caguirofie

哲学いろいろ

#53

もくじ→2005-05-13 - caguirofie050513

第二部 唯物史観への批判

第三章 唯物質史観に対して キリスト史観は 質料〔を共同主観する〕史観である

第一節b しかし 人間キリストがすべての土台である

さて (1)動物も身体の感覚をとおして外側にある《物体的なもの》を知覚し それらを記憶に固定させて想起し それらの中で有益なものを欲求し 不適当なものを避け得るのである。ところが (2)それらを注視し また本性的に曳き入れたものだけではなく 意図的に記憶に委託したものを保持し 忘却の中へすでに滑り落ちたものをも想起と思惟によって再び刻印すること――その結果 記憶が堅く抱いているものから思惟(おも)いが形成されるように また記憶の中にあるこのものが思惟いによって堅固にされる―― また(3)作り上げられた視像をも 此処・彼処で 想起されたものを取り出し いわば継ぎ合わすことによって結合すること さらに(4)このようなものにおいて 霊的な領域においてではなく物体的な領域において どのように まことしやかなものが真実なものから区別されるのか 点検すること。
これらのもの〔(2)〜(4)〕 そしてこの類いのものは 感性的なもの・また精神が身体の感覚によってそこから曳き入れたものにおいて為され いとなまれるのであるが しかも理性を欠如しているのではなく また人間と動物とに共通なもの〔(1)〕でもない。しかし これらの物体的なもの(質料)について 非物体的・永遠的な根拠( rationes )によって判断することはより高い理性の務めである。(a)もしこれらの根拠は人間の精神を超えて存在しなかったなら たしかに〔真理は〕不変的ではない。(b)また もし私たちの或る部分がそれに結合し それに従属しているのでなかったなら 私たちはそれに拠って物体的なものについて判断することは出来ないのである。
私たちは 変わることなく滞留している と精神が知っている大きさとかたちとの根拠によって物体的なものについて判断する。
ところが 物体的。時間的なものを取り扱うとき 動物とは異なる独自の仕方でなす私たちのあの部分は たしかに理性的なものであるが 私たちを叡智的・不可変的な真理に固着させるあの精神の理性的な実体からいわば指導されつつ より低いものを取り扱い管理するように定められているのである。
人から取り出され 妻として形成されるのでなければ すべての動物の中には人にとって人に似ている助け手は見出されなかったように 私たちの精神――それによって私たちは上にあり かつ内的な真理に訊ねるのである――にとっても 私たちが動物と共有している魂のあの部分〔(1)〕には 人間の本性が必要とするだけ物体的なものを用いるために 精神に似ている助け手〔(2)〜(4)〕は存在しない。それゆえ 私たちの魂の理性的な部分は魂の統一を無くすほどに分離されているのではなく 交わり(質料〔を介した人間の〕関係)を支えるためにいわば分配されており それ固有の働きの職務に分けられている。
また 男と女の二つの身体が一つの肉であるように 私たちの精神の一つの本性は知解と行為 企図と実行 あるいは理性と理性的欲求 あるいは他の仕方で より意味表示的に言われうるものを包含している。そして 初めの二人(アダムとエワ)に 《かれらは一つの肉において存在するであろう》(創世記2:24)と言われているように これらのものについても 二つは一つの精神の中にあると言われうるのである。
(三位一体論12・2−3)

われわれの〔質料関係に対する〕知解(認識)と愛(実践)とは 男と女の二つの身体が一つの肉であるように 二つは一つの主観の中にあると言われうるとき この主観行為は 《私たちを 叡智的・不可変的な真理に固着させるあの精神の理性的な実体からいわば指導されつつ より低いものを取り扱い管理するように定められているのである》。
いま述べていることが 当たり前の話であるとするなら この原主観に 還る・もしくはさらにまづ留まるべきであると言おうとするのであって これとは 別様に 或る理論体系があると思ってはならない。

だから 人は父と母を離れて その妻と結ばれ 二人は一体となる。

と聖書に書いてあります。これは偉大な神秘であって わたしの考えでは キリストと教会(キュリアコン・やしろ)の関係を述べたものです。いづれにせよ あなたたちも それぞれ 妻を自分のように愛しなさい。また 妻は夫を敬いなさい。
パウロ:エペソ書5:30−33)

と言われるようにして すなわちもう一度いいかえるなら 《人とその妻との関係》が 《キリストとチャーチ(やしろ・キュリアコン)の関係》に比されるがごとく わたしたちの主観行為は いわば精神の秩序の段階的な構成をもとにしてのごとく キリスト(真理)をそのすべての土台とする。
われわれと質料との正しい関係 もしくはこれをもとにしたわれわれ人間と人間との正しい関係(対関係・二角協働関係)は この共同主観において見出され 史観は――つまり このばあい具体的で広く一般の歴史学を含めた意味で 史観は―― ここから出発すると言うべきである。人間にとって《正しい》とは 《自由な》という意味である。また これらは 第一章の《史観の原則》の内実であったことでなければならない。唯物史観は この原点からの一つの方向性を表わすものであり つまりその具体的な施策に密接に関連する理論の個々の論点じたいは 同じ一つの方向性の中で 経験的な主観(見解)として われわれは大いにおしえられるべき精神(知解と愛)〔の ただし 裏返し形態〕であると考えた。
しかるにこの節でわれわれの主張したかったことは やはりこの裏返しの裏返しなのであり それは 個々の論点という経験的な主観が 霊的な――とあえて言う――共同主観において一つのものとなるということ いや精確には はじめの共同主観から 経験的なことがらを扱う個々の論点がみちびき出されてくるべきこと したがって実は そのときには 組織(記憶)形態が変わったものになるであろうし 知解(経済行為)と愛(共同自治)も それら三行為領域の全体として ちがった新しいものとなるであろうということ また その理論体系といったものは 基本的に 不必要だというほどに まづ解体され それぞれの主観行為の現実の生きた過程において 個々の思惟の成果として用いられるであろう。しかしながら 問題は そのように大幅に互いに重なると思われる二つの史観においても 主観の内的な世界においてまづ 病いが癒されるということが 基本第一条件なのであると声高に主張することにある。
そうでなければ――つまり 《キリスト(真理)を キュリアコンなるやしろとの関係において すべての土台とする》ということは 理性的に・論理知解的に 共有されても仕方がないのであって 各自の主観において この神との和解(現実には 人間と人間との和解 ということは その・質料を介しての むしろ異和=つまり 異和を許容する和解)が成されるというのでなければ―― 事は何も始まらないであろう と言うのがキリスト史観である。これ以上 明白に言うのは わたしには無理である。理解しない人は 神に尋ねるべきである。しかし 人は神との和解が成ったときから――信仰が生起したときから―― 自由なのであって 現実の具体的な共同主観は いわばそのつけたしである。唯物史観者は いわばその知解の膨大によって弛緩した愛の力を 自己じしんの力によって復活させるというのではなく 根源的な愛の泉に固着して 新しく創造されることが 問題である。だから 《すくい主》と呼ばれる神の知恵キリスト・イエスは この病いがなかったなら 人間に必要ではなかった。

(つづく→2007-07-08 - caguirofie070708)