caguirofie

哲学いろいろ

#83

もくじ→2005-05-13 - caguirofie050513

第二部 唯物史観への批判

第七章 理論としてのキリスト史観(3――前提をさらに理論化したものを さらに愛する 言いかえると 愛からの理論)

第一節 愛の勝利が あたらしい共同主観のかたちである

愛の勝利またはこれの持続ということは 人間にとって偉大なことであり 共同主観にとって重要であります。
まづわたしたちが生きること これはやはり持続的なことです。朝を迎えて昼から夕へ そして夜へとは渡されず 次の朝を迎えるという 日から日への可変的な過程 つまり睡眠の休息ないし安息日の休息を伴なって 持続的な生は しかし これを生きるほどには その理論的な思惟は持続的ではありません。ここに 第一の幕屋の可変的な性格が見られ 史観の第二の幕屋すなわち至聖所を望み見ることによって かたちづくられるというとき それは愛(経営・共同自治)の行為となって現われているものでなければなりません。これは 人が他者を 愛によって愛するというとき それはすでに 神によって愛すると考えられるところから来ます。神が変わらざる知恵なる存在であることは言うまでもないからです。

  • また誰も これを宗教の神秘・魔従によって為すのではなく 理性的にしか為しえぬことは 明白でしょう。理性的であればいいという意味にもなりませんが また単なる思いやり・同情とは幾分 座標を異にするはづです。

また 精神と知解と意志の三行為能力においては 意志が愛の行為としてとりわけ 人間〔の言葉〕にとって その全体つまり史観を表わすと言ってさしつかえないでしょう。そして 《神は愛です》。《神は霊である》と言われる愛です。
共同主観は 愛において――ここに 無意識としての非持続的な部分を想定しようとも――持続的であり 史観となります。油塗られた者は この愛を高く掲げます。敵を愛し――そしてそれは かれの頭の中に炭火を積むことになると言われる―― 共同主観の前進を担います。人間の愛が 神の計画をすべて成就するというのではなく 神の計画は 人間の愛の実践によって あたかもあらかじめの配置にのっとってのように 進展してゆきます。そう行なっても これからどうなるのか 分からないということは かれがキリストに似る者となるであろうという約束によって支えられ これが空しいものとなる気遣いはありません。
また共同主観の進展は このように主観として内なる人の前進と深められとにおいて基本的に達成されるということにほかなりませんでした。このように 外に出かけないことによって 外なる主観共同が社会的にも達成されるということにほかなりません。
なぜなら人は 自己が欺かれることを欲しないということにおいて たといかれがその愛〔の行為〕をとおして欺かれたとしても かれ自身は 自己の〔持続する〕存在を見出して再獲得するように 後にあるものを忘れて前へと心を傾注して 進むからです。またこの愛の持続は あたかもこの帰郷の旅の道において ある日 偶有的にその相手によって補足されるようにして 送られる つまり その愛の魂は 時間的(偶有的)にこれっを進め 時間的なものの無知によって或る点において誤り 為すべきように為さなくとも これはむしろ 外なる共同観念現実において到来する外にある罪であって 姦淫(共同観念現実の誘惑は 一種の遊女であります)とは見なされず 容易にゆるされるのです(アウグスティヌス:三位一体論)。ここにおいて・この愛の自己形成過程において 自由の史観は存在すると把捉されるのです。
ここにおいて ただ一点注意すべきは すでに自己の義(存在)があの空中の権能によって あらゆる理論を先取りするかのようにして われわれ〔の愛〕を捕捉するときであります。これがまた つまりは第三の誤謬が その自己の病いへわれわれ自身をも渡そうとする一つの共同観念現実でもあったものです。この空中の権能すなわち死の制作者である悪魔が その第三の種類の病いによって あたかも自己は存在していないからのように われわれの存在〔の共同主観〕に引っ付いて離れない――誘惑だけなら わたしたちはむしろ強くこれを否定します しかし このときには われわれの存在〔の共同主観するもの〕をも かれらの自己の存在と同一とするかのように 捕捉するばあいが考えられます―― このときには われわれは 必ずしもこの敵を愛するというのではなく この捕捉を蜃気楼と見なして その存在と付き合う(あるいは 離れ去る)べきです。敵の存在じたいは愛すべきなのですから。
われわれは この第三の種類の病いを 指摘してやらねばなりません。それ以外では この世からかかわりのない者のように この世から遠ざかる必要があります。この世とは 共同観念現実を言い 共同主観もこの世にむろん寄留しています。
それでは この第三の誤謬を呈する悪霊に対して 共同主観の勝利とは何を意味するのでしょうか。愛の勝利・その解放は どのようにしてもたらされるべきなのでしょうか。(のちに われわれはこの第三の種類の病いを 《国家 / イエ・ナシオナリスム》という蜃気楼に見ます。が いまは 個人的にこのような第三の種類の誤謬に出会ったばあい これによる捕捉からの解放を扱います)。
かれはまづ 敵の欠陥を憎みます。徹底的に憎みます。もちろんこれも 油塗られた聖霊の住まいであるわれわれから そのような力となって現われるものでなければなりません。われわれはすでに 怒りの子らであるのではないのですから。
それでも 第三の誤謬は かれじたい不死なる悪魔の霊から発する捕捉の手段に訴えるとするなら どうでしょうか。《はじめから真理の中にいなかった》悪魔が 本心から嘘をつく すなわち われわれの肉体の感覚を欺くその光の天使に変身するとしたら どうでしょうか。(《悠久の大義 / 聖戦》というアマテラス語によって――照らすというのですから 光の天使なのでしょう―― すっかり欺かれ捕捉されるとしたら どうでしょう)。わたしたちは 《こう祈りなさい》と主がおしえられた祈り すなわち 《わたしたちを誘惑に陥らせず / 悪から救ってください》(マタイ6:13)と祈るでしょうか。
《わたしたちが自分に負い目のある人をゆるしましたように / わたしたちの負い目をゆるしてください》(同上6:12)と祈るでしょうか。
しかし 《このわれわれの存在である共同主観を その愛を 先取りし この自己のもとにあるかのような愛の主観をかれら自身 自分のものと言い張り 訂正しまいととして どこまでも捕捉の手段に訴える第三の誤謬》ほど 人間にとってゆるしがたい病いはないと訴えて 祈りを愛を保持するでしょうか。悪が その空中の権能によって第三の誤謬として われわれの存在じたいを先取りして われわれをかれらは欺かないと言いその姿勢を示すことによって そのような蜃気楼の枠組みをはめること自体において欺こうとしているとき わたしたちは どんな力に拠ってかれらを解き放つでしょうか。
このような経験は わたし一人に限られたことなのでしょうか。われわれは自己に これが与えられた試練の火であるとして あの《道》に寄り頼むでしょうか。われわれの存在は 《隣人のために死ぬことほどの愛はない》と受け取って これへと進むでしょうか。それは 神のみこころに適うことであると主観するでしょうか。
この捕捉する誘惑は むしろわれわれ自身の《目の上にある材木》であって これ見ず 他方で 《兄弟の目にあるおが屑》をのみ見ていることから来る試練以前の火なのでしょうか。《偽善者 まづ自分の目から材木を取り除け》 《兄弟に向かって 〈おい 君の目にあるおが屑を取ってやろう〉と どうして言えるだろうか》(ルカ6:41−42)と言われるように。ここから愛はかたちづくられるのでしょうか。《そうすれば はっきる見えるようになって 兄弟の目にあるおが屑を取ってやれるのだ》(同6:42)と宣せられたように。
おそらくわたしは この捕捉(われわれには被捕捉)は わたしたち自身のそれぞれが背負うあの十字架であると思います。必ずしも 試練の火であるのではなく なぜなら この十字架は 必ずしもこれをくぐり抜けてのように 救われるべきことがらそのものではなく なこの生において捕捉されるべきような試練の場であり おのおのの主観〔過程〕における生そのものであると思われるからです。また それは わたしたちの《自分の目いある材木》であったとしても わたしたちがあの空中の権能の子すなわち悪しき理性なき魂であるというほどには われわれの背負う罪だとは思わないからです。
むしろ各自 主観の生きる道が そのようにそれぞれの十字架をこそ背負うことによって 具体的に――なぜなら人間の一生は このいまの主観において一回切りです―― つまりあの全体的な配置の中の具体的な役割として 決まるということ そのように与えられるということ これであると考えられるのです。わたしたちは これを この生において自由に 採っていい。神の子たるわれわれは 類としての人間であるかのように みな或る一定の客観として生きるのではないからです。両性の対関係においても 一人の男性にとって或る特定の相手である女性が 互いの主観形成に ともに歩むかのように(――しかしもちろん 性として男である人間〔の部分〕は  つまり女性における場合でも その性として男である人間の部分は あの顔蔽いを取り除くべきであり 女性である人間の部分は これを被るべきであるとということにおいて その対関係としては ともに歩むというようにしてだと思います――) 存在するということに 象徴されています。
コミュニスム社会における婦人の共有とは このように 霊として 油塗られた共同主観において 人間の男性の領域が 女性の領域に対して その顔蔽いとなるというようにして やしろつまり神の家が 構成されるということです。女性の部分に いわば公共的な共同主観の霊が顔蔽いを――それは至聖所なる主を見るためですが―― 被せる力を得るということは とりもなおさず 社会全体における共同主観の共同観念に対する勝利 これを象徴して表わします。このことも 史観〔の原理ないし そこからの原則〕であり 理論されるべき共同主観です。あたかもマルクスが 社会の関係は 男の女に対する関係に還元されて捉えられるといたt意味のことを言ったように そのような意味あいをここに見ていいのです。第三の誤謬は そしてそれによってあるいは捕捉されるときの十字架の性格内容は この男の女に対する関係に象徴されるものと考えられます。

  • だから 〔生産‐〕経営 〔経済-〕共同自治におけるコミュニスムは 愛の勝利=霊的な共同主観の確立ということに還元されて捉えられるのがよい。いまは 至聖所から第一の幕屋へ到来するときの過程を 理論として追究し語っています。

(つづく→2007-08-07 - caguirofie070807)