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もくじ→2005-05-13 - caguirofie050513
第二部 唯物史観への批判
第七章 理論としてのキリスト史観(3――前提をさらに理論化したものを さらに愛する 言いかえると 愛からの理論)
第三節 《古事記》ないしシントイスムも 愛の勝利を共同主観する
悪魔に誘われたエワは 夫のアダムを誘います。はじめから真理の中にいなかった悪魔は――神によって・神のあの甘美なる配置によって正当にもゆるされて―― その死を制作するというあの空中の権能によって 人間に その自己の中間性に拠る知と愛(そのような自治)を説きます。蜃気楼のように空中にその楼閣を示し ここで誘惑するのです。女であるエワはこれへと魅かれてゆきました。そして夫であるアダムにこの誘いを勧めました。
もしこの人間の中間性に従う人間の共同知
- これによって はじめの共同主観が寝かしつけられるように停滞し 眠れる共同主観 つまり共同観念となる。しかしこれも人間の知解行為に属すことであり この共同観念は 人間の知解的なアマテラス普遍概念によって 人間存在の規範・範型・律法をつくり その地上の共同自治を開きます。この律法は 聖であり霊であり 神によって与えられたと言うにふさわしいものであり それは人間が はじめの共同主観からの墜落すなわち 人間の共同知のはじめにもとづいて その罪(すなわち 墜落じたいが罪)を自覚するようにして ますます人間的となるために備えられました。やがて時の充満とともに この人間による・共同主観原理の模型としての第一の幕屋すなわち律法が それにしかすぎないということが だから のちに神の子キリストの派遣はそれを完成させるものとしてあるべく かれによって 示されました。
だから もしこの人間の中間性に従う人間の共同知〔の誘い・なだめ・子守唄〕に 男のアダムも同意して従ったとするなら かれも 罪の子・律法の子・共同観念の子となったのです。もしこれに同意しなかったなら――至聖所の奥なるお方に固着しつつ 女のエワに自己の共同主観によって蔽いを被せつつ かのじょを導くとしたなら 仮りにそうであったとしらなら―― かれは神の子にとどまったと言われます。
しかし これもあれも いまではすでに 人間キリストは現われたまい この始祖の罪〔がわれわれ子孫にも刻印されたように受け継がれてきたその罪〕も 原理的に・生きた道の示されることによって 取り除かれています。この第二のアダムの来臨によって 第一のアダムがはじめに共同主観原理の子であったことが 回復され そのように さらに人間の救いが約束されました。っこれは 原理的には神のご計画・配置・その恩恵によって そして人間的な尺度から見て言えば 人間の自由意志によって問い求められるなら(――誰もが自由の子であることを欲している――) 約束のままに 与えられます。
アダムは ヘブル語で《男・人間》という意味だそうで ちなみに わが《古事記》の最初の人間は イザナキ・イザナミという男女でありました。キとミとは 〔オ〕キ〔ナ〕と〔オ〕ミ〔ナ〕というように 性としての人間すなわちそれぞれ男と女とを意味するものとすれば また イザ〔ナ〕が 誘うという語の意味表示することと同じものであるとするなら このシントイスムの神話は 必ずしも至聖所〔の奥なるお方〕の原理は表わさずに 第一の幕屋(もしくは 神から見れば 第二の幕屋 しかしやはり人間の言葉で 第一の幕屋)としてのやしろにおける 男女両性の婚姻〔の形式〕を しかもこれについては 原理的に示します。アメノミナカヌシをはじめ 至聖所にいます神を 意味表示するかのごとくですが これについては 必ずしも共同主観原理をここに捉えることはできないと考えられ そして イザナキ・イザナミの最初の人間については そこで必ずしも 共同主観者が 悪魔によって 共同観念へと誘われるといったふうにではなく むしろ一つの焦点として 婚姻の形式すなわちそこでの愛の勝利を 原理的に うたうからです。
悪魔の登場は ナホビ(直霊)とマガツヒ(禍つ霊)の神学もさることながら コノハナノサクヤヒメのくだりに触れられます。なぜなら 男(ホノニニギ)が この木の花の咲くや日女を欲し娶るということにおいて その命は木の花の咲くがごとくのみあって やがて死が訪れると観念されており 悪魔とは 人間の中心性に従う(善悪のを知る木から実を採って食べる)空中楼閣での饗宴に人間を誘って 死をもたらす(時間的存在とする)ものだからです。
イザナキとイザナミとの婚姻の形式とは はじめに女のほうから声をかけるのではなく(そのときには 水蛭子(ひるこ)が生まれたと記します) 男のほうが先に 《あなにやし えをとめを》と言葉を述べることによって 実現したと共同主観されているものであり このことは ほかならぬ愛の勝利を意味表示しているのであるでしょう。なぜなら 男の共同主観が 女に対してこのように顔蔽いを被せるべく 律法の子とはならず ともに至聖所の前に はだかで立つからです。
のちになって コノハナノサクヤヒメのくだりで 死が観念され 共同観念現実が捉えられたのに対して ここではむしろ その原理(はじめ)に 神の子としての婚姻の形式 その愛の勝利が 明かされています。
これらのことは 古事記においては――つまり日本の古代市民ないし前古代市民らのあいだの共同主観のかたちにおいては―― 次のことを語っていると考えられます。すなわち かれらにあっては 第一の幕屋が 律法が 必ずしも 自分たちの内省=行為形式つまり共同主観ではなかったということ 言いかえると かれらは 自分たちの存在の根拠を 必ずしもその第一原因の探求・その明示的な知解にまでは行かなかった反面で かれらも確かに 第一の幕屋を超えて・もしくは そこに必ずしも第一の幕屋を建てずに あの至聖所の前に立ったということ そのような・むしろ密教的にして はだかの共同主観が明かされたということです。
この密教の部分に 顕教的・明示的な・神を観想する人間の言葉をあてはめれば シントイスムは キリスト史観の一つの種を構成します。前章第三節で 《シントイスムは第一の幕屋である》と述べましたが ここでもし訂正の要があるとすれば それは 古代市民的な共同観念現実の社会形態つまり 国家形態が――かれらにとっては むしろその共同主観の一つの形態化でもあったものであろうと見られる反面で―― 現代市民の時代にまで受け継がれて ここから・つまりナシオナリスムとして アマテラス概念とそれによる第一の幕屋(理論)として 継承されやはり共同観念現実を構成しているとするならば そのときのシントイスムを 前章第三節では指していたということです。人間の共同主観としてのシントウそのものは むしろキリスト史観に摂取されて有効でありうる。そう考えざるを得ません。
(つづく→2007-08-09 - caguirofie070809)