caguirofie

哲学いろいろ

#62

もくじ→2005-05-13 - caguirofie050513

第二部 唯物史観への批判

第三章 唯物質史観に対して キリスト史観は 質料〔を共同主観する〕史観である

第七節b 人間キリストは しかし 神の御言である

  • 永遠の生命が告知され与えられるのに 人間の肉体の現実の死とその復活という手段は それにまさってふさわしい方法はなかったであろう――こう見るのは 不適当ではないと今は考えておく。つまりこの身体史観が 人間の絶望を癒すのでなければ たとえ宗教として慣習となり生き延びる度合いが大きくなったとしても――つまり実際は 宗教ではなく個人の信仰なのだが その――キリスト史観は 滅びるのに時間がかかることはなかったであろうと考えられる。

律法(これに基づいて作る一つの史観)によって生きる者は 律法によって神をのぞみ見つつ生きるのであるが 律法を守る者は誰もいないので かれらアマテラス者は この律法によって死ぬ。(違反の罰は 一応 死刑にまで至る)。唯物史観は 律法をすべて 物質(これを第一原因とすることによってそれとしての物質)の動きの人間の思惟的なアマテラス概念への反映(翻訳)であるとして この律法の外に生きようとします。あたかもこの身体を放棄してのように このただ今の主観を放棄しこの主観の外に主観を求めます。
最初の人アダムの罪を人間の知恵によって共同自治しようとする律法は それじたい霊の働きによるものであり しかもこの律法に生きる人の史観は みづからの肉と律法の霊とを分離させ あたかも夜と昼とを一つの対(つい)として一日を構成し 共同自治の秩序を担うと主張してのごとく 人間の正しい行為をも隠さなければならない(これは共同主観者としてもそうだ)というほどに 不正の行為を統治しようとします。共同主観者はここに寄留しています。しかしキリストなる史観は この律法を 生きて完成させます。昼と夜とから成る一日の構成を変換し 朝から夕 夕から次の朝へ牽き行く道として 生きた史観となられたのです。死ののち三日目に 生きている使徒たちに現われ復活したまうたかれは その聖霊を受けよと言って 道を示されました。今が恵みの日 今がすくいの時と言って 唯物史観による・律法によらない・しかし主観の外に生命を求めるスサノヲ者の自治を 否定しつつ摂取されます。《万国の労働者よ 団結せよ》と言われるのではなく 《諸共同観念に寄留しつつ生きる全スサノヲ者よ わたしが父と一つであるように 一つのものとなりなさい》とその史観の保証金である聖霊をお与えになりました。
この霊的な共同主観によらないでは 律法による共同観念形態は 歴史的にも 移行することは困難なのです。律法の共同観念によらないことを旨とする共同主観自治(ソシアリスム)は 将来すべきつねに将来すべきものとしての聖霊による・しかし今はつねに肉の人にもよる物質者のスサノヲイスム主観共同(もしくは 客観共同)であるのです。
この第一原因たる物質が人間に自己の主観形成を開始せよと命じる或る将来の一時点までは 自己形成を中断した幻想的な聖霊による・だから肉の人による身体(=観念)共同夢としての主観共同を担っています。そうでないと言って しかも唯物史観にとどまる人びとは そのような唯物史観の誤謬を批判することじたい 自己の存在(ないしその根拠)があるとあやまって思い為して 結局 自己の主観形成の開始を――かれらが自身 唯物史観者なのだと言う限りで―― 猶予しているのです。または 頭の中で 紙の上で それを開始している。
このとき 唯物史観のさまざまな形態の運動 いわゆる実践をいま行なっているかどうかは この際 問題とはなりません。この猶予(モラトリアム)の中で あたかも期限の定められていないその猶予が 社会の動きもしくはちょうど神から 解かれることを望み その解かれるまでの前史 仮りの主観形成を行なっているにすぎないのです。このような事態は 主観の自己形成を 頭の中ではあっても主観(身体史観)の外に行なっている――それが正しいと思い為した――結果からにほかなりません。
《自分の命を救いたいと思う者は それを失うが わたしのために命を失う者は それを得るのだ》(マタイ10:39)というこの今の聖霊の働きをほかにして この身体史観・質料史観としての主観共同は 考えられるでしょうか。《この世はわたしにとって わたしはこの世にとって はりつけにされているのです》と言って 霊の人となって身体を保ちつつ この今 共同観念自治に寄留し しかもこの寄留のかたちを 新しい主観共同によって変えてゆくという史観形成のほかに 何か人間の自己形成が 理性的に考えられるでしょうか。それとも これら史観はすべて空しいと言って――この世の生では人間にとって確かにそれも真実であるが 真理はそれをおしえていない―― この古女房のいる旧き館の世界に沈湎するのでしょうか。
《汚れた霊が人間から出て行くと 砂漠をうろつき 休む場所を探す。しかし 見つからないので 〈出て来たわが家に戻ろう〉と言う。戻ってみると 空き家になっていて 掃除してきちんと整えてある。そこで 出かけて行き 自分より悪いほかの七つの霊をいっしょに連れて来て 中に入り込み 住みつく。そうなるとあとの状態は前よりも悪くなる。この悪い時代もそのようになろう》(マタイ12:43−45)というイエスの言葉は 人間の倫理の問題なのでしょうか。
むろん 経験的・倫理的な事象がそれですが 倫理や道徳の問題なのでしょうか。倫理の問題なら このようなことは とっくに 律法による共同観念自治が その報酬と罰を与えてしまっているはづです。質料史観・身体史観は ここに寄留し しかも自己が――ほかならぬ自己が――ここに立つという主観形成でなければならないのです。また 倫理の問題でないと言いつつ 経験的な社会階級闘争のその行動史観に つまりそのように主観の外に 主観の自己形成の全部を しかし第一義的に 委ねてしまうことも もはやこう言ってよければ 不可能です。
われわれは そうではないとしか これの克服のためとしても道がすでに据えられているとしか言わざるを得ません。このことを理論化せず(この理論としてのキリスト史観については 第五章以下にいくらか試みます) 結局なにも言わなかったに等しいかたちでこそ むしろ キリスト史観を主観共同します。これは 《脅迫》です。愛の脅迫かも知れません。なぜなら これを受け取り得ない人は すでに脅迫と感じないでおり われわれは その脅迫の罪を免れているであろうし また これを摂って進もうとする人びとは すでに自己がそのような自己を知り愛している〔と知った〕結果の印象にしかすぎず そのかれらの決意は この脅迫とは何のかかわりもないことになり やはり脅迫の罪をわれわれは免れている。だから これは脅迫ではありません。史観の理性的な形成と言います。
もし 神の国を共同主観夢と言って 内なる自己形成(だれも夢を 外に形成して 見る事は出来ません)がそれであるとするなら ただちに 経済活動や政治的な実践がそれだとは言わず ましてや外なる宗教組織やその活動がそれだとも言わないことは 常識に属します。この或る意味では一見 愚かとも映る物言いを まづは一つの理論ともしたいと思います。

  • 哲学・経験科学を超えた理論の問題として話している恰好です。

(つづく→2007-07-17 - caguirofie070717)