caguirofie

哲学いろいろ

#80

もくじ→2005-05-13 - caguirofie050513

第二部 唯物史観への批判

第六章 理論としてのキリスト史観(2――前提をさらに理論化する)

第五節 《つまづきの石》が第一の幕屋と至聖所とを分ける

使徒ペテロは こう言っています。

〔この主のもとに来なさい。〕主は 人間からは見捨てられたのですが 神にとっては選ばれた 尊い 生きた石材なのです。聖なる祭司となって神に喜ばれる霊的ないけにえを イエス・キリストをとおしてささげるために あなたたち自身も生きた石材として用いられて 霊的な家(共同主観キュリアコン)に築き上げられるようにしなさい。(すなわち コミュニスム=共同主観社会)。聖書にこう書いてあるからです。

わたしは 選びぬかれた尊いかなめ石を
シオンに置く。
これを信じる者は 決して失望することはない。
イザヤ書28:16)

したがって この石は 信じているあなたたちには かけがえのないものですが 信じない者たちにとっては

家を建てる者の捨てた石
これがかなめ石となった。
詩編118:22)

のであり また

つまづきの石
妨げとなる岩
イザヤ書8:14)

なのです。この者たちは御言葉を信じないのでつまづくのですが 実は そうなるように以前から定められているのです。

  • これは きわめて弱い言い方である。卑怯な感じもする。

しかし あなたたちは 選ばれた国民 神のものとなった民(出エジプト記19:6;イザヤ書61:6)です。それは あなたたちを暗闇の中から驚くべき光の中へと招き入れてくださった方のすばらしいわざを あなたたちが広く伝える(イザヤ書43:21)ためなのです。あなたたちは

かつては神の民ではなかったが
今は神の民であり
神のあわれみを受けなかったが
今はあわれみを受けている。

のです。
(ペテロの第一の手紙2:4−10)

この《つまづきの石 妨げの岩》は 至聖所の奥なるお方の言詮に絶した計画によって置かれたものですが いわばエサウヤコブとを配置するために 至聖所つまり第二の幕屋と 第一の幕屋とのあいだに(――とは言え かれ=《つまづきの石》も 第一の幕屋を・つまり可死性・人間性を共有しているのですが――) 据えられているのです。すなわち かれが 人間として初めて 人間(しもべの貌)としては涙しながら 神の貌としてhみづから欲しられて 神の御心を告知することを完成させるべく(そして さらに復活によって完成させたまうのですが) この至聖所の中へ入って行かれたのです。
すなわち 十字架上の死のことです。これは 史観であって 理論です。また 実際問題として言って この理論は あの英霊〔の復活 のちに遺された者の主観それぞれにおける復活〕といった見方に同じです。ただ これを誰が言うか 誰が説くか 何のために説くか すなわち英霊がその説教者にたしかに復活したから何のために説くのか によって違って
きます。そして 大きくは 英霊が一般に生前において スサノヲ者であって そのスサノヲイストの心・生命に生きたと見られるとき――そうでなければ そのわれわれの主観の中への復活は 永遠の生命への復活ではなく もはや永遠のほろびへの復活にしかすぎなくなる―― 神の御子であったスサノヲイスト・キリストは われらが長子であるという点にあるのです。すべてのものの初めであると。《わたしは 道であり 真理であり 生命である》とこのスサノヲ者の・まつりの永遠の生命を 生きた史観として つまり神の御心を 告知したまうたのからです。かれによって英霊が生きます。われわれも復活します。これが コミュニスムなるやしろの歴史動態です。
既成の第一の幕屋としての理論(知解)が この理論(観想)になじまないからと言って 人間存在の領域に これを見ないということは すべての人間にとって考えられません。これを見祀ることは 信じない人にとっては 人間〔の中心性・中間性〕として恥づべき軽蔑すべきことのようであるのですが わたしたちは これを かれらは《つまづきの石》につまづいたのだと言います。誰でも 第一の幕屋をとおして やしろの至聖所をはるかに望むことは 自由意志によって可能であり(シントウの神社・神殿もそのような構造になっています) しかもその自由意志の力は 神の恩恵によらなければ与えられていないという原理を示しています。
このつまづきの石・《尊いかなめ石を 信じる者は 決して失望することがない》のです。この《失望することがない》ことが 人間が第一の幕屋たる顔蔽いを取り除いて この鏡に至聖所の奥なるお方の栄光(共同主観の原理)を映すように見つつ 人間に与えられた朽ちざる自由を史観して生きることにほかならないのです。(だから この世では 悪魔との闘いが それぞれの分に応じて 自由とされています)。
これは 人間の歴史における歴史的・人間的な共同主観の勝利として捉えられることであり これをわれわれが基本的に理論するのです。現代に至って一つには そこに共同観念形態(ナシオナリスムすなわち各国民経済)の枠組みを伴なったものであれ 知解行為(生産行為の理論)としてキャピタリスム原理が 人間の言葉で明示的に捉えられるようになり またそのとき 精神=組織行為は キャピタリスト・デモクラシとして共同主観され 律法化され(このとき 近代市民キャピタリストが S圏から出たスサノヲイストであったことは言うまでもありません) そしてもう一つには このキャピタリスム共同主観に対して その反措定としての唯物史観ないしソシアリスム共同主観がすでに現われた。すなわち スサノヲ・キャピタリストらがすでにA圏に入ってアマテラス者となったとき 賃労働者市民たる新しいスサノヲ者は そのかれらの共同主観を ソシアリスム史観として捉えるに到った。ただしこの後者は 一方で やはり共同観念形態(ナシオナリスム)から自由なものであることをもう一つ難しくしており 他方で その唯物史観たる原理は 必ずしも至聖所の奥なる秘所をうまく捉えることが出来ず キャピタリスム共同主観の第一の幕屋であることと同じように その理論(知解)性という顔蔽いを取り除き得ないでいる。この顔蔽い(ペルソナ)というのは 人間が一個のペルソナを担うものではあっても その知解行為能力が単独でこれを担うものではなく また人間の全体としてのペルソナは 神の御言葉たる御子のペルソナを見祀ることによってこそ 第一の幕屋を超えて一個の史観となることができるというものであるから。
すなわちこのように 共同観念現実への寄留形態の近代市民的な新しいかたちが 両共同主観として出現し しかも既に成熟を迎えている現代においては この共同主観の寄留形態じたいを新しいものへ変える共同主観が現われて不都合なことはない これがキリスト史観であり このことをわれわれは理論するのです。
この共同主観の〔共同観念現実じたいへの新しい〕勝利は この小論においては われわれが吉本隆明への批判から始めたのだとするなら この吉本がその著《言語にとって美とは何か》を書きつづけたとき 《その間 わたしの心は沈黙の言葉で 〈勝利だよ 勝利だよ〉とつぶやきつづけていたとおもう》(同書 あとがき)というその《勝利》の批判的な成就だと言ってわたし自身は はばかりません。直接には このような著作ないし理論の批判的な継承の中でわたしは この小品を着手するに至りました。もとよりこのことは 私的なことがらであり 一つの象徴(第三の誤謬への批判)としてあるというかたちになるのだと思います。
要はわたしたちにとって この第一の幕屋は 可変的な理論にすぎないことを知っており さりとてそれは 第二の幕屋つまり至聖所への入り口をとおして 史観ないし理論を問い求めるものでもないという第三の種類の病いから 自由であるということ ここに新しい共同主観の道が生きて築かれるであろうということ これにあります。《つまづきの石のために 自分の生命を失う者はこれを得る》のです。《自分の生命を得る者はこれを失う》にせよ いづれにせよ われわれはこの神の配置に中にあって しかも神の言葉そのもとして生きるのではなく(それは 出来ない) むしろこのときには人間の自由意志によって(――人間が欲するままに生きることが 真実となるであろう と言ってのように――) 人間の言葉・理性的動物の言葉に到達しつつ(そのような共同主観者となって) 神の家すなわちやしろの自由主体として 生きるのです。
この神学による議論の 現代人にとっての或る種 非理論性は 止むを得なかったものとして勘弁を願うとしても ここに史観の生きる道があって ここから理論は生きて持たれねばならない。このことは 声を大きくして広く訴えたいと思うことなのです。この書物の題名をすでに《キリスト史観》として わたしはすでに信じる人びとに向かって語っていますが しかしこれが理論の狭隘さを招くものとは思われず むしろそうすることによって普遍的な理論が始められると考えたことにより この書物にも着手することにしたものでした。日本語によってこのような書物が書かれたことはおそらく初めてのことだと思いますが 日本人も ユダヤ人と同じく言わばかれらの裏返しであるように 神の民であると知ったゆえです。これによって わたしのこれまでの作品を 理論としては 無化する方向へ持っていきたいとも考えます。(考えたこと・書いたものが 相対的なものであることは当然ですが)。
(つづく→2007-08-04 - caguirofie070804)