caguirofie

哲学いろいろ

#69

もくじ→2005-05-13 - caguirofie050513

第二部 唯物史観への批判

第五章 理論としてのキリスト史観(1――その前提)

第五節 本書でアウグスティヌスを引くことは 理論としての史観への導入における例示である

これまでわたしは アウグスティヌスに拠りかれを引用して来ました。かれ自身は聖徒として 復活が成ったことと察せられます。しかしもし仮りにわたしの主観形成の中で このかれの復活がいま一度 確認されたとするなら それは望外の喜びです。このわたしの側の成否は別として ですから かれは四世紀から五世紀へかけての人であり これまでにもその後の各時代において そのそれぞれの共同主観にもとづき かれアウグスティヌスの時代の共同主観が検討され語られてきたわけですが このように史観の神学的な考察が 各時代に応じて継承されることは 当然のごとくキリスト史観 いや広く史観の理論(観想)的検討の例示であります。そしてただ 問題はこの第五章以下では 具体的な共同観念現実とのかかわりにおける共同主観の歴史的な系譜 これを明らかにするちということにあるわけでした。
この小著ではもはや最後までに この作業そのものに取り掛かることは困難だと思います。別の機会または別の適任者らに譲らなければなりません。そこでこの第五章でさらに残された問題としては これまで述べた理論にかんする基本的な性格をさらに具体的に 一つの例として説き明かすことにあります。これを 共同主観の系譜の中にアウグスティヌスという先人を取り上げ 行なうことにします。すなわち言いかえると わたしがこれまでに為してきた考察が それであるにほかならず この考察の性格を合わせて どのようなものであったか 例示してみたいと思うことです。事の実態として そのようなことになると思います。


さて 過去の共同主観形態の検討の中に その時代の死者が復活してくるということは つねに現在する主観において 或る不在なものの現在がやってくる・ないし見通されるということでもありました。
不在なものが現在して われわれの主観に到来するということは――あの共同主観夢にかんれんして考察したごとく―― この意味で 各世代・各時代を超えて 人間の或る存在の根拠であるいのちが 永遠として観想されるということにほかなりません。この観想が自己のもとにとどまるならば それは理論(観想)を超えて もしくは理論以前に 自己という存在が そのような自由に裏打ちされていることにほかならなかった。このことは 或る試練の火をくぐり抜けてのように 自己の主観に――予感しつつ受け取るようなものであったとしても そのように――可感的にも(だから 質料的・身体的に) たしかに到来するという現実の現実であるものでもありました。
これはまた 信仰によっては 将来の栄光(共同主観の《かれ》における完成)として捉えられるものではあるが この《将来の》という一条件は この朽ちるべき身体による悲惨を伴なった生においても 《現在する将来の》というものであると言わざるを得なかった視点でもありました。言いかえると 《将来の》とは いまの世代・時代を未来へ向けて超えることによって 社会的な質料関係の次元で将来すべきという意味ではなく あくまで主観にいま到来して将来の栄光として(不可視であっても 予感しつつ可感的に)現在するということであるにほかなりませんでした。
この間の事情を再度 アウグスティヌスに拠って確認しておくとすれば 次の文章がよりふさわしいものと思われます。

キリスト者は誰も疑わないのであるが 私たちはたしかに 魂と身体において死んでいるのだ。つまり 魂においてとは罪のためであり 身体においてとは罪の罰のため したがって身体において というのも結局は罪のためである。

  • だから 現在して到来する将来の栄光であるにほかなりません。それは この死において 共同観念的な罪の共同自治という外なる観念共同和に栄光を見るのでないから 将来のであり かつこの共同観念に寄留している主観=わたしが それを見るから 現在して到来する であります。

私たちはこの両者・すなわち 魂と身体にとって より悪しきものへ変えられたものが より善いものへ新しくされるためには 医薬と回復(試練の火とそこをくぐり抜けてのすくいという不在の現在)が必要であった。ところが 魂の死とは不敬虔のことであり

  • 存在の根拠に固着しないことは 不敬虔ということばで表わされます。

身体の死とは 魂を身体から分離させる壊敗性のことである。

  • 共同観念へとなだめられた眠りという現実は このような身体共同夢となった・壊敗すべき共同自治の世界です。

魂は神を棄てることによって死ぬように 身体は魂を捨てることによって死ぬ。

  • つまり 朝または昼または夕の世界に対して 一般に人間の理性の薄暮が眠りに就かせられる夜の世界をともなうことになる。

そこで 魂は愚かなものとなり

  • 夜の世界は それとして存在するというよりは 昼の不在・欠如としてあり これは 人間の知によって捉えられるというよりは その無知によって――知の欠如によって――知られるようになる。(!!??)

身体は生命を失う。

  • 主観的ないのちの永遠性をではなく ただ歴史が 一つの民族ないし類として連なるという意味での世代の連結というところに永続性を見るようになる。

しかし 魂は悔悛によって蘇生し

  • 共同主観夢の或る日 到来することによってこれへと導かれる。それは人間が涙して帰郷すること・または帰郷の道を見出す火の試練に出会うことによってである。

そしてまだ可死的な身体において 生命の更新が 不敬虔な者(第一のアダムの徒)を義(自由)と死たまうお方(第二のアダム)を信ずる信仰によって始められる。それは内なる人が 〔その主観において〕いよいよ新しくされるとき 日ごとに善き行為(形式。朝つまり共同主観を見出すこと)によって増し加わり 強められるのである。

  • 不在なものの現在をそのように受け取ってゆくことになります。

だが 身体は外なる人として この生が長く続けばつづくほど いよいよ年齢や病気やまた種々の苦悩によって誰もが死と称する終局に至るまでは壊敗されるのである。しかしその復活は終末 つまり私たちの義認が言い表わし難い仕方で完成されるときまで延期される。かの時には 私たちは御子に似るものとなるであろう。私たちはかれの真の姿を見まつるであろうからである。しかし今は 壊敗する身体が魂を重くしている限り 人間の地上の生命は試練そのものに他ならず 私たちを天使に等しくするであろう義と私たちの裡に啓示されるであろう栄光に比較しては 生けるものはすべてかれの御前に義とされないであろう。
(三位一体論 4・3〔5〕)

したがって 外なる人 主観の外に 質料関係(社会的な支配関係)にのみ この将来の栄光を帰するのではなく 自由の力がいま内なる人に与えられるというところから すべて出発すべきであるというのでした。そうでなければ このように語ったアウグスティヌスの復活はかなわないでしょうし 共同主観は永遠のいのちとして わたしたちの内に宿ることもかなわないことになるでしょう。この強弁は 主観そのものを誇るためにではなく 主観の外に人間は 自己の知解・愛として だから他者の知解・愛として 出かけてはならない。だから 外なる人または質料関係は 内なる史観においてこれを捉え むしろ主導す用いるという共同主観が打ち立てられることを忍耐して待ち望んでいると言おうということにほかならない。
この点は それを直接に 主観する・史観するというかたちでさえよいものと考えられるのです。この弱さは 誇るなら誇ってもよいとされるものだと考えます。だから強弁します。共同主観の系譜は ここに生きて永遠となるとさえ見るゆえにです。唯物史観がもし この内なる史観の滞留を 単に空想であるとか観念論であるとしか見ず あるいはいま それは分かった しかし 社会的な質料関係が大事であると言って 外なる人にも 別個にと言ってのように 同等の比重を置く理論と実践のみが 共同主観であると言うとするなら それは 寄留を放棄している。
寄留し滞留するから 社会的な質料関係にも向かおうと言うのであって 寄留や滞留はもういいと言ってのように 質料関係の現実の第一原因を物質であると 史観し理論するならば すでにそのこと自体において それを空想と言わないとしても 主観の外に主観を つまり 客観という主観を 探し出そうといている。かれらは いくらかは共同主観の系譜において あの共同観念夢の現実に対して 自分たちは独立したと考え しかし そのように別種のだがほぼ同じ種類の身体共同夢の中に入ってゆくことになる。だから これがむしろ 人間の知解行為能力に寄り頼んだ《自由》の強弁であると見なければならないのです。
これは――このような微妙な差異は―― 共同主観の系譜においては 死者が復活してくる。つまり マルクスの理論が世代・時代を超えて生きつづける(それが あってもよいが)というのではなく 死者となったマルクスその人が 現在して復活してくるという史観によらなければ あの望楼に立った自由史観は 獲得されないという理由によるものと考えます。かれらは 史観における〔理論的なでよい〕滞留をなすというよりは 理論そのものにおける滞留を 実は――もう一度くり返すなら 人間としての・主観の生きた史観としての滞留ではなく あたかもわれわれがキリストとの正しい関係を問い求めるというように―― マルクスレーニンやそれぞれその人との関係において 為している結果となる。これはどういうことを意味するか。
たしかにかれらも このことによって マルクスその人の復活を あれこれの形で 主観している。しかもこれを 史観においてではなく理論において為しているという一つの主観の構造を表わしている。それはどういうことを意味するのか。
主観は 史観として共同主観であったものを 理論という客観共同に委ねてゆく。このことでなければならないでしょう。われわれが誇るには キリストという模範主観であり もし自分自身について誇るのなら 滞留するその弱さを誇る。しかしかれらは 唯物史観という言わば模範客観を誇り もし自分自身について誇るのなら 模範客観の祖としてのマルクスその人を誇る〔そうして 自己の弱さをたしかに認識する〕。この後者では 主観 史観としての主観がすり抜けている。またはそのようにすり抜けられた主観を見出している。ということになるまいか。このとき 理論としての唯物史観の あるいは 唯物史観の理論としんてお 精緻さ・正確さ・さらにその真実ささえもには関係のない 各主観の生きた観想の問題であり 人はかれが 知解し理論するのであって 唯物史観が あるいはアマテラス語普遍共同の理論が 理論し愛するのではないからです。この史観をもし 共同主観夢とは言っても つまり ゆめとは言えても 現実とは言わず 空想と言うなら 人はその生において何を生きるというのでしょうか。
しかしこのことは 唯物史観に対して批判しているというよりは無論 共同観念現実をのみ人間の現実として ただ鏡を見るように 見つつ生きる その意味で眠れる身体共同夢を夢みる人びとに対して 投げかけられています。たしかにそうであって この欠陥は欠陥であり 人間として憎むべき欠陥であり またこれが人間によって指摘されてこそ その人自身は愛されることになるからであり 共同主観のあまねわり(普遍化)は そのように生きてゆくとしか考えられない。これは そもそも人間が生きた史観そのものとなるという過程においてこそ言われるべきことであって ただ倫理的に言っているのではないことは すでに第一部で明らかにしたことです。
また この人間は 神の御前では 身体を伴なって生けるものすべて 義(自由)とされないからこそ 罪の子として言っていることであって 互いに罪の子であるとするなら 今度は倫理的に(しかし 哲学的にではなく) この現実の共同自治の様式を 変えるべきは変えるという方向において 共同主観しているというにすぎないことになります。これは もともとそう言っているのであって これを明示的になおそう言うとすれば それは はじめに述べたように 共同主観の滞留であると考えるのです。
わたしはこれが 時の充満を作るのだと思います。主観においてすべてが 新しいものへ変えられるというなら この滞留は 健康な滞留であり 内なる人がただちに外へ出かけないことの主観形成の過程にほかならないものでありました。そして一にも二にも いまここに言う理論は そのための補助手段である。こう考えるからにほかならないのでした。
新しく人を着よといわれることの滞留であり その滞留しての再確認であったことです。この滞留を拒み――あるいは理論の再生産に逃がれ―― 外に出かけることによって 言わば無知によって知られる人間の存在の領域を広げることは 共同主観の死であり 人間の死はここからやって来ると知られるゆえにです。だから 理論は この共同主観の歴史的な系譜においてこそ見出され 生かされると再確認して この前提的な考察をなした第五章全体を終えたいと思うのです。(一節だけ補論があります)。
(つづく→2007-07-24 - caguirofie070724)