caguirofie

哲学いろいろ

#81

もくじ→2005-05-13 - caguirofie050513

第二部 唯物史観への批判

第六章 理論としてのキリスト史観(2――前提をさらに理論化する)

第六節a 至聖所に入る共同主観は――理論ではなく―― 愛の勝利として栄光がもたらされる

《ルカによる福音》によれば イエスは荒れ野で四十日間 悪魔に試みられたのち ガリラヤでの伝道の始めを終えて 故郷ナザレに帰った。

エスは自分の育ったナザレに来て いつものとおり安息日に会堂に入り 聖書を朗読しようとして立ち上がった。すると 預言者イザヤの巻き物を渡され 開くと 次のように書いてある箇所が目に留まった。

主の霊がわたしに臨み
油をわたしに塗った。
主がわたしを遣わしたのは
貧しい人に福音を伝え
捕らわれ人に解放を
目の見えない人に視力の回復を告げ
圧迫された人を自由にし
主の恵みの年を告げ知らせるためである。
イザヤ書61:1−2)

(ルカによる福音4:16−19)

わたしは言いますが 《油が塗られた》ということは かれが 第一の幕屋をとおって至聖所に臨み この至聖所の奥なるお方から派遣される聖霊がみづからの身体に宿ることを知り この可死的な人間・しもべの貌の中に 神の貌が現れたこと すなわち この聖霊は 至聖所の奥なるお方を自分の父として その御子たるご自身からも 父からとともに 発出され遣わされるのであるということ これを知られたのです。

会堂の人びとは皆 イエスに目を注いでいた。そこでイエス
――この聖書の言葉は 今日 耳を傾けているあなたたちに実現した。
と話し始めた。
(同上4:20−21)

このようなイエスは キリスト(油塗られた者)として 《多くの人の罪を取り除くためにただ一度 身をささげられた後 二度目には ご自分を待望している人たちに 罪を取り除くためではなく 救いをもたらすためにお現われになるのです》(ヘブル書9:28)

わたしの支持するわがしもべ
わたしの喜ぶわが選び人を見よ。
わたしはわが霊をかれに与えた。
かれはもろもろの国びとに道をしめす。
かれは叫ぶことなく 声をあげることなく
その声をちまたに聞こえさせず
また傷ついた葦を折ることなく
ほのぐらい灯心を消すことなく
真実をもって道をしめす。
かれは衰えず 落胆せず
ついに道を地に確立する。
イザヤ書42:1−4)

人です。これが 油を塗られた者という史観そのものです。共同主観の原理です。
これは 第一の幕屋を 理論とせず もしくは可変的な理論と為し 至聖所に到る垂れ幕を超えて 人間の主観たる自己の中に油が塗られる・つまりは聖霊が宿りたまうということ そしてここに自由なる道が生きることと察せられます。だからわたしたちの心は清められねばならなかったのです。あたかも心は 身体という質料そのままの〔だから あたかも物質の動きのそのままの〕反映と翻訳を表わすというかのように。
しかしもとより この物質が第一原因ではありません。神に似せて造られたその像(すがた)そのものにおいて 人間が あたかもこの主の霊によってのように 栄光から栄光へ変えられるために生きるというがごとく 主観が主であり 物質は従(もしくはその基体)でなければならないでしょう。そのように至高の第一原因は 物質などの被造物をも そのご計画にしたがって 配置されると考えられる。
この配置の中で 人間は すでにみな神の子でありしかも 次にはこれを別として今度は あたかもすべて天使たちに等しいかのように 各自のペルソナが もはや主観であるのではなく 客観ないし共同客観であると 唯物史観が言うとすれば それは この視像ないし理論が必ずしも重要であるのではなく ――もしそれが正しい視像であるとして 人びとはここに到達するものとするならば しかしそうだとしても――問題は 現在の主観 各自のペルソナ その人間〔の言葉〕が そこへと到る自己形成の過程として重要なのであるということであって もしこのときには唯物史観への批判は かれら(もしくはマルクス)が すでにみづからその理論によって 至聖所に入ったのだとすると しかしそれはあたかも現在の主観を放棄するがごとく 悟り切っているというにすぎない。そういう答えによって 為されなければならなかったのです。

  • このときに唯物史観は 社会階級闘争史観として プロレタリアティスムもしくはプロレタリア階級絶対主義〔つまり 開祖が至聖所に入ったと見るから 《絶対》〕の考え方に立ち 遠く古代ユダヤないしローマ帝国の時代に キリストの使徒たちを中心とした原始キリスト教団の運動は 貧しい虐げられた階級を基盤とした理論とその実践であると 《通史的に》これを見ることになります。また この原始キリスト教団が信じ伝え そしてわたしが信じ知解することを欲するその すべてのものの始めとなられるべく至聖所に入ってゆかれたキリスト・イエスなる人物は 歴史上 存在していなかったとの説にみちびかれるのです。この点は 歴史学的に検討することも重要でしょうが そのことは措くとすれば あたかも 人間的な尺度で言えば どちらの開祖が 先にもしくは正しく あの至聖所に入っていったかといった水掛け論になるので 取り上げません。(K.カウツキー《キリスト教の起源》に触れた箇所 第四部第十三章pp.1637fを参照)。
  • なお 人間が至聖所に入り〔模範〕史観となるという点では ここで シントイスムも一枚くわわると思われます。あたかも はじめの〔S圏ヤシロの〕シントウは スサノヲ者のまつり 至聖所の観想を 土台としていたからと言うように。むろんシントイスムは A‐S連関体制・ナシオナリスムの所産であると考えられた。

それは やはり物質を第一原因とすることによって このような〔主観の〕客観〔化〕がただちに成ったと〔誤れる存在の根拠によって いまあえてこの言葉を用いるなら〕信じてしまうところから来るものなのです。この信仰は 少なくとも動態的ではありません。頭の中で動態的・歴史的であると思う信仰であり 主観の放棄であり 生きた史観を形成する気遣いはありません。

  • もしそのとき いやそれは たしかに実践的であり動態的だと言うなら それは 主観において共同観念現実とかかわるというのではなく 共同観念アマテラス語幻想客観といわば権力的に・つまり社会階級的に いまひとつ別種の科学的客観共同によってかかわることにおいて――すなわち 主観をそこへ委ねている―― 動態的であり実践的である。しかしこれは あたかもあのスサノヲイストのまつりを アマテラス者の現行マツリゴトの否定によって――否定そのものによって―― 回復しようとしつつ 実際には スサノヲイストの主観を客観に代えてしまったことによって マツリゴトとマツリとの共倒れにみちびかれかねない。言いかえると それは S者のマツリへの・マツリからの叫びに終わってしまいかねないしろものなのです。マルクスも この共倒れを戒めています(《ドイツ・イデオロギ》)。

油塗られた者は この世では その始めの人・キリストを長子として この神の国の外交官として生きます。もちろんかれは この地上に 神の御心が行なわれる神の国の到来を待ち望んでいます。これがために祈り 自己と他者を愛します。しかし この人間の共同主観 人間の言葉は これからどうなるのか それは分からないという地点につねに立っていなければなりません。これが 神の思議しがたいご計画による配置なのであって ここに人間の自由はあります。
すべての人間が 理論客観・客観共同になるということは 言葉としては述べるべきものなのではなく むしろ各自がおのおのの主観として 自己においても社会的にも 共同主観となるということ これを述べなければならず それは 物質の動きによる歴史の進展なのではなく(その説明にたといもし一理あるとしても これが根拠なのではなく) まさに正しく 神の御心にかなう人間の生ということなのです。
そうでなければ かれはキリストのために死ぬことは有益であると言うのではなく この世にただいま死んで(理論信仰のうちに主観を放棄して) むしろこの世の目に見える生と物質を享受しようとする。もっと言うならば この世の支配を自分たちの手にもたらそうとしている。そういうことになるのです。かれは 《叫ぶことなく 声をあげることなく その声をちまたに聞こえさせず また傷ついた葦を折ることなく ほのぐらい灯心を消すことなく 真実をもって道をしめす》のでなければなりません。
(つづく→2007-08-05 - caguirofie070805)