caguirofie

哲学いろいろ

#84

もくじ→2005-05-13 - caguirofie050513

第二部 唯物史観への批判

第七章 理論としてのキリスト史観(3――前提をさらに理論化したものを さらに愛する 言いかえると 愛からの理論)

第二節 蔽いを被るべき女性も 神の国の共同相続人である

女性というふうに分けられる人間の性のほうは 男性が被るべきではないとされる蔽いを 被るべきであるということ これは 共同観念現実が 共同主観によって主導されることを意味します。地上の国と その国境をむしろ明確にせずその場を共通とする神の国が しかしこの地上の国のあらゆる共同観念(ナシオン・国民経済)の中から その姿を現わすことです。律法によって第一の幕屋において 年々歳々 供え物がささげられる〔ことによって 罪とそのアマテラス概念による規範・法律が自覚される〕ということ そのような共同観念による共同自治の様式 これが 変えられて 人びとは 第二の幕屋へと臨み 一度目には罪が取り除かれ 二度目には救いがもたらされるように 油ぬられるべく 主の霊を見まつる。つまり同じことで 第一の幕屋に拠る共同観念現実には この至聖所の垂れ幕が逆向きにかけられる そのようにして 女性は蔽いを――イスラム信徒のヴェールとは違うと思いますが―― 被ることがふさわしいのです。
ところが 神の国の共同相続人に 男性の共同主観者のみがあてられ 女性はこれにあづからないというのは 適当ではありません。女性は――というより 人間の女性の部分は なのですが〔というのも 女性の性のほうは 現在するものごとの管理のしごとにふさわしい理性の部分をあたかも表わすかと思われるからですが〕―― 史観の原理による典礼のようなものによって 下に向けられる理性のあの部分を司るというように 定められております(アウグスティヌス)。しかし女性が 第一の幕屋を超えて 至聖所の前に立って 主のお像(すがた)を望み見ないということが どうしてあるでしょうか。かの女が被るべきだとされる蔽いは この鏡そのものを見つめるためでは毛頭なくて 垂れ幕を超えて鏡をとおして主の栄光を見まつるにふさわしくない存在ではむろん決してありません。
たしかに女性は 男性がかれひとりで 全体として至聖所の奥なるお方を観想する(あるいは《社会的諸関係の総体》を 全体として 観想する)にふさわしいのに対してかのじょは むしろひとりの男性と一体となることによって(――そのように顔蔽いを被るべきとされるようにして――) かのお方を全体として観雄します。しかも この顔蔽いは もし愛の勝利によって自己が変えられてもたらされたかたちでそれが 蜃気楼ではないとするなら 律法の規範(法律)であるとかアマテラス概念による〔愛の〕自由の範型(道徳)であるとかではなくして だから第一の幕屋〔の理論・知解行為に必ずしもなじまず またこれを 不可欠のものとはしないで この第一の幕屋〕をとおして その被った蔽いを 鏡としつつ かつこの鏡をとおして 至聖所の奥なるお方を観想する能力が 与えられている。《社会的諸関係の総体》の中の各主観の配置――原理的かつ動態的で具体的な――を観想するむしろ愛の行為能力が 与えられている。だから そうではないのだと誰が主張するでしょうか。
男性が史観となって 油塗られた者の列に加わるなら この史観という愛の行為は むしろかれにとって或る一人の女性との対の関係においてこそ成就されうるものであることをも観想し〔――なぜなら かれは 一般には 《父母を離れて 妻と一体となるべきである》(創世記1:24)からであり――〕  かれは その聖霊がかれに宿ることによって永遠のいのちを与えられてのごとく これをかのじょと ともに 観想しないという法はないからです。
男は かれひとりでその独立主観において 神を観想しますが 女と一体となることによらなければ 男ではないと言われるかも知れません。人間には 一生をひとりで過ごす者もいますが その共同主観において誰が 人間の女性を この史観者の列から離して キリストを生きるでしょうか。結婚は 愛の勝利を 象徴します。愛の勝利した結婚は 共同観念=律法的な婚姻の制度や規範を 生きた史観として成就させます。まただから そのような第一の幕屋にとどまっていません。これを超えて 至聖所の前に立つのです。油塗られることによって 肉の情念に死ぬであろうからです。

  • かれは 能力によって 一夫一婦制の律法にしがみついて生きることはできないのです。また 共同観念のみだらな遊女に属(つ)いてゆくことはできないのです。あの第三の誤謬が その天使となってのように かれを捕捉するとき そのとき たとえ為すべきように為さなくともそれは 外にある罪であって お姦淫とは見なされず 容易にゆるされます(アウグスティヌス)。
  • また 悪しき理性なき魂は 共同観念のみだらな対関係つまり三角関係転倒錯綜の中にあって 神に用いられて 自己と他者を愛しつつ 復活するのです。永遠の生命へ復活するか 永遠の滅びへ復活するか それは 神がお決めになることです。悪をも正しく用いたまう神とは 何と偉大なことであるだろうか。しかしながら これは その力を与えられてのように人間が その主観共同化の具体的な自他を含む周囲の過程において生きるとき 為されてゆくのでないなら この信仰は まったくの幻想であり その共同主観者はすべての中でもっともみじめな存在ということになります。唯物史観は キリスト教を否定し社会的な実践を史観するというそのコミュニスム運動を説くことによって このキリスト史観のコミュニスム ヤシロイスム スサノヲイスムを用意した。

キリストが 基礎において神のやしろとしての共同観念形態現実に対して その死に至るまで〔愛に〕従順であられたことは(――そしてそれは 死の制作者である悪魔をこのような死とさらに復活という行為によって征服するためであったのですが――) 共同観念現実に至聖所(共同主観)の垂れ幕を逆向きにかける 言いかえると 共同主観の原理(はじめ)として 至聖所にみづから――そのような神の御心の告知を完成すべく――は言ってゆかれたということです。この道は 史観が愛の実践として捉えられるなら 女性をもその愛において神の国の共同相続人とする愛の勝利によっても 象徴されるようにして 目標として存在したまうのです。だからこの愛の勝利は 共同主観の自己内形成として その過程に〔のみ〕あることであって この世のものを愛することによって成し遂げられるようなものではなく つまり 妻を愛することによって神を愛さなくなるというようにしてではなく 至聖所の前に立って はだかの身体に油ぬられるべく 聖霊の宿るその愛によって完成されつつ過程されるものです。つねに聖顔を求めよ。そして聖愛に達せよ。
これは 史観であり あたらしい共同主観のかたちへの理論です。これは 主観の中に 過去の死者の復活をともなって 新しい自己へ変えられるその過程において 愛を愛する者となるその道のことです。
キリストは 人は離婚してはならないと言われました。これは 至聖所の前に立って神が結び合わせた者を 人が離してはならないという共同主観の過程を意味します。ですから 愛の書類〔としての新しい共同主観のかたち〕を説きます。この原理において ということです。
キリストは あのサマリアの女に対して かのじょが《夫はいません》と答えたのに対しては 《なるほど あなたは五人の夫を持ったが いま連れ添っている男はあなたの夫ではない。あなたなありのままを言ったことになる》と答え返されました。ここでキリストが 共同主観の生きた過程において 愛の勝利 その愛を愛する者の栄光を説いていないなら 何を語るのでしょう。この史観は 男がそうするのと同じように 女もその共同相続人となります。誰が女を この史観から遠ざけるでしょうか。
そしてこれは 共同観念現実が 神の国にその権能を渡すというほどに 共同主観が そのまま共同主観であるというそれじたいの栄光から その共同観念に対する勝利としての栄光へ 歴史的に変えられることです。人はこの歴史にその独立主観において参加します。女もこれに参与しないという法はありません。このあらたな共同主観の時代を 理論します。
(つづく)