているというよりは 裏返して肯定している。

善き意志〔の共同〕によって 一つの過程において一定の秩序が形成されたならば そのとき 心が喜ぶのである。心がそれまで 質料の処理(平等なる差別体系過程)に気遣わなかったわけではないから。しかしこれもあれもすべて あの告知が経験法則を超えてもたらされるとき(――言いかえると人が この経験法則を用いうる力と視点とを与えられたとき――) 主観形成に休息が与えられるごとく 心が憩うのである。《雪の降る夜は 楽しいペチカ・・・》とは ペチカという質料が楽しいものなのではなく これを取り囲む人びとの心が楽しむのである。
このように共同主観は 史観としては 質料を介して 日から日へわれわれの自己が変えられてゆくその過程なのである。その一日が 夜へは渡されずに 新しい朝を迎えるという保証は 共同主観夢の告知がこれを行なうという手筈である。神の国はここから生起する。

  • 唯物史観が もし――もし――心を否定しているとするならば 言いかえると 観念論・唯心論を 部分的な人間の自己認識だとして退けるだけではなく 質料に対する心さえも否定しているとするならば それは 大筋において共同主観夢と同じでありつつ しかも この共同主観夢にいまだ到達しえないところの ただ共同観念夢の中からの《叫び》であるにすぎないと考えて おしえてあげなければいけない。叫びは 或る種 魂の死から生じるが キリスト者も そしてほかならぬイエス・キリストその人も 魂の死(――《わが神 わが神 なにゆえわれを見捨てたまいしや》――)を 通過したということを 生きて史観しつつ あらわしてあげなければいけない。これを成就させたまうのは 神である。それが 信教・良心・思想・表現の自由である。

人間が告知者であるときも あるときには《主は語られる》とか 《主はこう言われる》(エレミヤ書31:1−2)と前置きされるように 自分の人格から神の言葉を語る。また 或るときには このような前置きなくして 《私はあなたに会得を与え あなたの行くべき道にあなたを置くであろう》(詩編31:8)とあるように 神の御名そのものを受け取る。・・・
しかしこれらのことは 人間をとおしてなされたゆえに 人間に知られている。だから 人間はこれらのことを敬虔なもののように崇めることは出来るが 不思議な現象のように驚異することは出来ない。したがって 天使たちによってなされる(告知される)ものは より困難なことであり より知られていないから 私たちにとってより不思議である。・・・天使の行為と人間の行為の間には大きな相違がある。前者は驚異すべきことであると共に知解すべきことであるが 後者はただ知解すべきことである。しかしこの両者から知解されるのはおそらく一つのことであろう。そこから知解されることは ちょうど主の名が金やインクで書かれたように異なるのである。前者はより高価であり 後者は価値がより少ない。しかも両者において意味表示されるものは同一のことである。
(三位一体論3・10〔19−20〕)

しかしこのときも 善き意志の天使たちによって告知されるもののみが 重要であって わたしたちは もろもろの物体的なものが《背反した天使たちに仕えるべきだと思ってはならない》。だから 共同主観の興隆には その新しい時代に応じた学問(科学の眼)が必要なのである。新しい市民の諸科学が必要であるというとき それは当然のごとく 質料にかんする学問であり 質料関係を経営する学問である。キリスト史観を 信仰の世界ないしはては宗教活動といった空想の世界に閉じ込めてはならない。近代市民・キャピタリストらの科学も また唯物史観の科学も そうはしなかった。またはその危険をいくらかは孕みつつの同様の過程をたどったと考えられている点においてである。

  • だから 共同主観の正しい・正しくないは ちょうど時の充満を俟つといってのごとく 時代の新旧(あるいは自由・不自由)のちがいによる。学問が その方法が そのようにして むろんなお継承されていくことは 論を俟たない。

また 主あるいは聖霊があの物体的なかたちで示されたとしても 御使いたちは告知したものを意味表示するためあの雲や火を どのように作り また採用したのであろうかということを 人間の中で誰が知り得ようか。・・・御使いたちが この不思議なことをどのようになすのか いな むしろ神がこれらのことをその御使いたちをとおしてどのようになしたまうのか 神は悪しき天使をとおしてさえ なされることをどこまで欲したまうのか 許可によってであろうか 命令によってであろうか 強制によってであろうか かれのいと高き至権の隠れた御座からであろうか。このような事柄を 私は眼の尖端によって見分けることも 理性の確信によって明らかにすることも 精神の前進によって把握することも出来ないのである。・・・
だから 私たちは天にあるものを探索しない。・・・
それだから 神の実体 あるいはもっとよく言われるなら 神の本質は――そこに私たちの分限によってほんのわずかながらも御父と御子と聖霊を知解するのである―― 決して可変的ではないので また決してご自身において可視的ではありえない。
したがって 神が時に適しいかれの計画によって示現されたとき 〔旧約の〕父祖たちに見えたすべてのことが被造物(ないし質料)をとおして為されたことは明らかである。・・・



さて 新約の秩序が 時代や時期のそれぞれの特有性によって 旧約の秩序から区別されている《ヘブル書》では あの可視的な不思議なものだけでなく神の言葉そのものも御使いによってなされたということは極めて明らかに書かれている。すなわち 

神は御使いたちの誰に あなたの敵をあなたの足台に置くまでは 私の右に坐していなさい と言われたであろうか。御使いたちはみな仕える霊であり 救いを嗣業として所有するであろう人びとのために仕えるように遣わされたのではないか。
(ヘブル書1:13−14)

ここでこの手紙の筆者はあのすべての不思議な業は御使いによって為された ということだけではなく 私たちのため つまり 永遠の生命の嗣業が約束されている神の民のためにも為されたことを示している。・・・また あたかも君が救いとは何かと問い求めるように 今は新約について すなわち 御使いたちによってではなく 主によって語られた御言葉について語っていることを示すために 

この救いは主によって宣言されるようにして始まり それを聞いた人びとから私たちの中に確証された。神の徴しと不思議な業とさまざまな力によって また御旨による聖霊の〔わたしたちへの〕分与によって 共に証しされたのである。
(ヘブル書2:4)

(三位一体論3・10−11〔21−22〕)

長々と引用したのは 次の諸点を確認するためである。
(1)物体的な質料を介して あたかも共同主観夢といったかたちの中に そのこと・つまり共同主観は 告知される。
(2)この告知の天的な仕組みを捉えることは われわれには不可能である。(神の計画がそれであり それは神の愛であると その告知が現実であるなら 語るほかない)。
(3)だから再び述べれば すべて被造物をとおして また物体的な質料を介して 可視的・可感的にこそ 告知されるのである。
(4)人間によって告知されるばあいとはちがって 或る不思議なわざによって告知されるばあいは 天使たちによってそれが為されたのである。(しかし両者は 同じものを意味表示している)。
(5)しかし 新約の時代は 天使たちによってわざが為されたというだけではなく わたしたち神の国を嗣ぐ人間のために為されたということが示された。
(6)それは 天使たちによってではなく 《〔この救いは〕主によって宣言されるようにして始まり これを聞いた人びとから私たちの中に確証された》。
(7)すなわち 人間キリストを長子とする人間のともがらによって嗣がれることのために この人間のために共同主観夢が用意されているのである。
(8)この共同主観は 人間のうちに滞留することはあっても 永遠の生命の嗣業が約束さているというほどに 人間の自己にとって 切っても切れないもの 離しても離れない史観なのである。


これ以上のことがらは それを述べると 読者を子供として見下すことになるので 控えざるを得ない。しかしいま言えることは ここで控えざるを得ないほど この主観は 単なる知解の産物であるのではなく 生きた主観だということである。これを 神が《許可によってであるか 命令によってであるか それとも強制によってであるか あるいは かれのいと高き至権の隠れた御座からであろうか 私に告知したまうのかは 私は明らかにすることも出来ない》というほどに それは 可視的ではなく 同じくそう言うほどに 共同化されてよい理性的な史観であると断言する人があっても不思議ではないであろう。
(つづく→2007-07-12 - caguirofie070712)