caguirofie

哲学いろいろ

#54

もくじ→2005-05-13 - caguirofie050513

第二部 唯物史観への批判

第三章 唯物質史観に対して キリスト史観は 質料〔を共同主観する〕史観である

第二節a 唯物史観は キリスト史観の一部 しかも歪められた一部である

わたしたちは この第二節でもなお 観想的な精神において 次のような神学的な理解を一度とおっておかなければならないと思う。それは 唯物史観との対比の上でであり 次の長いひとまとまりの引用は 便宜的に三段に分けるが その第三段の内容を 今日の唯物史観の説くところと比較して考察したいためである。
そこでまづ 第一段は 前節に論じたように キリスト・イエスがすべての土台であることを あらためて論じている。

それでは その理性的な魂がすでに不可変的で永遠の真理を分有しているような賢い人を心で考えてみよう。その人はその行為をあげて この真理に諮り 真理において為すべきであると認識しないことは決して為さず そのため真理に服従し真理に聴従しつつ正しく為すようになる。このような賢い人が もし心の耳でひそかに聞く神的な正義の最高の理法に諮って その命令に基づき或るあわれみの業を引き受け 身体を労働によって疲れさせ 病気に罹り 医者に相談したところ 或る医者からは病因は身体の乾燥であると言われ 或る医者からは過剰の液であると言われるなら それらの判断の一つは真実の病因を語り 他方は誤っている。しかし両者ともにただ直接的な つまり身体的な病気の原因に触れているものにすぎない。しかし身体の乾燥の原因が さらに問い求められ あの自発的な労働のことが考えられるなら そのとき より高次の病気の原因に到達したのである。
その原因は魂に起因し 魂が管理している身体に影響を与える。ところがそれもなお第一の究極的な原因ではないであろう。第一の原因は疑いない より高いところ すなわち 不可変的な知恵そのものにあったのである。賢い人の魂はその知恵に愛をもって仕え 言詮を絶して命令するその知恵に聴従しつつ あの自発的な労働を身に引き受けたのである。かくて神の意味そのものが あの病気の第一原因である と極めて真実に認められるのである。
(三位一体論 3・3〔8〕)

この第一段が このような或る賢い人の自発的な労働〔による病気〕の原因を捉えようとしたものであるとするなら 次の第二段は この労働の内容が――二角ないし三角錯綜の協働関係において――基本的に 明かされる。

  • なお この自発的な労働によって 病気になることが 人間の目的でないことは言うまでもない。むろん みなが病気になるということではないけれども 《蒔かれるときには朽ちるもの(自然の肉体)でも 朽ちないもの(霊の人・霊の体)に復活し 蒔かれるときは卑しいものでも 輝かしいものに復活する》(コリント前書15:42−43)ことが たとえばこの病気になることをとおしてもの人間の目標であることは言うまでもない。

しかし もし為すべき敬虔な仕事において この賢い人が善き業に協力する他の人の奉仕を採用するとき しかもかれらが かれと同じ意志で神に仕えず 自分の肉につける欲望の報いに到達することを欲し 肉的な態度で自分にとって不快なものを避けるとしたら どうか。またもしこの仕事を果たすために必要であるゆえに荷物を運搬する家畜(機械でもよいだろう)を用い その家畜がたしかに非理性的な動物であって そのため その荷物の下で 善き業を進ませることを考えるのではなく 自分の欲望の本能によってまた鞭に打たれるのを避けるために肢体を動かすのであったとしたら どうか。終わりに この賢い人が全く感覚を欠くが 例えば穀物 葡萄酒 香油 着物 銀貨 その他この類いのもののように その仕事に必要なものを用いたばあいはどうか。この仕事のために使用された生物 無生物を問わず すべての物体的なものはみな動かされ 消耗され 回復され 破壊され 再形成され そして種々な仕方で場所や時間の影響を受けて変えられる。だが もし神のあの不可視的・不可変的な意志が 知恵の座としての正しい魂をとおして 悪しき理性なき魂 終わりにこれらの魂によって生命を吹きいれられ活気づけられたもの さらに感覚を全く欠いた物体をすべて 使用する――その際に敬虔にして宗教的な服従のため御自身(神)に服せしめられた善き聖なる魂そのもの(――近代市民的な初発のキャピタリストを想え――)が先ず用いられる――のでないなら すべての可視的・可変的な事象の原因はどこにあるであろうか。
(以上が 第二段。同上 3・3〔8〕)

このような前提の確認のもとに 第三段はこうである。そこでは 史的唯物論 コミュニスム史観の原形といったようなものがすでに見出されるであろう。

さて 今なお可死的な身体を担って 部分的にしか神を視ていない一人の賢い人について例を挙げて論じて来たが このことは もし人間的なものの支配と管理が 賢い人びとや神に対して敬虔に全き仕方で服従した人びとの手中にあるなら このような人びとの交わりが存在する家(――あるいは 対関係――)についても あるいは都市(――自治態勢・その中の生産態勢――)または世界についても考えうる。しかしこの状態はまだ存在しないから 私たちの長い巡礼の旅路の始点である あの上なる天の故国を憶い見よう。かしこでは 《吹く風をおのが御使いとなし 燃える火をおのれの仕え人となしたまう》神の意志が統治するのである。神は 至高の平和と友情で結ばれた一つなる意志への愛の霊的な火によって融解し合った霊のうちで あたかも御自身の家 御自身の宮における高き聖なる秘かな御座にいましたまうように住みたまうのである。ここから 神は被造物のこの上なく美しく秩序づけられた運動をとおして すなわち 先ず霊的な運動 次に物体的な運動をとおして 万物をとおして御自身を遍在せしめたまう。さらに神は万物を 非物体的のものであれ 物体的なものであれ 理性的な霊であれ 非理性的な霊であれ また神の恵みによって善き人であれ 自分自身の意志によって悪しき人であれ 神意の不可変的な自由によって用いたまうのである。
しかし より鈍く より弱い物体は より精細な より力強い物体によって一定の秩序において支配されるように すべての物体は生命の霊によって また非理性的な生命の霊は理性的な生命の霊によって さらに逃亡者・罪人なる理性的な生命の霊は敬虔で正しい生命の理性的な霊によって さらにこれは神ご自身によって 支配されるのである。かくて被造物全体はその創造主によって支配される。被造物はこの創造主から かれをとおして かれにおいて造られ整序されたのである(コロサイ書1:16)。このゆえに 神の意志はすべての物体的なもののかたちと運動の第一の最高の原因なのである。至高の支配者の不可視的・叡智的な内なる宮殿から 全被造物の或る種の広大にして測りがたい国の中で 報償と罰の 恩恵と報復の言詮を絶した公正な配分に基づいて 命じられ あるいは許可されないものは何ものも可視的・可感的に生起しないのである。
(承前。三位一体論 3・4〔9〕)

身体の運動もしくはもろもろの質料関係 これらは 社会的および自然的な秩序において 人間的な支配と管理のもとにあるが それらの第一原因である至高の支配者から命じられあるいは許可されないでは 何ものも可視的・可感的に生起していないと 観想されることになる。
この史観は このような第一原因・土台がむしろ無いものと 言葉としては表現したほうがよいようにさえ まづ思われる。なぜなら われわれは この秩序を信じるのではなく その第一原因の存在を信じるのであり そのことは 秩序はつねに個々の生きた主観にとって 異和ないし矛盾をもった時間的な過程とその全体として現われているからである。言いかえると 誰も 神の存在を 共同観念的な秩序において つまりいわゆる宗教的に 信ぜよと言っているのではないからである。ところが われわれはやはり 存在の根拠は 三位一体なる神であると思うのであり それは この史観〔の原理〕が そのまま――物質という世界の第一原因の想定のもとに―― 唯物史観となって 可視的・可変的また可感的な事物・事象の歴史としての体系的な認識となるというばあいには 一度そのようにおさえておかねばならないということが 不適当ではないと考えられるからである。
フォイエルバッハが 《神学は人間学の秘密である》と表明したことにつづいて 唯物史観は まるで このキリスト史観の・具体的な歴史への応用であるようにさえ見える。しかし この点にかんしては すでに前二章で論じてきたように 存在の根拠を物質に置くという欠陥のほかに その歴史への応用といったいわゆる理論的な認識作業において実は すでに主観(人間の現存在)の外に 史観がはみ出してしまっている。もしくは裏返しにくっついているという誤謬をまぬかれがたいということでもあった。主観の自己形成が 知解行為という一基軸を突破口としてその自己という衣を裏返すかのように 主観(精神‐知解‐愛)の外で行なわれたのである。だから これに対して キリスト史観といった 主観の原理の観想的な認識がいま一度 必要となると思われた。またそれは これ以外のためのものではないと同時に 史観の自己〔内〕形成にとっては これが――逆に――すべてであると言わなければならない原点であるためでもあった。史観の思惟的な形成の部面では なおこれに滞留しつつ 確認を怠らないことが肝要であると思われた。おそらく この三つの段落から成る〔キリスト史観の〕精神は――なんなら理論は―― もしそこで神といった概念を立てないでその内容を語るとしたなら 唯物史観者の 理論体系と同じとは言わずとも 各自の主観の行為の方向性といった点にかんしては 全く同じ一つのものを見出すであろうと思われたのである。また もしそうでなければ 唯物史観は ただ物体や質料関係を分析し把握する ただ共同観念の中の倫理的な一つの学問にしかすぎないということは 当の唯物史観者じしんの中心的な見解であることであろう。
(つづく→2007-07-09 - caguirofie070709)